第8話『どきどき』
雫の部屋は二度目だ。
特別な意識をしているわけじゃないが、それでもなんとなく、もう二度も足を踏み入れたのか、と考えてしまう。
「それじゃ、コーヒー淹れてくるね」
そう言って部屋から出て行く雫を見送り、俺はまた、ドアに耳を当てた。遠ざかる足音を確認して、再び本棚を確認する。
「……増えてるな」
間違いなく増えてやがる。
正直言って確認したくなかったが、しかし自分の状況を理解しておきたかった。一番下の、おそらく最も新しいアルバムを開く。まだ最初の一ページまでしか写真が入っていないらしく、そこには俺と梢がファミレスで話している姿が映っていた。その横には、『殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す』と、とにかく攻撃的な言葉が延々と書いてあった。
まずい。やっぱり雫の導火線に火がつきそうだ。
俺はアルバムをしまい、そっとドアに耳を当てる。まだ雫は戻ってきてない。
どうやって雫の火を消そう。そう思っていたら、俺はふと机と本棚の間にある隙間が目に入った。正確には、その中に入っているノートだった。
……なんだ、これ?
俺はそのノートを取り、パラパラとページをめくった。どうやらそれは日記らしい。始まりは、去年の四月からだった。どうも、大事な日だけノートに記しているらしい。
『志郎ちゃんがウチの高校に入学していた。廊下で志郎ちゃんを見かけた時は、心臓が飛び出るかと思った。……でも、きっと運命だって。そうも思った。志郎ちゃんが私のいる高校に入学してきてくれるなんて、きっと運命。だって、私と志郎ちゃんは相談なんてしてない』
……ただ家から近いという理由で決めた高校だったんだが。
運命って、結構軽い言葉なのかもしれない。
『やっぱり、私と志郎ちゃんは結ばれる運命なんだ。確信できた。あとは、どうやって志郎ちゃんに近づくか、だ。今の私は、学園のマドンナと呼ばれている。その地位さえあれば、志郎ちゃんの方から迎えにきてくれるはず。お姫様を迎えに来るのは、王子様の役目だから』
そんな乙女ポエムを目の当たりにすると、なんだか背中が痒くなってきた。俺は王子様を名乗った覚えはないし、白馬とか白タイツとか乗った覚えも穿いた覚えもない。
その後、次のページに行くと、とても怒り狂った文字が踊っていた。どうやら次は一月後らしい。
『どうして? 志郎ちゃんじゃなくて、他の男ばかりが告白しに来る。死ねばいいのに。志郎ちゃん以外の男はみんな死ねばいい。女もみんな死ねばいい。……何がいけないんだろう。私は志郎ちゃんの為に、理想の女性像を作り上げたはずなのに。何が足りないんだろう。……もっと志郎ちゃんのことを知る必要がある』
どうやらその日からストーカーが始まった様だった。
……一年で本棚裏側いっぱいのアルバムかよ。すげえ根性だ。高校球児じゃないんだから。
その後のページは、アルバムに書ききれなかった俺の行動スケジュールだった。さすがに授業や、絶対抜けられない用事などがあってストーキングできなかった時間もあるようだが、その時間は俺の行動を予測した物が書いてあった。恐ろしいのは、それが半分以上当たってた事である。
……俺の行動パターンって、読みやすいのかな。
もうその日記を読むのも嫌だった。怖かった。自分の行動が知らない所で把握されているというのは、まるで自分の人生がその人間の所有物にされたみたいで、あまりにも気味が悪い。
——っと。少し読み込みすぎたな。
俺は元の位置にノートを戻し、ケータイを見て待ってた風を装い、雫を待った。
「おまたせっ」
ドアを開けて入ってきた雫は、俺の前に二つのコーヒーカップが乗ったお盆を置いた。
相変わらずいい匂いだな。コーヒー党だが、違いなんてさっぱりわからない俺でもわかるのだから、きっと相当いい豆なのだろう。
特に何をしていたわけでもないケータイをポケットにしまって、そのコーヒーを手に取って、口に運んで啜る。
「相変わらず美味いな、お前んちのコーヒー」
「えへへ。褒めてくれてありがと。お父さんがコーヒーにはこだわるから」
そういえば、俺は雫の父親と母親を知らないな。幼馴染なんだから知っててもよさそうだが、知らない。
知らない事を知ると、知りたくなるのが人の性。
「お前の両親ってどんな人なん? 俺、まだ会った事ないんだけど」
「え? ……普通、だと思うけど。両方とも普通の会社員」
へえ、共働きなのか。
そうなると自分で料理とか家事とかできないと、困るもんな。
俺達はコーヒーを飲みながら、互いの家の事についての話になった。そういう流れだったから、雫も「志郎ちゃんのお父さんとお母さんは何してる人?」と訊いてきた。
「親父は滅多に帰ってこねえし、多分忙しい職業なんだろうな。母ちゃんは専業主婦。まあ、こっちも普通」
「へえー……。今度、志郎ちゃんの家に遊び行ってもいいかな?」
「ああ、そうだな。今度来てくれ。できれば前日くらいに連絡欲しい」
また、今日みたいに「今度な」と言って、次の日に「行こう!」では身が持たないしな。
そんな話をしていたら、俺はコーヒーを飲み終わった。そうなると、なんだか腹が減ってきた気がする。腹の虫が飯を食わせろと鳴いている。それを訊いた雫が、手を合わせて、微笑んだ。
「……志郎ちゃん、晩ご飯食べてく?」
「いいのか?」雫の料理は美味しいので、正直言って食べさしてもらえるのなら食べたいのだ。
「うん。それじゃ、ちょっと持って来るね」
……持って来る?
作ってくるじゃなくて?
疑問を口にする前に、雫はそそくさと部屋から出て行った。よくわからんが、俺は母さんに『晩飯はいらない』とメールを飛ばした。
その返事が来るより早く、雫が戻ってきた。
「うおっ」
早さに驚いた俺は、一瞬雫が持っているお盆に乗っている赤い物体がなんなのか、判断できなかった。大きな、肉?
ちょ、待て、待て。何の肉だ。
俺は、ふと、梢の顔が浮かんだ。
「し、雫。……そ、それ、何の、肉?」
「……肉?」
きょとん、と。雫が首を傾げた。そして、くすくすと静かに笑う。
「肉じゃないよ、志郎ちゃん。よく見て」
俺は立ち上がって、その肉と思わしき物体をジッと見る。あ、なんだこれマグロの塊じゃん。
「えへへ。すごいでしょ。お父さん達が友達から貰ったんだけど、生ものだし、お父さんお母さんは旅行行くし、私が貰ったんだ。今日はこれで手巻き寿司でもしようと思って、準備してたんだ」
「……な、なるほどねー!」
ビビった。シバケンから貸してもらったマンガがマイナス思考に拍車をかけてやがる。マグロを……と勘違いするなんて。ああ、考えたくもない。
「にしてもでかいな。お前一人で食べるつもりだったのか?」
「さすがに無理だよ。志郎ちゃんが来てくれたら、と思って、出かける前に手巻き寿司の準備だけはしといたけど」
……俺が他の用事とかで、来なかったらどうするつもりだったんだろう。やっぱり捨てるのかな。もったいない。来れてよかった。
「それじゃあ、私は他の持って来るから、悪いんだけど、志郎ちゃんはあそこのクローゼットから折りたたみテーブル出しといて」
「ああ、わかった」
雫は、マグロを勉強机の上に置いて、再び部屋から出て行った。
俺はクローゼットから折りたたみテーブルを出し、近くにあったティッシュでテーブルを軽く拭いて、雫を待った。その最中に、母ちゃんからメールの返事も来た。
『わかった』というシンプルな物だったが。
やつが持ってきたのは、まぐろを筆頭に、イカソーメンやらカニかまやら、海鮮が多く、かなり気合いを入れて準備していたのだろう。
「それじゃ、食べよっか」
その一言で、俺達は手巻き寿司を食べ始めた。ご飯がいい具合の固さで美味い。酢もばっちりだ。ほんと、家事出来る女だなこいつは。
俺達はそうして、二人で手巻き寿司を齧るというなんかちょっとシュールな時間を過ごし、食べ終えたので、またコーヒーを飲んでいた。
美味い晩飯もごちそうになり、コーヒーまで飲んだのだから、そろそろ帰ろうかなと思っていたら、雫が突然、ベットの上に置いていた自分のハンドバックから、俺のプレゼントしたジョーのCDを取り出した。
「……これ、聴いてみようかな?」
そう言って、勉強机の上に置いていたノートパソコンにCDを挿入した。流れて来る、黒人特有の伸びがあってハリもある、美しい声。ギターも彼が弾いている。一曲目は、ラブソングだ。
若い頃は下品な歌ばかりだったが、最近は結婚したからか、丸くなったらしい。それを不満に思うファンも当然いるが、頻度が少なくなっただけで、まだまだ下品な歌を唱ってくれる。
これは、上品に当たる曲だろう。まるでベットが軋む音みたいに切なく鳴るギター。ジョーの声が、まるで耳打ちするみたいに俺の耳をくすぐる。
雫は、俺の隣に座った。肩がくっついて、というか、雫が俺の肩に頭を乗せてきた。
なんだよこれ。ラブソングが流れる部屋で、すげえいい雰囲気になってる。
雫の顔が赤い。……というか、多分俺の顔も赤い。
この雰囲気はまずいぞ。もうなんか、このままゴールというかスタートというか、とにかくまずい事をしなくちゃならないような空気。
そういえば中学の時、俺が「彼女とどうやってそういう雰囲気になるのか」みたいな質問した時、友達が言ってたっけ……。
『いや、わかんねえけど……。流れで?』
流れってなんだよ、とそいつは周りから言われていたが、なるほど、そういうことか。……っていうか、こういう雰囲気に持ってくのって実は男じゃなくて女の子なんじゃないの?
実はリードされてるんじゃないの、男って。
だが、今、俺がリードされるわけにはいかない。俺はまだそういう、責任が伴いそうな行為をするほど歳食っちゃいないのだ。
…雫にバレないよう、ポケットに手をつっこみ、スマホを操作する。メール画面を開き、返信画面を開いて、先ほど来た母さんのメールに返信する。文章を打ってる余裕などない。
「志郎ちゃん……」
雫が、潤んだ目で、俺に顔を近づけてきた。
まずい。まずいって。何がまずいって、俺が突き進もうとしてるのがまずいんだって!
ヤッちまったら戻れないぞもう! 俺の自由な日々は返ってこないぞ!
俺と雫の唇が、あと少しで触れるという所で、俺のスマホが鳴った。びっくりした俺達二人は、顔を離した。
「わっ、悪い!」
一応謝りながら、ポケットからスマホを取り出す。母さんから電話が来ていたらしく、俺は心の中で『でかした!』と母さんを褒めた。メールだから、メールで返信が来ると思ったけど、電話してくれるとは。
「もっ、もしもし!?」
『あ、志郎。さっきのメールなに?』
「え、もう帰って来いって?」
『言ってないけど』
「ああ、わかった。帰る帰る!」
『だから言ってないって。今日帰ってこなくてもいいくらいよー』
我が母ながら空気読めねえな。電話だからいいけど。
俺は急いで電話を切り、雫に向きなおって、「わ、悪いな。母さんが帰って来いって言うから、帰るよ」
俺は慌てて荷物を拾った。雫は、残念そうに、「あ、うん……」と俯いていたが、こればっかりはしょうがない。俺は今のお前と付き合うわけにいかないからな。
雫に玄関まで見送ってもらい、靴を履く。
「今日はいろいろありがとな」
「こっちこそ、ありがとね」
やはり、さっきの中断が堪えたのだろうか。雫は少し元気なさげだった。
あまり元気を無くされても困るし、俺は、雫の頭を撫でた。
「じゃ、明日な」
そう言って、俺はドアを開けた。
「う、うんっ! また、明日!」
雫はどうやら元気を取り戻したらしい。これくらいで元気になってくれるならありがたいな。
エレベーターに乗り込み、一階へ。マンションを出て、帰路を歩いた。
あぶなかったホント。あのままだったら俺は雫に捕まってた。きっと、抜け出せない底無し沼に片足を突っ込んでいたんだろうな。片足だったからまだ戻れたけど。
憂鬱な気分を抱えて、ふらふらと頼りない足取りで、俺は家まで辿り着いた。俺の癒しは、もうジョーのCDしかない。聞きながら寝よう。
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