第7話『どっきり』
俺はご飯を粗末にするのが嫌いだ。
飯は美味しく食べて、幸せな気持ちでごちそうさまを言わなくてはならない。常々そう思っているのだが、今度ばかりはそうもいかなかった。
先ほどの騒ぎで、周囲の視線がすべて俺と雫に向いている。コーヒーのついたズボンは、もう気の効いた模様みたいになっているが、後でズボンどっかで買おうと思う。
まあ、そんな事はどうでもいい。
俺は肝心のナポリタンをまったく味わえないのだ。喫茶店のナポリタンという、看板メニューを味わえない事がどれだけツライか。これは俺にしかわかるまい。
「ここの料理美味しいね」
ニコニコ笑っている雫。どうやら雫は、しっかり自分の注文したフルーツサンドを味わえているらしい。どうやら周りの視線が気になっていないらしい。
「また来ようね」
おいおい。あんだけの騒ぎ起こしといてまた来る気かよ。もうやだよ。
そうは思うのだが、それを雫に言っても理解されないだろう。俺なんか椅子の座り心地が悪い気さえしているのに。
「……機会があればな」
そう言って、失われた味覚を取り戻そうと試みる俺だったが、結局、ケチャップの味だわ、と思うのが精一杯だった。
■
店を出ようとして、会計の段になって、雫が「ここは私が払うよ」と言い出したので、「いいよ誘ってもらったし、俺が出す」と、少し無理を言って俺が金を出した。軍資金はたっぷりあるし、こんなの全然痛くない。
「ありがと、志郎ちゃんはやさしいね」
雫の笑顔が見れたし、まあ安いもんだ。
そして俺達は、駅に隣接するショッピングモールへと向かった。
さっきコーヒーをこぼされたズボンを買い替える為である。
洗って落ちるならまだ使うけれど、しかし今日は新しく買わなければならない。
……贅沢な話だぜ。普段なら帰ってズボンを手洗いしてるわ。だが、雫とのデートを途中で切り上げるわけにもいかない。そんな事したら、今後どういう影響が出るかわからないからな。
そのショッピングモールは、俺達もよく利用する場所である。何せ、飯を食う場所も、ゲーセンも、服屋もあるんだからな。基本なんでもあるから、ここで一日を潰すという事もザラだ。
俺がいつも買っているチェーンの店に行き、ズボンを買った。
値段と色だけ考慮して、似た様なズボンを買う事ができた。
これで、なんか奇抜な色の尿を漏らしたっぽいファッションからはおさらばするコトが出来たわけだ。
服屋から出て、新しいズボンの慣れない穿き心地に少しだけ落ち着かなかったが、なんにしても新しいズボンというのは穿き心地がいい。
俺と雫は、ショッピングモール一階にある、イベントが行われたりするステージが目印の広場で、次の目的地を考えていた。
「ズボンがやっと新しくなって、落ち着いたぜー……」
俺は、ホッと安堵の溜め息を吐く。コーヒーが落ちたのが膝辺りで良かった。パンツは買わなくてよかったからな。
「付き合わせて悪かったな。行きたいとこ、あるか?」
雫は、驚いた様に首と両手を横に振った。
「いやいやっ。こっちこそ、志郎ちゃんにコーヒーがかかるってわかってたら……」
それがわかったらお前はもう宗教とか作れるぞ。
「志郎ちゃんが行きたいとこに連れてってくれたら、それが一番だよ」
雫の微笑み。横を通る男がそれに見惚れて行ったのが俺にもわかる。俺も、雫が幼馴染だと気付く前は『マドンナ先輩って美人だよなー。誰と付き合うんだろうなー』とか思っていた覚えがある。
それが雫だとわかってなかったし、そもそもそれが、まさか自分だったとは。昔の俺に話しても信じまい。『夢見てんじゃねーぞタコ』って言われるのがオチだろう。
どうして過去の自分って、妙に生意気な感じがするんだろう。不思議だ。
「行きてーとこっつってもなぁ……。俺って普段、本屋かCDショップにしか行ってねえ男だからさ。お前が行っても面白くねえと思うぞ」
「志郎ちゃん、音楽とか本とか好きだもんね」
俺がその趣味に目覚めたのは中学生の時なので、小学生時代から疎遠だった上に、別の中学だった雫は間違いなく知りようがない事なのだが、ストーカーで知ったのだろう。
……こいつ、俺をストーカーしてるって事、隠す気あんのかなぁ?
結局、触れるのも怖いから、触れないんだけどさ。
「じゃ、ちょっとCDショップ見てもいいか?」
「うん。いいよ」
そんな短い相談で、俺と雫はCDショップへ行く事になった。
ショッピングモールの四階までエスカレーターで行き、大手CDチェーン店にやってきた。男店員の「いらっしゃいませー」というやる気の無い声を聞きながら、店内を見回す。あまり客はいなかった。
俺は、真っ直ぐ洋楽コーナーへと向かった。後ろについてくる雫は、珍しそうに店内をきょろきょろと見回している。
「そういや、雫って音楽は何聴くんだ?」
そんな雫が気になって、俺はそれが気になった。
「音楽? ううん。聴かないよ」
「……マジで? それって珍しくねえ? 流行りのアイドルとか、歌手とか、あるだろ」
雫は、こめかみに人差し指を置いて、首を傾げた。
「ううん。テレビも滅多に見ないくらいだから」
俺も普通よりはテレビを見ない方だと思うが(部屋にないんだもん)、雫みたいに滅多に見ないというのは珍しい……。と、思う。どうだろうね。テレビ見る頻度なんてあんま話題に出ないし。
「お前って、普段何して過ごしてんの?」
一つ疑問が解消されると、もう一つ疑問が出て来た。雫、普段何をして過ごしているのか。あの部屋からは想像できなかった。男が想像するような女の子の部屋だったが、あまりにも男が考えるような部屋すぎて、雫個人を感じられなかったから。
「えーと……。お料理、洗濯、掃除、勉強、かな?」
まさかそれだけで過ごしてるんですか。
俺には考えられない。まったく娯楽がないじゃん。無趣味っていうか、もうなんか修行僧みたいだな、その生活。
「志郎ちゃんはどういう音楽聞くの?」
「俺か? 俺は基本洋楽。『ジョー・ティーチ』ってミュージシャンが好きなんだけど……知らねーよな」
「ご、ごめん」
「謝ることじゃねーよ」
ジョー・ティーチ。色っぽい声と抜群のセンスで世界中に根強いファンを持つ。俺と千尋は二人して彼のファンであり、それをとあるきっかけで知り、仲良くなった。ジョーファンだと知った時は、こいつと仲良くなるのに時間はいらないなと思ったくらいだ。
日本じゃ知名度ないもんな。いい曲作るのに。だから来日してくれない。非常に残念だ。
洋楽コーナーにつくと、俺は、まずジョーのCDを漁る。これは家に帰ってきたら手を洗うのと同じくらい当たり前の行動だ。
「おっ! 新しいアルバム出てるな」
CDケースを手に取り、裏面を見る。こないだ映画で使われた曲も入ってるな。よかった、軍資金借りてきて。デート資金だが、正直言ってジョーのCDを見つけてしまうとそれを放ってはおけないのだ。
「おっ、そうだ。千尋にも教えてやんねーと」
あいつもまだ、ジョーのCDが出たって知らねーはずだもんな。俺は真新しいズボンのポケットからケータイを取り出そうとした。しかし、突然雫にその手首を無遠慮に掴まれた。
「うおっ?」
なんだよ、突然。そう思って雫の顔を見た。スイッチが入っているのか、その瞳は洞穴みたいに真っ暗。しかし顔は笑っている。目だけが笑っていない。
「な、なに?」
「千尋って、誰? 女の子? デート中なのに、他の女に連絡するの?」
「はっ、はあ?」
ああ、そっか。千尋ってどっちかと言えば女の名前だもんな。誤解するのも無理はねえか。顔だって女みたいなのに。
「ねえ、志郎ちゃん。千尋って誰? 女の子?」
「ち、ちげえよ。ほれ、いつも俺と一緒にいる、女みたいな顔した男いるだろ。あいつが千尋。俺とあいつは、同じくこのジョーのファンなの」
雫は、俺を見つめたまま固まった。目を見ていない……というより、俺を見るのに集中していないと言った方が正しいか。やつは千尋の顔を思い出そうと頑張っているようだった。
たっぷり一〇秒ほど待つと、雫は「ああっ!」と目に輝きを取り戻す。
「そっか、あの人、千尋くんって言うんだね」
「そう。んで、もう一人の太ってる方がシバケン」
「シバケン、ね。覚えたよ」
紹介した事なかったな、そう言えば。……まあ、あの二人と雫の間に会話が生まれるというのは、あまり想像できないから忘れてたんだろうけど。
「……じゃあ、あの女の子は?」
どの子だ? と聞き返す前に、俺の脳裏には梢が浮かんでいた。こいつ、知っているくせに。すっとぼけてやがるな。
そうわかってはいるのだが、雫が梢を知らないのは当たり前だ、と。俺もすっとぼけなくてはならない。
「梢のことか? あいつは中学からの付き合いでな」
「……仲良くなったきっかけとか、あるのかな?」
「きっかけ? ……そういや、なんだっけ」
俺は、記憶を中学時代へと飛ばした。
雫と出会ったのは、たしか入学してほんとすぐだったはずだ。
「思い出した。俺とあいつ、図書委員だったんだよ」
「……図書委員?」
「そう。中学、二年かな。俺とあいつは同じクラスになったんだけど、そんときゃまだ顔見知りって程度だったな。俺らの中学は、つーかどこもそうなのかな。男女二人ずつで委員会に入らされるんだが、俺は読書に目覚めてな」
読書に目覚めたきっかけは、初恋の人(近所の古本屋のお姉さん。結婚済み。今でもたまに会う。お幸せに)なのだが、これは荒れそうだから黙っておこう……。
「だもんで、俺は図書委員になったんだが、俺と一緒になったのが梢だったってわけ」
「……あの子、本なんか読みそうにないけどな」
「鋭いね。俺も、梢が本読んでるとこなんか見た事無い」
活字だけの本なんてヤダ、と図書委員会中に言い出したほどの女である。俺は児童文学の本を差し出し、読ませてみたが、そうしたら「これ子供向けじゃん! バカにすんな!」と怒られた。
子供向けと言うが、児童文学は普通に面白いんだぞ、と俺は言い返し、結局喧嘩になったが。
「あいつ、なーんで図書委員になんかなったんだろうなぁ……」
俺はふと、顎を摩りながら天井を見た。まあ、どうでもいいことだが。
「……あの女」
ぼそりと、雫が何かを呟いた。呟いた事だけわかる程度の声で、内容まではわからず、俺は「え?」と聞き返した。
「ううん。なんでもない。あ、ごめんね、連絡していいよ」
雫は、今までずっと掴んでいた手首を離し、俺はやっとケータイを取り出す事ができた。千尋に『ジョーのCD出てた』とメッセージを飛ばし、ポケットにケータイをしまおうとした。
しかし、その動作を始めた瞬間に返事が来た。
「はやっ」
ケータイの画面を見ると、『ごめん、買っといてくれない? お金は月曜に出すよ』と来た。
おいおい、マジかよ。
一応財布の中身を確認する。……まあ、まだ余裕か。一応母さんに多めの軍資金を借りてきたからな。今まで金貸して、なんて言ってこなかっただけに、動揺していたのかもしれん。
「しゃーね。千尋の分も買っとくか」
俺は、ジョーのCD三枚を手に取った。
「……あれ? 志郎ちゃん。千尋って人の分と、志郎ちゃんで、二枚じゃないの?」
「ん、ああ。最後の一枚は、お前の分」
「……え?」
「あー……」
呆気に取られる雫を見て、俺はなんだか突然照れくさくなった。さっきまでは、『突然プレゼントして驚かしてやるか!』と思っていたのに、実際驚かれると、なんかすげえ恥ずかしい。
「いや、別に大した意味はないんだが、おすすめだしさ。プレゼントさせてくれよ。いい曲ばっかだし」
雫は真っ赤な顔をして、何度も頷いた。
「う、うん。ぜったい、ぜったい聞くよ」
「そうしてくれ。そしたら感想教えてくれよな」
俺は、嬉しそうに笑う雫を見て、親近感を覚えた。こうしていると、俺は雫の中に裏の顔なんてないんじゃないかと思ってしまう。だが、やつにはあるのだ。俺以外知らない、裏の顔が。
CDは、裏しか読み込まない。俺達は表に書かれた文字や、デザインなんかを読めるだけだ。
本当の事は、大体裏にあるものだ。
■
その後、俺達は本屋にも行った。
CDショップと大体同じ様な行動だったが、雫は本をある程度読んでいて、CDショップよりは対等な会話だったかなと思う。
そうしていると、夕方になる。少しだけ、さっき寄った喫茶店とは違う喫茶店に入って二人でコーヒーを飲み、今日の感想なんかを「楽しかった」と言い合い、空が暗くなってきた。
暗くなると、さすがに女の子を一人で返すわけにはいかず、俺は雫を家に送る事となった。
なにせ近所なので、本当にすぐ着いた。
「今日は、ありがとね。志郎ちゃん。CD、大事にするね」
「ちゃんと聴いてくれよな。んじゃ、俺帰る。またな」
俺はそう言って、元来た道を帰ろうとした。しかし、雫から、「ねえ、志郎ちゃんっ」と呼び止められ、振り返る。
「……あ、あのね、志郎ちゃん。実は、その、今日、お父さんとお母さん、いないんだ」
「なんで」
「そ、それは、一泊二日の温泉旅行に行ってて。……それで、志郎ちゃんさえよければ、なんだけど。今日、ちょっとだけ家に寄ってかないかな?」
「……はぁっ!?」
両親の帰ってこない家に、雫と二人きり!?
頭の中を、いろんな要素がグルグルと駆け巡る。
ここで断ってしまいたい。俺だって男なので、雫と誰も帰ってこない家に二人きりになったら、結構ヤバい。でも俺はそういう事を、まだしたくなかった。それはもう最後の最後。責任とかそういうめんどくさい話は、もっと先になってからじゃないと、聞きたくもない
しかし、ここで雫の誘いを断るのは、雫の導火線に火を点けるという事になりかねないのではないだろうか。
それは困る。梢だって危ないかもしれないし。
走馬灯みたいに、いろんな計算が頭を飛び交った。結局の所、雫に火を点けない為には、俺が火を振り回さない事しか方法がないわけで。
「……それじゃ、ちょっとだけ」
結局、そう言うしかなかった。
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