第3話『はやばや』
笑ってる場合じゃなかった。
俺はまず、そのアルバムを早急に本棚の奥へ隠す事をしなくてはならない。隠しているということは、秘密にしたいという事。
よくわからんが、アイツからは……っていうか、アイツのアルバムからは執念に似た何かを感じる。俺がこれを知ってしまったと教えるのは非常にまずい。
アルバムを戻し、部屋の入り口であるドアに耳を当てる。足跡は聞こえない。まだ戻ってこない様だ。俺は安堵の溜め息を吐き、床にあぐらをかいた。
考えなくちゃならないのは、雫が俺と同じ学校に通っていた事を知っていたという事。その知っていたという事実を、ヤツは俺に隠していた。
おそらく、隠していた理由はアルバムだろう。
ヤツは俺をストーキングしてやがった。それも、本棚がパンパンになるほどアルバムがあるという事は、かなりの長期間だ。これがバレて引かれない訳が無い。
事実、俺はいま無性に帰りたい。この家が人外魔境に思えてきたくらいだ。
しかし、帰るわけにはいかない。雫はおそらく俺の家も知ってるし、そもそも同じ学校だ。すぐ見つかって何故逃げたか問いつめられる。たしか、シバケンから『マドンナ先輩って勉強もスポーツもできるんだよなぁ。完璧超人だよなぁ』とか聞いた事がある。
そんな人間が頭悪いわけがない。つまり、俺がここで帰れば『アルバムを見た』と言ってしまったのと同義。
そうなればおそらく、ただじゃ済まない。
そして、アルバムの内容から考えるに、雫は梢に敵意を持っていた。それなら『なるほど。渋谷梢っていう名前だったんだ』という独り言も頷ける。雫は俺とやつが話しているのを見て、顔だけは知っていたんだ。
梢とはよく話すからな……。それで敵意を抱いているんだ。
……俺は、千尋やシバケンとした会話を思い出していた。
あれは、俺と千尋がシバケンの家に遊びに行った時だ。
シバケンはアニメやゲーム、サブカルが大好きで、よく俺達におすすめを見せてくれる。
たまに変なのもあるが、そんな中で、一つ。ストーカーを題材にしたアニメがあった。ヒロインの子は主人公に対して異常な執着を見せ、そして最後には主人公を殺す。
「こんな女、怖くて付き合ってらんねーよ」
俺の視聴後の感想はそれだった。しかし、シバケンは、「危険だから面白いんじゃねえか。女ってのは多少危険なくらいがちょうどいいんだよ」と、まるで歴戦のモテ男みたいな台詞を生意気にも吐いてきた。それは千尋レベルの顔面があって初めて言える台詞だ。
その千尋も、「僕もこんな女の子、嫌だよ。付き合ってたら束縛キツすぎて、胃が消滅しそう」と苦笑していた。
「こういうの、ヤンデレって言うんだぜ」
そう得意げに言うシバケン。俺も千尋も、アニメにはあまり詳しくない。シバケンに勧められて見る様になったくらいだからな。
「『病んでる』と『デレる』の合体造語で、まあ精神を病むくらい主人公が好きなヒロインって事。タイプは様々だが、まあ共通してるのは、水面下でとんでもない事してるってくらいか」
「そんな女いないだろ」
「そーそ、いないいない」
俺と千尋の反応に、シバケンは笑った。
「現実にいたらこえーよ!」
いたんだな。現実に。
俺は頭を抱えた。相変わらずここは雫の部屋だ。シバケンの部屋だったらどんなによかったか。
とにかく、雫はその『ヤンデレ』というヤツなのだろう。
俺が知らない間にそうなっていて、なぜか俺をストーキングしていた。
……待てよ? そういえば、あのアニメの主人公は、いろんな女の子と仲良くなって、ヒロインの子は主人公のそんな優柔不断さに不安を覚えて、刺してしまったんだったよな。
もし、もしもだ。雫がそのヤンデレってやつだとしたら、俺が雫のご機嫌を取っていれば俺は刺されないし、梢だって危なくないんじゃないのか?
あのアニメの主人公は、ヒロインを侮りすぎていた。だが、俺は雫を侮らない。学園のマドンナだぞ? 信頼度は確実に向こうの方が高い。地位に置いてもだ。
「おまたせ」
後ろから突然声がして、俺はびくっと肩を跳ねさせた。
「志郎ちゃんはコーヒーがいいんだよね? 濃いブラック」
「お、おう。ありがとう」なんでこいつは、俺がブラックコーヒー飲める様になる前から疎遠だったのに、俺がコーヒー党だって断定してきたんだろう、と思ったが、まあストーキングの成果ですよね。
「ねえ、志郎ちゃん。もしかして、部屋の中とか見て回ったりした?」
俺は一瞬固まった。やつの表情は笑顔だ。見られたら恥ずかしいな、とでも思っているのだろう。
「あんま見てねえよ。女の部屋じろじろ見回すのって、なんか変態っぽいだろ」
これはわりと本音である。ただボロボロの料理本が気になってしまい、取っただけで。……まあ、そこが一番の秘密だったとは思わなかったわけだが。
俺はコーヒーを一口飲む。美味い。
なんだこのコクは。この香りは。鼻の奥へと抜けて行く、芳醇な香り。そして、どこまで行っても舌が味の全貌を解明出来ないコク。俺が今まで飲んだコーヒーより圧倒的に美味かった。
驚いて、コーヒーを見つめる俺。カップの中で、俺が覗き返していた。なんて間抜け面だ。
「ふふっ。驚いた? 志郎ちゃん。それね、すっごくいい豆なんだよ。志郎ちゃんの為に買っといたんだ」
いつ買ったんだ!?
……昨日か? だとすれば、俺を今日家に呼ぶのは、予定調和だったのか。
いや、もしくはもっと前……。俺が来るまで、買い続けてたとか……?
そんな恐ろしい想像をして、俺は寒気を感じた。ぶるりと体が震える。
「どうしたの志郎ちゃん?」
俺の様子がおかしいことを察知したのか、雫は俺の顔を覗き込んできた。
「なんでもねえ」そう言いながら、コーヒーを飲んだ。
このコーヒーの美味さが、なんとも不気味だった。
「そういえば、志郎ちゃん。一つ、聞きたい事があったんだ」
「なんだよ?」
雫は微笑んでいた。けど、目は笑っていなかった。
「志郎ちゃんって、彼女とか、いたことあるのかな?」
「……いや、ねえけど?」
俺は、なんでそんな質問をされたのかわからない。という感じで答えた。リアリティを増す為に少しだけ、その質問はなんだろうと答えていたような間も作った。
いや、実際いたことないんだけどさ。俺は男同士で遊んでる方が面白いので、彼女とかはどうもね。
「そっか。よかったよ。私が初めてってことなんだね」
「……そ、そうだな」もうこいつ、フリっていう建前はどうでもよくなってきてるな。「でも、一応言っておくが、これはお前に告白がいかないようにする為の偽装なんだよな?」
「そ、それはそうだよ。やだなぁ志郎ちゃん!」
俺の胸辺りをポンと小さく叩かれる。そして、二人で笑った。多分、雫は誤摩化す為に。そして俺は、現実逃避で。
なんで雫が俺に執着しているのか、なんとなく予想はできる。
かつて、俺が雫を突き放してしまった事が原因なんだろう。
俺はなんとしても、雫の執念が俺への……あるいは他の誰かへの憎しみにならない様にしなくちゃならない。それが雫の為であり、そして俺の友達の為だ。
■
その後も、他愛のない話をして、その日は解散になった。
コーヒーはおかわりまでもらってしまった。
なんか疲れたっていうか、胃が痛い。コーヒー飲みすぎたのかな、と思ったが、そんなわけないな……。
「はぁー……」
大きな溜め息が辺りに響く。だが、周囲に人影はない。もう夕方。ちびっ子達も家に帰って、お母さん方も夕飯の準備とかしているんだろう。
今日のウチの晩飯はなんだろうなぁ。
曲がり角を曲がって、俺は「あ」と口を開いた。先から梢が歩いてきたのだ。帰宅途中なのか、制服を着ている。
「よぉー。梢じゃん」
「ん? あれ、志郎じゃん」
やっほー、と手を振りながら、俺達は互いに歩み寄って、手が届く距離まで近づいた。
「山桜先輩の家に行ってたんじゃないの?」
「行ってたが、帰ってきた」
「……ヤッた?」
「お前なぁ!」俺は少し怒った。元々下ネタがあんまり得意じゃないというのもあるが、それどころじゃない精神状態だったというのもある。
「ジョーダンじゃん! 相変わらず志郎はノリ悪いなぁ」
今にもぷんすか言い出しそうに、やつは頬を膨らませる。
「あ、それよりさ、晩ご飯もう食べた?」
「いや、まだだけど」
「なら食べにいこーよ。山桜先輩について、話したい事もあるしさ」
「え、まあ、いいけ—―」俺は、了承の言葉を出そうとした。しかし、その瞬間。ぞくりと、冷たい物が俺の背中を撫でた。
俺はできるだけさりげなく、そしてゆっくり後ろを振り向く。
そこには、雫がいた。いや、正確には、曲がり角に隠れて、こちらを窺っていた。一瞬しか見えなかったけど、間違いない。梢は、どうやら俺が死角になって見えていなかったらしい。
「わっ、悪いなぁ梢! 俺、今日用事あったからダメだわ! お前も、誰かと付き合う前にあんまり男と食事行こうとか言うなよ!」
じゃっ! 俺は手を挙げ、その場から走り去った。
そうか、もし今俺が梢と食事に行ってたら、やばかったのか、もしかして!
俺は、雫の気に入る行動しかとれなくなったってことか?
頭の中では重大なストーカーに対する打開策を生み出す為の思考が行われていた。しかし体は、そのストーカーから逃げる為に走っていた。
家に飛び込み、そして急いで靴を脱ぎ捨て、俺はベットにダイブした。
やべえよ。昔は俺の後ろをついてきて、ずっと『志郎ちゃん、志郎ちゃん』って言ってた幼馴染が、今度は違う意味でついてきてるよ。どうなってんだよこれ。
俺は、ベットボードに置いてあったCDプレイヤーのリモコンを取り、操作して、音楽を流す。いくつかCDを入れておいて、それをジュークボックスみたいにセレクトできる、ちょっと高めのプレイヤーだ。
そこに入れておいたお気に入りのミュージシャンの名盤を流す。
このまま音楽と読書だけして生きていきたいが、そうもいかない。そもそも生きていけるかどうかが微妙である。
いくら雫でもさすがに人殺しはしないと思いたいが、ああいう手合いに出会ったのは初めてなので、最悪のパターンまで想像しておかなければならない。
俺は、ポケットからケータイを取り出し、シバケンの番号にかける。
『よう、どうした?』
番号通知で俺だとわかっていたシバケンは、すぐにフレンドリーな態度で電話に出た。
「いや、ちょっと相談があるんだけどさ」
『俺にぃ? 一応言っておくが、金なら貸さないぞ』
「そうじゃねえよ。……こないだ見たアニメで、ヤンデレっつーの出て来たろ?」
『あ? あぁー、出て来たな。それが?』
「ああいうのって、もっとあんの?」
『あるけど』
あるのかよ。あれってそんなに需要あんのかよ。
『なんだぁー? お前、ハマったのか?』
「必要に駆られたんだ! ……マンガでもアニメでもなんでもいいから、ヤンデレヒロインが出て来るやつ貸せ。明日、学校に、持ってこい」
『な、なんだよこえぇなぁ……。ま、いいや。オッケー。持ってく。今度、なんか奢れよな』
「おう! 奢るぜ!」
俺は礼を言うと、電話を切った。
フィクションと現実をごっちゃにするのもよくないが、こういう時マニュアルが欲しくなるのは現代人の性である。アニメでもなんでも、雫と同じようなメンタリティを持つ女を見ておくのは悪くないはずだ。
……つーか、俺は今まで、なぜ雫からストーキングされていると気付かなかったんだ。いや、むしろ、気付いたからこそ俺のアンテナが敏感になって、雫の殺意に気付く事ができたのか。
これからの毎日、俺はアンテナを立てまくり、雫の機嫌を取らなくてはならない。
なんて心が疲れそうな毎日なんだ。
天井に向かって溜め息を吐く。下から聞こえてきた「志郎ごはんよー」という母ちゃんの声に反応するのが一瞬遅れた程度に、俺は動くことすらめんどくさかった。
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