第11話『かなしい』

 俺は梢を突き飛ばした。


 そんな俺を、梢は信じられないように見つめていた。どんな言葉をかけていいのかわからず、見つめ合うだけ。正確に言えば俺は睨みつけていたのだが、そんな怒気なんて梢は察していないのだろう。くすりと静かに笑って、


「どうしたの志郎? 女の子とのキスを無理矢理中断させるなんて」

「お前っ、お前……」俺は慌てていた。だから口が覚束なかったが、制服の袖で唇を拭いながら、なんとか次の言葉を考える。


「雫っ、雫が、後ろに」

「あぁ……」梢は振り返って、街路樹の陰にいる雫を見る。「知ってたよ」

「はぁ……!? な、何を言ってんだお前は……!」


 雫がヤバい女だって言ったのはお前だ。

 なのに、なんでそれを挑発するような事するんだよ!


「デートの途中で見つけたから、少し宣戦布告しようと思ったんだよ。……あたしと志郎は、これだけ進んでますよっていう、ね」


 こんな事は初めてだ。梢が日本語を話しているのはわかるけど、その意味がまったくわからない。実は外国語を話している、と言われた方が納得できるくらいだ。


「志郎、あたしはね、中学の時からアンタが好きだったよ。読書してる時の指先とか、その手で触ってほしいとさえ思ったよ。でもさ、それを急に、幼馴染だかなんだか知らないけど、今更出て来て志郎持ってくとかズルいじゃん。ちょっと頭おかしくなったくらいでさ」


 屋上での事もあったし、梢が俺に対して恋愛感情を抱いているという事くらいはわかっていた。


「……俺も、お前の事は嫌いじゃない。付き合いたくないって言ったら、嘘になる」


 それは、今の俺が言える最大限だったが、しかしそれでも俺は雫も大事だし、梢だって大事な友達だ。どっちも大事だ。


 でも、俺は……。


「それでも俺は、雫の事をなんとかしてやりたいと思ってる。……それで初めて、お前ら二人をちゃんと見る事ができるんだ」


 俺の所為で二人がおかしくなったというなら、それを治さなくちゃならない。そうじゃなきゃ、俺は恋愛なんてできない。


「だから、山桜先輩なんてとっとと見捨てちゃえばいいじゃん。そんで、あたしの治療に専念してくれればいいんだよ」


 逃げ出したい気持ちで心が一杯になるが、そういうわけにもいかない。


「俺は医者じゃない。それに、お前はそんな必要もねえだろ。治療とか持ち出して来るやつに、そんな必要はない」


 そうは言っているが、俺の足はどちらへ行こうか迷っていた。梢も放ってはおけないし、だからと言って雫の元へ行かないというのも……。

 梢が雫に気付いていないと言うのなら、梢と別れた後に雫のフォローへ行けばいいが。

 ……なんか、浮気男みたいな事考えてねえか俺。すげえ自己嫌悪なんだけど。


 額を押さえ、目を閉じ、溜め息を吐く。


「あははっ」


 梢は唐突に笑い出した。


「……なんだよ。笑い事じゃねえんだよ」


 俺は唇を尖らせて、吐き捨てるみたいに言った。


「志郎を困らせる気はないよ。……ファーストキスもらったお詫びに、今日は帰るね。あっちのフォローでもしてきたら? あたしも後ろからブスリ、なんてやだからねー」


 ばいばいっ、と笑顔で手を振って、梢は駅に向かって走っていった。俺はその背中を見送りながら、「困らせる気なんてないとか嘘丸出しじゃん」と思いはしたが、今その気遣いはありがたいので、雫に駆け寄った。


「し、雫」


 名前を呼ぶ。けど、あぁ、なんて空虚なんだろうと思った。だってそうだろう。こんなの、浮気現場を目撃されて、その言い訳をする前置きみたいな物なんだから。


「……」


 目から光が失せた雫は、俺をジッと虚ろな目で見ていた。


「やめろよ……そんな目で、俺を見るな……」


 そんな目で見られても、俺はどうにもできない。いや、しなくちゃいけないんだけど……。


「雫、俺は……」


 雫に向かって手を伸ばす。だが雫はその手を、思い切り叩き落とした。


「触らないでっ!!」


 ジンジンと痛む手。俺はそれを押さえながら、雫を見つめる。本当に申し訳ない気持ちを抱え、まるでかんしゃくを起こした子供を見るみたいに雫を見つめた。


「悪い……」

「志郎ちゃん、また私を見捨てる気なんだっ! また私の事、鬱陶しいとか思ってるんだ。うざいって思ってるんだっ!」

「違うって! 思ってない!」


 梢が勝手にキスをしたんだ、という言葉を言いそうになって、口を噤む。梢の所為にするのは違うし、俺が梢を拒否しきれなかった事が原因で、悪いのは俺なんだから。


 そう思っているのに、言葉にする事は憚られた。今言っても、雫の耳には届かないだろうと思ったから。


「……どうして、あの子ばっかり……あの子ばっかり、志郎ちゃんのそばにいるの……」


 雫はついに泣き出してしまった。

 ぽろぽろと、大事な物がこぼれて行くみたいに涙を流し、それでも俺をまっすぐ見つめていた。


「無理矢理にでも、志郎ちゃんの隣に居ればよかったかな……?」


 その言葉に頷いたり、肯定の返事をする事はなかった。なんとも言えないから、俺は「……送って行くよ。遅いから」と言うのが精一杯で、涙を流す雫を連れて、雫の家へと向かった。


 ずっと昔みたいに、梢は泣きながら俺の後をついてくる。子供の頃はずっとこうだったけど、俺からそれを拒絶してしまった。当時は雫が後ろにいることに、恥ずかしさを感じてしまったからだ。


「なぁ、雫。当時の俺は、お前を拒絶した頃の俺は、別にお前が嫌いだったんじゃないんだ」


 雫は後ろで黙っている。俺は喋り続けた。


「でもさ、当時の男は誰にでも覚えがあると思うけど、あの時は女子と遊んでると『茶化されたらどうしよう』とか思っちゃうんだよ。恥ずかしいしさ」

「……私は、そんなの知らない……」


 女子ってすげえと思う。

 なんで男は小学校時代とかって、『女子と仲良くするのはだせえ』みたいな価値観あったんだろう。中学からはそんなの無くなるし、むしろ女の子と仲良くしたいくらいなのにな。結局、女の子の方が大人になるのは早いって事なんだろうか。


「まぁ、あったんだ。でも今思うとばからしい事だったと思うし、だからって当時の俺からすれば結構深刻だった。……つうか、雫なら嫌わないでくれる、みたいな考えもあったんじゃねえかな」


 勝手な事言ってるけど、と言いながら、俺はなんだか照れくさくなって頭を掻いた。


「勝手だよ、志郎ちゃん……」

「わかってるさ。だから、独り言だと思ってくれ」


そうして、俺と雫は黙った。自分の家に着くまで雫が何を考えていたかはわからないけど、俺は自分の在り方を考えていた。


 当然、俺は雫を元に戻してやりたいと思っているが、梢もなんとかしなくっちゃならない。どちらも、というのは無理……か。どっちも嫌がるだろうし。


 結局同じ所を堂々巡りしているんじゃないか、という疑惑から抜けられないまま、雫の家があるマンションの前に着いた。


 別れの挨拶もしないままマンションへ入って行こうとする雫の背中に、俺は「なぁ、ちょっとコーヒーもらってってもいいか」と声をかけた。自然に雫の部屋に入る手段が見つからないからとはいえ、我ながら酷い理由だが、雫はちらりとこちらを振り向くと、頷いた。


 今まで雫の部屋に入る時は、いつも地雷を踏まない様に必死だったが、ここまで来るとそういう気持ちも沸かなかった。むしろ、どんな爆発が起きてもそれを受けるのは俺の義務みたいな気持ちでさえあった。



  ■



 どうやら今日も雫のご両親はいないらしい。


 俺は雫の部屋に通されて、二人で小さなちゃぶ台を挟み、向かい合っていた。出されたコーヒーを飲みながら、何を話したモンかと悩んでいたら、雫はぽつりと「……あの子とは、どこまでいったの」と小さく呟いた。


「どこまで、ってお前な……」


 そんな中学生男子みたいな事を、と思ったが、多分高校生だろうが、大学生だろうが、男はいつだってそんな話をしているんだろう。


 男なら、「うるせー」の一言でその話は無視するのだが、雫に言われて嘘を吐いたり誤摩化したりする事ができるわけもなく、正直に言うしかない。


「……キスまで」


 そう言って、俺は黙った。雫は何も言わずに立ち上がると、俺の隣に腰を降ろした。


「キス、してよ」


 その一言は、まるで夜中に水道からしたたる水音みたいに、スッと耳の中へと入ってきた。


「許してあげる。もう志郎ちゃんの事を責めたりしない。だから……」


 悲しい言葉を言わないでほしい。

 俺が悪いんじゃないか。全部、俺が悪いんじゃないか。そう思うと、俺は雫の頬に手を添えて、自然に雫の唇へ自分の唇を運んでいた。


 初めて自分からするキスは、とても心臓が痛くて、弾けてしまいそうだった。


 許してほしいとは思わないし、許されるとも思わない。そして、これが贖罪だという気持ちもない。ただ純粋に、お前が大事なのだと伝える為のキスだった。


 それでも伝わっていない気がするし、もっと言葉を重ねたかったけれど、俺はどうしてもそれができなかった。言葉を重ねても届かない。


 唇が触れるほど近いのに、まるで地球の裏側にいるみたいに、雫の事が遠く感じられた。

 長い、あるいは短い。どっちかはわからないが、俺達は確かにキスをした。


「……雫。俺は、お前の事を大事に思っている」

「うん、わかってる……」


 だが、雫は俯いている。今までのやつなら、喜んでくれた言葉のはずだ。


 それはきっと、この言葉を信じていないから。他の女の子とキスをして、昔自分を拒絶した事のある俺を、ここに来て信じられなくなっているのかもしれない。


「でも、その大事って、何? 彼女として、それとも昔傷つけたから?」

「それ、は……」


 わからなかった。

 俺は雫をどう思っているんだろう。考えてしまった。考えてはいけないのに。

 だからきっと、雫を落胆させてしまったのだろう。


「……今日はもう、帰って」


 その言葉に、俺は頷くしかできなくて、コーヒーを半分以上残して帰る事になった。

 俺は自分が口下手だったのだと、その時初めて自覚した。



  ■



 誰がどれだけ傷ついても、誰かがどこかで死のうとも、平等に朝はやってくる。世界は人を無視して、時を運ぶ。


 俺は起きるのも億劫だったし、学校に行きたくなかったが、体は健康なので母親に追い出されるような体裁で学校へ向かった。


 朝、学校に着くと、シバケンと千尋がいつもみたいに俺の席周辺でだべっていた。それを見ると、俺は何も変わっていないのを実感させられて、なんだか安心した。


「おーっ、来島、おはようっ!」


 シバケンの元気な声に、「おう」と片手を挙げて返事をし、自分の席に腰を降ろした。


「やぁ、志郎。なんだか元気ないね。……朝食はしっかり取ったかい?」


 千尋は穏和な笑みを浮かべる。


「取ってねえよ。食欲がなかったんでな」

「へぇ。珍しいなぁ、志郎が朝食を食べないなんて。お前、結構な食いしん坊のクセして」

「食いしん坊って言うんじゃねえよ。それでキャラ立ててるみたいだろうが」


 シバケンの肩を軽く拳で叩いていると、千尋が俺に何かスティック状のお菓子を差し出して来た。大豆で出来ている、お手軽健康食品だ。イチゴ味。


「これでも食べときなよ。美味しいよ」

「……お前、なんでこんなん持ってるのさ」

「こんなこともあろうかと、思ってね」


 なんだか千尋はそういうパターンが多い気がする。まぁ、ありがたくいただくけど。


 俺はそのスティック菓子を頬張りながら、教室を見回す。そこには当然、梢の姿が。昨日の今日なので正直言って気まずいのだが、やつはそんな事まったく気にしていないらしく、笑顔でウインクして手を振って来た。俺は軽く会釈して、溜め息。


「おいおい、お前、まさか……」


 そんな様子を見ていたシバケンが、目を見開いて肩をワナワナと振るわせている。


「渋谷とヤッたんか……?」


 こういう話題を聞く時、俺は男に生まれた事を後悔する。もっと上品な話題をしようぜ。インテリジェンスをぶつけ合おうじゃん。


「ヤッてねーよ。お前ほんと下品な」

「つめてーやつだなぁ」


 いやらしい笑みを浮かべるシバケンに、俺は「うるせー」と一言。昨日雫に出来なかった事を、シバケンに八つ当たりとしてぶつけているみたいだ。


「そうだ。なぁ、志郎。シバケン。今日の放課後、暇かい?」


 唐突に、千尋は思いついたらしく、俺とシバケンの顔を交互に見て微笑む。


「俺は暇だけど、志郎は?」


「あぁ、まあ、俺も暇」


 どちらも暇らしく、千尋は満足げ気に頷くと、


「なら今日は、久しぶりに男三人で遊ぼう。最近、志郎に彼女ができたり、女の子交えたりばっかりだったしさ」

「いいねえそれ!」


 シバケンが拳を握り、嬉しそうにそれを突き上げた。


 俺も、シバケンほどではないが、それは楽しそうだなと思っていた。最近女性に振り回されてばかりだし、そろそろ男友達と遊んでおかないとな。


 気分転換できれば、雫と梢に対して、いいアプローチの方法もわかるかもしれないしさ。

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