第2話



 地域小規模児童養護施設『あおば園』

 それがこの一軒家の名称だ。堅苦しい施設紹介だけど、昨今ではグループホームとも言うらしい。その辺のこと、あんまり詳しく知らないけどさ。

 そのグループホーム云々はさておき、僕の自宅はここなのだ。自宅ではあるけど、両親と一緒に暮らしているわけではない。僕を含めた三名の子供と職員一人が同居している。

 こういう施設で暮らす子の大半は両親から何らかの虐待を受けていた子だ。ネグレクトなり性的虐待なりを受けていて、親と居ることがマイナスにしかならない場合このような施設で暮らすことになる。

 玄関に入り靴を脱いでいると、奥から職員の一人が出迎えてくれた。


「河上君。遅かったねえ」


 何処か余所余所しく声を掛けてきたのは、眼鏡を掛けた痩躯の男――あおば園の職員、高木たかぎさんだった。特徴である狐目を更にすうっと細くさせて僕を見つめてきたが、別に詰問しようして発した言葉ではないだろう。


「遅れてごめんなさい。友人と遊んでたんですけど帰してくれなくて……」


「そうかいそうかい。まあ、問題だけは起こさないようにね。心配だからさ」


「気を付けます」


 高木さんの口から出ているのは形ばかりの心配の言葉だ。呆れて呆れて反吐が出るけど、嘘を塗り固めた言葉で返す僕も僕だ。

 意味のない会話を終えてから脱衣所でとりあえず手を洗い、抱えていた食べ物を自室に置く為に二階へ上がった。部屋に直行しようと思ったのだけど、階段を上がり終えたところで自室じゃない方の部屋からさながら弾丸のように幼女が飛び出してきた。


「おかえりなさい! おにーちゃんおそかったんだね!」


 ニコニコと笑みを浮かべながら八重歯を覗かせるのは橘実夢たちばなみゆだ。

 ちなみに『おにーちゃん』と言われているけど血は繋がっていない。

 実夢と視線を合わせようとしゃがみ込んだ瞬間、相沢に蹴られた背中が痛んだ。だけど彼女が笑ってくれるだけで、心は少しだけ楽になる。なんか、こう、癒やされる。

 プラマイゼロだばーか。と心の中で相沢に呟いた。

 裏表のない実夢は接するのが気持ちが楽になるのだ。だからこちらも自然と笑みを浮かべてしまう。


「ただいま! 友達と喋ってたんだー。いいだろー。っていうかもう夜も遅いんだから走っちゃ駄目だぞおー危ないんだぞおー」


 そう言いながら実夢の頭を撫でると何故か彼女はぽうっと顔を赤くさせ、蚊の鳴くような声ではあいと返事をした。なんか恥ずかしかったのかな?

 どうしたんだろうと小首を傾げながら空いている手を実夢と繋ぎ、二人で自室へと向かった。

 自室の戸を開けると当然真っ暗だったので電気を付け、それから勉強机の上に安田さんから貰った食べ物を置いた。


「おにーちゃんそれ何?」


「お兄ちゃんにも分からないんだよねえ」


 意地悪をされていると思ったのか、実夢はうううーとうなり声を上げながら軽く睨み付けてきた。正直相沢なんかよりもよっぽど怖いんだよなあ。


「多分食べ物だと思うんだけど、まだ見てないんだよね。あとで一緒に食べよっか?」


 たべる! と機嫌の悪さが消えた元気の良い応答が聞こえ、また僕は笑ってしまった。

 嬉しさからか実夢はジャンプを繰り返し、その度に肩まで伸ばした髪がピョンピョンと揺れていた。


「じゃあお風呂行ってくるから待っててねー」


 と言っても湯船に浸かるわけではなくシャワーを浴びるだけだ。


「風呂なんかに浸かったらぜってえ痛む……」


 そうぼやきながら手早くシャワーを浴びたけど、背にお湯が掛かる度にチクチクと痛みが走った。

 風呂を上がって脱衣所で着替えている最中、仕切りになっているカーテンがバッと音を立てて開かれた。


「きゃっ」


 僕は甲高い声を出しながら手に持っていた寝間着で下腹部を隠した。

 カーテンを開いたのは橘由莉たちばなゆり――実夢の姉だった。肩まで整えたセミロングの髪。薄い目鼻立ちに柔らかそうな唇。百五十センチほどの身長。すべて淡い印象を受けるから年下に感じてしまうけど、彼女は立派に年上だ。彼女が着ている制服の胸元には緑遠高校と刺繍がなされている。……やっぱりどう見ても高校二年生とは思えない顔立ちをしている。

 蛇足になる上にどうでもいいことだけど、緑遠高校って結構偏差値が高くて、地頭が良くないと進学することが叶わない高校なのだ。化け物レベルの進学校ではないのだけど、それでも僕には手が届かないレベルだ。

 そんなわけで。

 頭の出来が大変よろしい由莉なのだけど、何故か彼女は僕のことをじろじろと眺めながらその他の行動を停止させていた。


「…………」


 いやおかしいでしょ。なんで沈黙してるの。早く出てってくれ。


「あの。何してるの? 寝間着着たいんだけど」


「……いんやあ……」


 やっと言葉を発した由莉はそこで口を閉ざし、クスクスと喉を鳴らしながら視線を僕に合わせ、それから下を向いた。


「粗末なもんだなあって」


「うるさいしトラウマもんだわ!」


 投げ付けられた暴言に胸を抉られて泣きそうだ。


「声大きいって。もう夜なんだよ? 分かってる? ねえ頭大丈夫?」


 さっき似たようなことを妹さんに言ったような気が……。


「分かったから三分くらい待ってて」


 僕がそう言うと由莉は踵を返し、ひらひらと手を振ってからカーテンを閉めた。

 ゴシゴシと髪を拭き、くすんだ水色の寝間着に手早く着替え、カーテンを開けた先で待っているであろう由莉を呼ぶと彼女はトコトコと歩いてきて、


「実夢の相手お願いね。いつもありがと」


 と殊勝なことを言ってきた。いつもこんな感じだと良いのにね。

 はいよと返事をして、それから僕は台所に向かった。冷凍庫からサランラップに包まれた冷凍ご飯をを取り出し、それを温めている間に作り置きの麦茶をポットに入れコップと共に一度自室へと持って行った。

 さて実夢はどうしているかなあと思いながら自室の戸を開くと、幼い彼女は目をキラキラと輝かせて待っていた。


「もうちょっと待ってね」


「はあい!」


 元気の良い返事を聞きつつ、僕は隅に立て掛けてある折り畳みテーブルを部屋の中心に設置しようとした。机の重量はほんの数キロにも満たないけど、身体を動かすのはやっぱり疲れる。肉体労働は僕に似合わないよなあ。

 そんなことを考えているとガチャリと戸が開いた。顔を覗かせているのは由莉だった。

 どうしたんだろうと思っていると彼女はしたり顔で、


「ご飯レンチンし終わってたよ」


 と告げてきた。

 大皿に乗せられたご飯からは真っ白い湯気が立ち上っていて、見ているだけでは毒になりそ

うだった。わざわざ持ってきてくれるなんて気が利いてるなあ。お腹に入れたいのでそれを渡して……っておい。


「ねえ」


 思わず由莉に声を掛けてしまった。


「何?」


「なんで普通に三人分の箸持ってきてるの?」


 由莉はキョトンとした顔をしながら答えた。


「私も食べるからに決まってるでしょ……?」


 そうですか……。

 っていうか二膳分しかチンしてないよ。それを三人で食べたらどう考えても僕の分のご飯が少なくなるよ。

 誰にも聞こえないように小さくため息を吐いてから、実夢が持ってきた座布団の上に座った。

 対面に座った由莉は安田さんから貰ったおかずを早速開封しようとしていた。


「ねえねえ、ミユがおざぶ持ってきたんだよ!」


 こうやって自分の手柄を誇示するのも幼い頃しか出来ないもんなあ。などと思いつつ僕は実夢に労いの言葉を掛けた。


「いいこいいこ」


 そして僕は隣から聞こえる実夢の可愛らしい笑い声を聞きながら由莉に尋ねる。


「妹に嫌われてるの?」


「えっ。なんで?」


 なんで実夢は僕の隣に座ってるんだ。普通由莉側に座るもんじゃないの?


「最近由莉より僕の方に懐いている気がして……」


 そう発言するや否や由莉は苦笑した。


「懐いてるっていうか……ね?」


 由莉は言葉の矛先を妹に向けると、実夢は我心得たりと言った表情でにんまりと笑った。

 どういうことだろうなあと思いながらも僕は手を合わせていただきますと唱えた。

 安田さんから貰ったおかずパックを(由莉が)開いてみると、山盛りの唐揚げがあった。もう一つのパックにはメンチカツとコロッケが入っていた。


「おいしー……」


 唐揚げを囓った実夢がポツリと呟いた。


「冷えても味濃くてほんっと美味しいー」


 味を賞賛しながら食べ続ける由莉。箸を口に入れるペースがおかしいなー……。

 食卓で繰り広げられているのは由莉の暴食だ。


「ご飯食ってなかったの……?」


「ううん。バイトの後にコンビニのおにぎり食べたよ」


「しょうがないか。そりゃあ一個じゃ足りない――ん?」


 由莉は小さな指でVサインを作っていた。二つも食べてまだ食べるのかよ。

 まあ、そんなわけで。

 あれよあれよという間(どことなく死語っぽいねこの言葉)に唐揚げとご飯が消えた。

 由莉のお眼鏡に適わなかったのかコロッケはまだ残されていて、僕はホカホカのご飯を脳内に浮かべながら、それをお供にコロッケを食べた。冷えていても尚サクサクとした衣。ジャガイモの素材そのものを感じるようなホクホクさ。大量のタマネギが更に甘みを出し、そして安田……あ違う。YASUDA肉屋の本領発揮である国産和牛の挽肉の肉々しさ。絶妙なバランスの塩胡椒。

 美味しい…………。

 しっかり噛みながらせめて満腹中枢とやらを満足させようとしていると、横から実夢が僕の口元を覗いていた。今まさに口に入れようとしているコロッケ(二分の一サイズ)を物欲しげな顔で見ていた。

 そういや、実夢は夕飯はどうしたのだろうか。食べてないのか……?


「実夢、家に来てからなんか食べたりした?」


「ソバ食べたー」


 蕎麦なんてあったっけと思案してからすぐに思い出した。買い溜めしていた小さなカップ蕎麦が確かにあった。だけど……


「それを夕飯にするか普通……」


 手の込んだモノを作れとは言わないけど、何かあるだろうに。卵焼きだってウインナーだってちょっとした工夫をすれば立派な食事になるのに。

 ……と内心で文句を垂れてみるけど、基本的には僕が悪いのだ。

 洗濯と食事は由莉と僕が日替わりで担当していて、今日の食事担当は僕だったのだ。直接の原因が僕に無いとはいえ、遅れたという事実は変わりようがない。

 どのような食事であれ、用意してくれただけ感謝をすべきなのかもしれない。

 育ち盛りだもんなあ。実夢は食べなきゃだよなあ、とは思う。そうは思うけど僕のお腹だって確かに鳴っている。

 食事を作ってあげられなかった罪悪感と自身の空腹感がぶつかった結果。


「お兄ちゃんお腹いっぱいだからコレ食べてくれる?」


 さよならコロッケ。


「わかった!」


 口をあんぐりと開けてはいるけど、中に入る容量は当然僕より少ない。僕なら一口のそれを三口ほどに分けて租借しているのを見て、なんだか少しだけほっこりした。


「どーしたの?」


 モグモグしながらそう尋ねてくる実夢に苦笑してしまう。笑っていたのが気になったんだろうけど、別にどうしたってことはないんだよなあ。

 敢えて言うなら。


「んー。たくさん食べてる実夢は可愛いなーって」


 実夢ははにかむような笑みを浮かべ、やったーと小さく声を漏らした。

 本当に可愛らしい。腹はともかく気持ちは満足です。

 実夢が食べ終わるのを待ち、僕がご馳走様と言うと続けて二人も同じセリフを唱和した。

 頂きますだのご馳走様だの、一人で食べるのならば絶対に発言しないだろう。だけど、まだ小さい子が居るのだ。常識というか教養というか、そういうのを教えるのは年上の役目だろうと思う。

 隣に座っている実夢は目を擦ってウトウトし始めていた。そろそろ解散だなと思って正面に居る由莉に視線を移すと、彼女は微笑みながら僕を見つめていた。

 ほんのちょっとだけ気恥ずかしくなってぶっきらぼうに声を掛けた。


「なんだよ?」


「実夢を見てる目つきが凄く穏やかで……なんか……」


 ――お父さんみたい。


 そう呟いた由莉は笑っているけど、何処か寂しげだった。それからすぐして、気を取り直すように小さく頭を振った。手早く食器を一カ所に纏めた由莉は今にでも眠ってしまいそうな実夢に声を掛けた。


「ほーら歯磨き行くよー?」


 食器洗いを手伝おうかと申し出たけど、由莉は僕の顔に人差し指を突きつけ、


「それは私の役目!」


 と宣言した。変に気合い入ってんなあ。

 姉の気合いに感化されたのか、実夢はフラフラしながらも立ち上がった。由莉は千鳥足気味の実夢の手をガッチリと繋ぎながら一階にある洗面所(兼脱衣所)まで連れていった。

 そして急ぎ足気味で戻ってくると、今度は纏めてあった食器を手に取った。

 部屋から出て行く手前で振り返り、伏し目がちに言った。


「たぶん後で来るから」


 それだけ言うと、由莉はすたすたと下に降りてしまった。

 自室を見渡しながら息を吐いた。


「んー……」


 来るのに文句はないんだけどさ。

 麦茶のポットも持って行ってくれよなあ。絶対重いから置いていったんだろうなあ。

 ポットの中身を確認すると、まだまだ麦茶は入っていた。

 どうせまた後で由莉も来ると言ってたし、後ほど飲もう。

 電気を消してベッドに入り込むと、すぐに眠気が襲ってきた。

 敷き布団も掛け布団も安物なのか、どこか固さを感じる。だけどそれがなんだかちょうどいい気もする。安物でも高級品でも眠いときには関係ないしね。

 心地のよい眠気に誘われて、僕は目を瞑った。



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