第14話『おしまい』

 雫の足が速すぎる。


 俺も、まあ遅い方じゃないし、女子の足になら簡単に追いつけるんじゃない? なんて楽観視していたが、さすが文武両道を地でいく女だ。陸上選手か、とツッコミを入れたくなった。


 やつに追いつけたのは、ウチから徒歩五分ほどの場所にある公園だ。雫はそこに入ると、ふらふら落ち着ける場所を求める旅人みたいな足取りで、ベンチに腰を降ろした。


 俺は、息も絶え絶えで、舌打ちしてからそのベンチに近寄って、雫の隣に座る。


「くっそ。足速いんだよ、お前」

「し、志郎ちゃん……。ど、どうして」

「あぁ? どうして、って。泣いてる女の子放っておけってのかよ」


 俺は溜め息を吐いて、空を見上げた。まだ日は高い。抜ける様な青空が、頭上には広がっていた。


「でも、でも志郎ちゃんは、あの女の方が、好きなんじゃ……」

「はっ、まあ、そりゃ、好きだった時期もあるかもしんねえな」


 梢は正直言って可愛いし、まあ、付き合うならああいう女の子がいいな、と思った事があるのは、素直に認める。


 ……いや、もうこの際だ。全部言ってしまおう。


 俺がこうして、なあなあの態度を取っている限り、この状況に終わりなんて来ない。


 どっちも大切で、どっちも守ろうなんて、そんな甘い事は二人が許さないだろう。

 だが、雫は俺の言葉をどう受け取ったのか、ますます表情が落ち込んで行く。


「そ、それに、私は……志郎ちゃんを、叩いた……たたいた……」


 まるで呪文みたいに、雫は頭を抱えて、「叩いた、叩いた」と繰り返し始めた。こいつに取っては、俺を傷つけるという事が、よほど重たい罪になっている様だ。


「別に痛くなかったから、気にすんなっての。包丁とかだったら、さすがに怒鳴ってたけどな」


 いや、まあ、ブチ切れてるとは思うが、ここくらいはかっこつけとかないと、かっこ悪いだろ。


「でもっ、私が志郎ちゃんを、傷つけた。傷つけたら、嫌われちゃう……!」


 自分の膝を見つめたまま、雫はそう言った。

 俺は、なんだかそこでムカっと来てしまい、雫の頬を両手で挟み、こっちを向かせた。


「雫、お前、誰と会話してんだ。俺を見ろ。お前は、俺がお前を傷つけたあの時、俺を嫌ったのか?」


 怒られると思っているのか、雫は怯えた様に涙で潤んだ目で、俺を見つめる。


「俺はお前を嫌ってなんかいねえ。あの時、お前を拒絶した俺を嫌わないでいてくれたやつを、どうして俺が嫌いになれるんだ?」


 俺は、もうこいつに優しくするつもりはない。


 厳しくしなくちゃ、ダメなんだ。雫は俺を見ているようで、見ていない。それに今気がついた。


 こいつが見ているのは、過去の俺だ。こいつを嫌った俺だ。


「雫! 俺を見ろ! 俺はお前を嫌ってない」

「うっ、嘘だ! 志郎ちゃんは、あの女の方がいいんだ……あたしの事を、ウザイと思ってるんだ!」


 雫は俺の手を振り払うと、まるで殴られるのを恐れる子供みたいに、両手で頭を庇い、俺から距離を取る。


「何度も言うが、俺はお前をウザイとは思ってねえ。……まあ、聞けよ」


 無理に俺の方を向かせるのもよくないと思ったので、俺は背もたれに体を預け直すと、独り言のつもりで喋った。


「あん時ゃ、悪かったな。だが、男にはああいう時期もあるんだ。それだけはわかってくれ」


 なんだか手持ち無沙汰になってしまい、俺はベンチをコツコツと指の先端で小さく叩いた。


「それと、確かに俺は梢の事が好きだった時期がある。……まあ、恋愛感情と言っていいのかはわからねえけど、付き合ってみたいと思った事はある。今はそんな気、無いけどな」


 ちらりと、雫の方を見た。

 雫は何も言わない。


「今更何言ってんだ、って思われてもいい。俺はな、雫。それでも、やっぱりずっと昔から、お前の事が好きだったんだと思う」


 そこで初めて、雫が俺の方を見た。


「じゃなきゃ、そんな状況のお前に関わろうとしねーよ。自分で気付いてるか? 相当めんどくさい女になってる、って」

「め、めんどくさい……」

「いちいち傷つくな! いいんだよ、別にそこは。めんどくさくない方がいいのは確かだが、それがお前なんだから、仕方ないだろ。そう思われたくないっていうなら、ゆっくり治してけばいい。……隣にいて、悪いトコはキチンと言うから」

「し、志郎ちゃん……」


 泣きそうになった雫を、俺は抱き寄せた。

 一瞬だけ、『ここで腹とか刺されないかな』と思ったりもしたけど、それは秘密だ。


 俺もこういう疑り深い所、治して行かないとな。結局俺のこういう所が原因で(後は自分の気持ちにも気付けないような鈍感さか)、雫には悲しい思いをさせてしまったし。


「悪かった、雫。罰ゲームは、もう終わりだ」


 俺に言える精一杯の言葉。


 雫が頷くのがわかった。


 いや、ほんとに、どれだけ遠回りして、こうなったんだか。

 バカな意地と恥じらいで、一人の女の子を傷つけて、いろいろ無理させた挙げ句がコレだ。


 そんな俺に、雫と梢どっちもなんとかしようなんて甲斐性が期待できるわけがない。


 俺には一人で精一杯だ。



  ■



 結局、その日は雫を家に送って、解散。


 ちょっとだけ上がって、コーヒーを飲んだ。


 その時に、「実は、本棚の裏の日記とか、アルバム気付いてたんだ」と言った。

 すると、ヤツは微笑んで、「もうあれは必要ないね」と言った。


 雫の中にある黒い心が、溶けているのかもしれない。


 その黒い心は、どんな素材でできていたんだろう?


 俺は考えてみるけど、わからない。心がどうやって作られて行くのか、それはちょっとした誰かの言葉だったりするし、いつの間にか出来ていたりする。


 雫の場合は、俺の言葉だったわけだが。

 人の心について考えてみるなんて、俺にはガラじゃないから、すぐやめたけど。



 そんな、休日にあったいろいろを、俺は学校に来て、言うタイミングを見計らい、昼休みになった辺りで、シバケンと千尋に言った。


「俺、雫との罰ゲームやめて、ほんとに付き合う事になったから」と。


 すると、シバケンは一瞬アホな顔を浮かべていたが、千尋はすぐに気付いたらしく、


「そっか、おめでと志郎」


 そう言って、俺の肩を叩いた。


「え、なに? そういう形にしたの、結局」


 シバケンはやっと合点がいったらしく、何度も頷いて、その事実を頭の中で反芻させた。


「ああ。ま、多分最初から心のどっかにゃあった形だと思う」

「だと思ったよ」

「あん?」


 千尋の言葉に、俺は思わず眉を潜めた。


「だって、志郎、最初から先輩と別れたいなんて、言ってないからね」


 俺は思わず吹き出してしまった。


「ははっ。なるほど、確かにな。……単純な事だったわ」


 俺は雫を見捨てる気がないと、何度も心の中で思っていたはずだ。

 でも、それを消極的な手段で誤摩化していた。自分の心に嘘を吐いても、いい事なんて何もない。


「何笑ってんの? 志郎」


 突然背後から、梢の声が聞こえて、俺は勢いよく振り返った。


「びっ、びっくりさせんな梢」

「いつもこんな感じじゃん? 警戒しすぎだって。……そんなんされたら」


 梢は、俺の耳に唇を寄せて、囁く。


「山桜先輩に、キスが一回だけじゃなかったって言っちゃうぞー……」

「お前マジでそんなんやめろや! ここまで来るのに結構苦労してんのよ!?」

「あははっ。半分冗談」

「半分は本気なのかよ……」


 俺と梢が何の話をしているのかわからないらしく、ただ俺達を見つめているだけだった。


「にしても、お前、その、なんだ。結構普段通りだな。まあ、その方が助かるけどさ……」

「あぁ、誰かさんに振られたからね?」


 梢は悪戯っぽい笑みで、俺を見つめる。

 いや、ちょっとやめて。振ったけど、確かに。


「確かに今は振られたけど、でもここで終わりってわけじゃないでしょ?」

「……どういうこと?」

「だって、死ぬ時、最後に隣にいた人が勝ちなんだから。あたしにもまだまだチャンスあるってことよ!」


 俺は、というか、俺だけじゃなくシバケンも千尋もどん引きしていた。


「渋谷、お前……重過ぎ……」


 女の子と付き合った事のないシバケンがそう言うのだから、相当重たいのだろう。

 確かに、死ぬまでが射程圏内と言われちゃ、チャンスはまだまだたくさんあるな。


「そんなわけで、あたしのトコに来たくなったら、いつでも来てねー」


 バイバイっ、と手を振って、梢は女子グループへと戻って行った。

 俺は手を振り替えして、溜め息。


「……一番あぶねーのは、マドンナ先輩じゃなくて渋谷だったのかもね」


 千尋の呟きに、俺達は頷いた。

 どっかで何かを間違えてたら、俺は梢に殺されてたかもしれない。そうならなくて、本当によかった。


「志郎ちゃーん!」


 教室の入り口から、俺を呼ぶ声がした。

 その声に振り向くと、当然、そこには重箱を抱えた俺の彼女が立っていて。


「よかったな、幸せ者!」


 シバケンが、俺の肩を叩く。いてーってば。


「友達より女を優先させると、嫌われちゃうぞ」


 千尋はニヤニヤと笑いながら、そう言った。


「うっせー。お前ら、俺の事情をわかってるくせに。俺はしばらく雫にかかりきりだから、遊べんぞ」

「っかー! 状況的には対して変わってないくせに、嬉しそうな顔しちゃってさ。行け、裏切りモン。お前に貸すエロ本はない」

「借りてねーよ!」


 そんな風に追い出され、俺は雫の元へ駆け寄った。


「それじゃ、行こっか志郎ちゃん」


 俺は雫から弁当箱を受け取って、空いた方の手を雫に組ませた。恥ずかしいけど、こうしておけば安心するっていうんだから、させるしかない。


「幸せだなぁ」


 この状況を噛み締める様に呟く雫に、俺は「こんなこと、これからはしょっちゅうだろ」と言うしかない。

 雫は、さらに力を込めて、俺の腕に寄りかかった。


「ちょっと力強すぎるって、痛いぞ雫」

「……ねえ、志郎ちゃん」

「ん? なんだよ」


 雫が、俺の顔を見上げた。

 その目には、何故か光が無い。

 なんで? あの時このモードはなくなったんじゃなかったの!?


「エッチな本って、どういうことかな?」

「え」


 俺の頭が、背筋が、冷える。

 その割りに思考が冴えて来ないのが笑える。


「待って、マジで待って。借りてないってマジで! 冗談だから、あれは冗談!」


 ……まあ、買ってはいるんだけど。

 持ってない、じゃないから嘘にはなってないもん。


「……放課後、志郎ちゃんの部屋、見せて」

「おっ、おう」


 俺の声が裏返った。

 隣に居る、可愛いけれど恐ろしい彼女にバレないよう、俺は祈るしかない。


 見つかりませんように、と。

 雫と付き合っていたら、きっとこんな事が日常茶飯事になるんだろうけど、覚悟の上だ。


 だって、ちょっとくらい危険な方が、可愛いもんな。



  HAPPY END

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