第10話『ぎりぎり』
袋小路に追いつめられた。
あるいは前門の虎、後門の狼と言うべきか。どっちかというとその方が近い。
雫と梢に追いつめられた。
俺は梢より先に教室へ戻って、一人先にいろいろと考えていた。というか、考えるフリをしていたという方が正しいのか。どうしたらいいのかなんて、想像もつかないんだから。
昼休みにもなれば、さすがに梢も教室に戻ってきて、先ほど俺が食べなかった分のパンを昼飯にしていた。
それから少し遅れて、雫が教室にやってきた。俺と雫は、中庭で雫の作った弁当を食べる事になった。
さっきの、梢との事は誰にも言えない。また一つ抱えなきゃいけない事が増えたっていうのは、辟易してしまう事実だ。
その昼休みは何もなかった。さすがに授業中では、雫も俺と梢の間に何があったか見る事なんてできないだろうからな。それだけは本当に安心した。
しかし、放課後だ。俺は帰る準備をして、さっさと心安らぐ我が家に帰ろうと思っていた。そこへ、俺の前に梢が立ったのだ。
「ねえ志郎。ちょっと付き合ってよ」
俺の顔は赤くなったのか、それとも青くなったのか、自分ではわからなかった。少なくとも変色したのは間違いなかったし、『何考えてんだお前!』と怒鳴りつけてやりたかった。
だが、ここはまだ教室。周りにはクラスメートも、千尋もシバケンもいる。
「おいおい、来島は彼女持ちだぜー。そんなやつとお出かけしちゃっていいのかよー?」
なんの事情も知らないシバケンがそう茶々を入れてきた。鬱陶しく感じるかと思えば、俺は意外にもそんなやつを癒しに思っていた。
「いいのよ。そんなんで怒るほど山桜先輩も小さい女じゃないでしょ」
ケラケラと笑いながら、梢はシバケンの肩をばしばしと叩いていた。よく言うぜ。さっきあんだけ俺に雫がどれだけヤバい女か熱弁してきたクセに。
「なあ渋谷。僕もやめといた方がいいと思うよ。マドンナ先輩も、その、あんまいい気分はしないと思うし」
事情をある程度推測しているのだろう千尋は、言いにくそうに梢を止めていた。最終的には俺が断らないとならない、そう感じさせるような語調の弱さだ。確かに赤の他人が、友人とはいえ、首を突っ込んでいい問題ではないだろう。
「いいから、行くよ。その事で話したい事もあるし!」
「うぉっ! ちょ、ちょっ!」
無理矢理、俺を引っ張る梢。なんとか鞄を確保したが、結局梢に牽引されて教室を出る羽目になった。
「お前な、さっき俺に何したか忘れたとは言わせねえぞ。つか、腕離せ」
掴まれていた腕を引き剥がしながら、俺は梢以外に聞こえないよう、小さい声で言った。
「忘れるわけないでしょー。初めてなんだから」
ヤツは上機嫌にそう言った。
初めてがあんな形って、いいのだろうか。そんな事を考えて、自己嫌悪。俺が乙女チックな事考えてどうすんだっつうの。
「俺の思いやり全無視しやがって。いいか、俺はお前が危ないと思ったから、わざわざ一人で雫を戻そうとしてんだぞ」
廊下を歩きながら、小声で話す。怪しまれるかと思いきや、放課後という毎日の事ながら嬉しい時間に浮かれている周りの連中は、俺達なんか気にも止めない。
「やめときなって志郎。あの人は元からあーいう感じだよ。あたしにはなんとなくわかるね」
「幼馴染の俺を差し置いて、なんでお前がわかんだよ」
「さぁねー」
そう言って、ヤツはそれ以上何も言おうとはしなかった。俺はこのまま梢と居るのはまずいと思ったので、「悪いけど、俺は今日——つか、雫をなんとかするまで付き合えねえぞ」と言って踵を返して、教室に戻ろうとした。
「いいのかなぁー。それなら、あたし口が軽くなっちゃうかもよ?」
俺の足が止まった。どういう意味か考えるのに、メモリが割かれているから。
「例えばだけどさ、さっきの事、山桜先輩に言ったら、どうなるのかなぁ?」
たまらず振り返った。俺が見た梢は、梢とは思えないほどの表情を浮かべていた。きっと俺だけじゃなくて、シバケンや千尋、梢を知っている人間が、誰も見た事のない表情だ。
まるで魔女。誘っている。目を細めて、宝石を愛でるみたいに俺を見ている。梢にそんな表情が出来たとは知らなかったし、知りたくなかった。まるで猫がネズミをむごたらしく殺しているのを目撃した時のような落胆。
それでも、俺は梢を嫌いにはなれない。
こいつが本当はいいヤツだと、知っているから。
何かがこいつをおかしくしたのだと、考えてしまっているから
「……わかった。行きゃいいんだろ」
俺はそう言うのが精一杯だった。今は梢と一緒に行くしかない。
いつもみたいに笑う梢を見て安堵しながら、俺は梢の後ろをついていった。
■
学園の生徒は基本的に、放課後遊びに行くとなれば駅を起点に行動する——っていうのは前に話したか。
ともかく俺と梢は、その通例に倣って、最寄り駅へとやってきた。
「何する為に俺をこんなトコまで連れてきたんだよ」
少し不機嫌さを抑えきれず、ポケットに手を突っ込んで周囲を見回しながら俺は言った。駅前の円形広場。その中心にある噴水を横目に見ながら、俺と梢は向かい合っていた。
「そんなの、デートに決まってるっしょ」
「デートってお前なぁ……」
こいつ、雫がそんな現場目撃したらどういう事になるかわかってて言ってるのか?
俺は今も見られてるんじゃないかと気が気じゃないというのに。
「あ、志郎。もしかしてさ、あたしがなんの考えも無しにこんな事言ってると思ってない?」
「思ってる」
即答した。梢の言っている事は、俺の思っている事となんら差がない。
「うわっ。わかってたけど傷つくなぁ。それって、あたしが頭悪いみたいじゃん」
「この現状が頭いいわけねえだろ。俺を脅迫してまで連れてきやがって」
「……あのさぁ。それは悪いと思ってるけど、そうまで露骨に嫌がられると、さすがにマジで傷つくよ。あたし」
唇を尖らせて、子供みたいに不機嫌さをアピールする梢。
「あのな、多分だが、今の状況はまず間違いなく俺の方が正しいはずだ。だから悪いなんて思わねーぞ。俺は今でも手を引いてもらいたいと思ってんだからな」
「……ちぇー。志郎には泣き落とし効かないか」
コロコロと変わる表情を、今度は笑顔にした。こいつが何を考えているのかわからなくなってきて、俺は思わず溜め息を吐いた。
「まあ、別にいいんだけどね。志郎が望む望まないじゃないし。あたしがやるかやらないか、だし」
「首突っ込むなっつの!」
「あははっ。だったら、今日一日付き合ってくれたら、もう何も言わないよ。全部志郎に任せる」
元々お前の問題じゃねえんだよ、とは言わない。今日一日で手を引くのだから、これ以上つっかかっても意味はないし、ここで引いておくのが一番だ。
「わかったよ。今日だけだぞ」
「さっすが! 話がわかる男だねえ」
そんなん言われても全然嬉しくねえんだけど。今、この場から帰っていいよって言われるのが一番嬉しいが、まあ無理だろう。梢だけは巻き込まないようにしようと思っていたのだが。
「じゃあ、いつもの通り遊ぼうか? カラオケとかー、ゲーセンとかー、買い物に付き合ってくれてもいいしー」
行きたい場所を指折り数える梢。いつもの遊んでいる場所と変わらない。デートだから、と変わった事をしないのが、今の俺に取ってはなんだか慰めにも思える。
「任せるよ。特に行きたいとこもねーし」
「なんかそれ、やる気を感じられなくてやだなぁー。山桜先輩にさっきの事、チクっちゃおうかなぁ」
「んな事したら、お前が危ないっつーの」
梢はにっこりと笑い、「冗談だよ、ジョーダン」と俺の背中を小さく叩いた。
「お前な、あんまそこで冗談を言うなよな」
「あはは。……志郎は行きたいとこないの?」
「本屋、CDショップ」
「……志郎ってホント好きだねえ、そこばっかりじゃん」
基本的に、俺の用事は全部そこで済むからな。
「そんなとこは後でもいいでしょ? あたしの買い物から付き合ってよ」
「何見るんだよ?」
「服とか、アクセサリーとか」
「……女子は好きだねえ、そういうとこ」
俺からすれば、服に金を割くという事がいまいちわからん。そりゃ、俺だって好みのファッションってのはあるから、母親任せってわけじゃないが。
「後はゲーセンとかにも行きたいかな?」
「なんでもいいよ、任せる」
「んじゃ行こ!」
梢は俺の手を引き、駅に隣接しているショッピングモールへと歩いて行く。この姿は、確かにカップルの様に見えるのだが、俺がそう見えるのだから周囲は間違いなくそう思っているだろう。もし雫が見ていたらと考えれば、背筋が粟立つのは当然。
まるで風邪を引いて、熱を出す直前の様な寒気が全身を襲った。
その悪寒に耐えながら、梢の目的地へと向かった。梢が行きたかった場所というのは、どうやらファンシーな小物ばかり置いてある店らしく、俺は気まずい思いをしながら、そのやたら目に優しくない色ばかり配色された店へと入った。
デフォルメされたうさぎとかサルとかのぬいぐるみ、陶器のメリーゴーランドに入ったオルゴール、男が夢見る女の子が持ってそうな物ばかりが集うそこは、どう考えても男が足を踏み入れる場所じゃない。
なんか拒絶されてる気さえする。さすがにそれは被害妄想かな。
「……しっかし、梢がファンシーショップたぁ、似合わねえな」
周りは、どう考えてもきゃぴきゃぴした女の子ばかりで、梢はどちらかと言えば綺麗系なので、こういう店は似合わない。
「ぬいぐるみ抱きしめて寝るとかないだろお前」
「この年代でそんなのやってる女子引く」
まるで、夢見てるんじゃねえよいい歳こいて、とか言いたそうな目を俺に向ける梢。いや、わかってっけどさ。
「んじゃあなんだ。こういう店って、抱きしめて寝る用のぬいぐるみ買いに来るんじゃねーの?」
「どういう偏見それ!? 別にそういうのだけじゃないから!」
「え、そうなの? マジか。ファンシーって、抱きしめて寝るって意味かと思ってた」
「そんなわけないでしょ!」
当然、そんなわけないのは俺もわかっていたので、一応『ファンシー』っていう意味をスマホで調べてみたら、「空想」とか「想像」とか、まあ要するに現実には無い的な意味の言葉らしい事がわかった。……ぬいぐるみ抱いて眠る女子なんて空想だ、という意味であるなら、なんか上手い事オチがついた感じするな。
「写真立てとか、インテリアとか、こういう場所だと可愛いのあるから見てるだけでも面白いのよね」
「ふぅーん……」
当然だが、俺の趣味ではない。何事もシンプルが一番だしな。
「ほら、これとかいいんじゃない? キーホルダー」
なんだかラメとかスパンコールとかでキラキラしたハートがぶら下がっているキーホルダーをおすすめされ、俺は辟易としてしまう。
「アホか。そんなの男がぶら下げてたらこえーよ」
「あははっ、可愛くていいじゃない」
可愛けりゃいいってもんじゃねえだろう。
他にもいろいろ見回っているのか、梢は商品をきらきらした目で見つめながら、棚をあっちこっち行ったり来たりしている。最初は俺もそれに着いて行っていたのだが、あまりにも興味が無く、退屈なので、恥を忍んで自分勝手に歩いていた。
「せめてもうちょっと落ち着いた配色にしてくれりゃ、男だって入りやすいんだけどなぁ」
まあ、ここは女性用の店だし、男の来客なんてデートでついてくる男くらいしか期待してないんだろう。俺はうっかり少女漫画コーナーに踏み入れた時みたいな気まずさを引きずっていたが、その時、店内の入り口から一番手前にあるぬいぐるみコーナーで、一匹のうさぎと目があった。
「……」
「……」
向かい合う俺達。そのうさぎは、何も考えていない瞳で俺を見つめて来る。
あぁ、いいなあ、その目。俺もそれくらい、何も考えずに生きてみたいぜ。
「そのうさぎ、気に入ったの?」
「うおっ」
突然隣に立っていた梢に驚いて、俺は飛び退いてしまった。
「気に入ったんじゃねえよ。ちょっと目があっただけだ」
「あははっ。その返し最高にファンシー」
夢見がちって言ってるのかこの野郎。
「買ったげようか?」
「いらんわ」
もう一度笑う梢。楽しんでいただけるようで何よりだ。
……不本意なことに、俺も一瞬雫の事を忘れて楽しんでしまったし。
■
その後、俺達はぶらぶらした。
ショッピングモールの中で、入った事のない店に入ってみたり、いくつかの買い物をした。そうすると、すぐに空が暗くなった。
そんなに遅くなるつもりもないし、母さんから『晩ご飯できた』と簡素なメールも送られてきたので、俺はもう帰る事にした。
「そろそろ帰ろうぜ」
俺がそう言うと、梢は「えー、もう?」と残念そうに唇を尖らせた。手には、先ほど屋台で買ったイチゴクレープ。
「あぁ。俺はそろそろ帰らなきゃだしな。門限とかじゃねーが、食い物が我が家で待ってる」
「志郎って以外と食いしん坊だよね。今だって、ほら」
そう言って、空いた方の手で俺の右手を指差した。そこには、梢と買った、やつのイチゴクレープより数倍大きなバナナチョコクレープがある。
「そんなの食べちゃ、晩ご飯なんて入らないんじゃないの?」
「よく言うだろ、甘い物は別腹だ」
「それ女の子の言い訳でしょ?」
クスっと笑う梢。しかし、突然俺の顔を見て、「あっ」と何かを思い出したみたいに目を見開いた。
「志郎、口にチョコ着いてるよ」
「え、マジで?」
俺はハンカチで口を拭う。
「ダメ、まだ落ちてない」
「こっちか?」
「あー、ちがうちがう。もう、貸して、ハンカチ」
俺は梢にハンカチを手渡そうと、近寄った。
その瞬間、梢の手が、俺の胸元に伸びた。まさかそんな事をされるとは思わず、反応できなかった。
胸ぐらを掴まれ、引き寄せられ、そして、やつは背伸びをしていた。
俺と梢の唇がぶつかる。
またキスしやがって、と思うと同時に、甘いと感じた。
クレープの味だ。梢とキスする時は、いつも甘い。
幸福感、あるいは満腹感? とにかく、甘い痺れが俺の脳髄を貫く。
だが、もっと強い衝撃が、俺の全身を貫いた。
梢のずっと後ろの街路樹、その陰に、雫の姿が見えたから。
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