第1話
誰に対してでも不正を不正でもって、悪を悪でもって埋め合わせしてはいけない。
よしんばその相手に、どれほど苦しめられていようとである。
定かな記憶ではないけど大昔に生きていた哲学者が言っていた言葉のはずだ。といっても、誰がその言葉を言ったのかは覚えてないし、知る気も無かった。ともかく、これはいわゆる『名言』だとか『名文』だとか、そんなふうにして扱われる一文だった。
僕がまだランドセルを背負っていた頃、カビの生えたような匂いがする父の書庫の中で見た言葉の一つだった。父の部屋は本当に埃臭くて長時間居座るにはキツいモノがあったけど、そこら中に積まれている本達に僕は目をキラキラさせていたのだった。まあ、実際に本を手に取って眺めたって、そこに書かれているのは難易な漢字のオンパレードだ。そんな文章を読めるだけの頭は持っていなかった。
もう一度言うけど僕はランドセルを背負っていたような年だったのだ。十歳かその手前か、その程度の年齢だから読めないのは当たり前だけど、その程度の年齢だからこそ興味のある本が読めなくて僕はしょんぼりしたんだ。それを見かねた父はメモ用紙に多くのことをメモしてくれた。数多くの本――一般文庫、啓発書、哲学書、多種多様の本から素敵な言葉を切り抜いてくれた。
膨大な数の一文の中でも、はっきりと脳裏に刻まれているのはその言葉だけだった。
その言葉の本質はなんなのだろう。
腹這いになって蹲りながらそんな事を考えていた。
「おら。金出せって」
「……」
思考の邪魔をするように頭上から降ってきた
「ぼっちのてめえに出せる金なんてないだろうけどなあ」
貸せる耳なんて持ち合わせてない。黙ってろよ。
「……」
「家族ごっこして楽しいですかあ?」
お前の家族こそお前の行っていること知って尚なんも言わないんだぞ。お前にゃ欠片ほどの愛情の注がれてないんだろうよ。お前の家族はごっこ以前に家族でもなんでもないんじゃないか?
「……」
相沢の声色が次第に変わっていって、響く声に険が混じり始めた。
「聞いてんのかっつってんだよ!」
声と共に脇腹から背中に掛けて衝撃に広がり、次いで痛覚が刺激された。痛え。
「……っ」
くぐもった声を出しながら地面に倒れ込むと、生い茂る木々の葉がカサカサと揺れる音が鼓膜に響いた。それ以外の音が消失してしまったようで、相沢が何か言っているが耳には届かなかった。
ただ、目は見えた。相沢の目は僕を蔑んでいた。見下していた。
どうせ開いているその口から出る言葉だって、ロクなものじゃあない。
僕を口汚く罵り馬鹿にし嘲笑っているのだ。
くそ。何度も何度も蹴りやがって。馬鹿野郎。死んでしまえ。
内心で僕も相沢のことを口撃した。心の中でそうすることだけが唯一の捌け口だ。
くそ。くそ。くそ。
そうして、霞んでいく視界と身体中を蝕む痛みを宙に放って意識さえも手放した。
次に目を開けたときには夕方だったはずの景色は消え去り、辺り一面に夜の帳が下りていた。薄暗がりの中で見上げた夜空はとても綺麗で、それは何度か眺めている景色だけど依然として慣れなかった。その闇空を修飾する語句なんて多くは出てこないけど、濃紺の空に散りばめられた星々と欠けた月。それに薄く広がる雲も相俟って何処か幻想的な風景だった。
「痛っえー」
起き上がろうとし、痛みに耐えきれず漏れた言葉がそれだった。本当に何度も蹴りやがってさ。どうせ相沢にお金を盗む度胸なんかないくせに。無駄なことをしやがって。
一応、ポケットに入れていたがま口のださすぎる財布の口を開いてみる。
「減ってないな……? うん。減ってない」
ふう、と身体から息を絞り出した瞬間、殴られたり蹴られたりした箇所が痛んだ。
身も蓋もない言い方をすれば先ほどまで行われていたのはイジメだった。
当然加害者は相沢で僕は被害者だ。そしてこれも当たり前のことだけど、僕だって好きでやられ続けているわけではない。やり返せない理由があるのだ。
自虐趣味の極まったドMでも無い限り、誰が好き好んで嬲られるというのだ。拳でも言葉でも、なんでも良いから一発でも殴ることが出来るのなら……。
まあ、そんなことは出来ないんだけどさ。
それにしても――
相沢はなんでこんな無駄なことをするんだろうな。最下層の人間に暴行を加えなければならないほど、彼は何か鬱積した感情を抱えているのだろうか。まあ、どうでも良いし知る気も無いんだけどさ。
仮に理由があるからって、誰かに対して理不尽な暴力を与えていいわけがない。
そんなこと、許されて良いはずがない。
……はあ。
一つ大きなため息を吐いた後、自分を鼓舞するように言った。
「帰るか」
眼下に見えるキラキラと輝いている街明かりを頼りに小山を下っていった。小山と言う通りこの山は傾斜も緩やかで歩きやすい。だけど時間帯が時間帯だから足元はよく見えない。ちゃんと気を張って注意しなければいけないのだ。
っと少し大きな木の棒を発見。そして僅かに横に逸れた僕は――
「ぶげっ」
地面に出来た自然の窪みに足を取られて転んでいた。アニメや漫画のように真っ正面から地面に顔を打ち付けて倒れ込んだ。
「最悪だ」
土混じりの唾を吐き出して、思わずそう呟いていた。
黙々と歩いて街を目指し、ようやく麓に辿り着いてから目に見える範囲で自分の身体を見渡した。山の中で軽く土埃を払っていたつもりだったけど、ジャージが汚いのなんのって。
このまま自身の姿を眺めていても辟易するだけだ。足を動かそう。
交通量の多い交差点をいくつか通り抜け、降ろされたシャッターが立ち並ぶ商店街を通り抜けようとした。
「いま何時なんだろう」
商店街の出入り口に立て掛けられているアーチのど真ん中にある時計を見上げると、七時手前だった。もうこんな時間かあ……このまま帰っても食事は下げられているだろうし、何か買って帰ろう。
「って言ってもなあ」
見渡せば見渡すほど辺り一面は閑静だった。というか寂れている。
ほんの数年前の話だけど、その頃ここはもうちょっと明るい場所だった。この時間になったってまだ沢山お店が営業していたし、それこそ食べ物屋なんてもっともっとあった。
父さんと一緒に良く食べに来たっけなあと思い出して苦笑してしまう。入り口から出口に向かってとぼとぼと歩いて行く。
「なんでセンチになってるんだろ」
送り先のない言葉を呟いて、当てもなく視線を彷徨わせると視界の端で見知った顔のおじさんがお店のシャッターを降ろそうとしていた。ぎりぎりセーフかな。アウトっぽいけど関係ないや。
小走りで近付きながらおじさんに声を掛けた。
「こんばんは」
青いつなぎを着ている小太りのおじさんは
「はいこんばんは。って悠太君じゃないか。……またジャージ汚してるけど泥遊びでもしてるの?」
断じてしてません。と胸の中で返しつつ本題を切り出す。
「飯ください!」
「質問無視かよ! っていうかお前さんの目には店仕舞いしようとしてる姿が映ってないのか?」
「映ってるけどそれとこれとは別問題です。というか安田さんの所で飯買えなかったら僕餓死するんですけど」
「あー……『あおば園』は七時までだっけ。飯」
「そうなんですよ。だからお願いします」
頭を下げつつがま口財布を取り出して手の中でジャラジャラ言わせる。
「もちろんお金ならありますから」
「明らかに小銭の音しかしないし……売れ残りの奴で良ければあげるよ」
苦笑しながらそう言って店内に入っていくおじさんを眺めていた。
中途半端に下ろされたシャッターには、赤文字で『YASUDA肉屋』と書かれている。何故ローマ字にしたんだろうとかネーミングセンスは間違いなくずれているとか思ったけども、おじさんは人としてとても優しい。と勝手な評価を下すと同時に、自分のしている行為に僅かな罪悪感を抱いた。
「こーゆー流れになれば大体お金払わなくてもいいもんなあ」
何度か――と言うには無理がある回数だけど――こうやってこの店で無銭飲食をしていた。当然最初はお金を払っていたけど、いつの頃からかおじさんはそれを拒否するようになった。苦笑を浮かべながらひらひらと手を振り、お金を払おうとする僕を制したのだった。
どうしてそんなことをするのだろう。
「なんか言ってたか?」
使い捨てのお手軽な容器を抱えて戻ってきた安田さんを見て、僕は取り繕った笑みを浮かべた。
「いやいや。綺麗な空気だなあって」
「そうか? まあ確かに澄んでるかもな。昔に比べたら人も少なくなったし……って悪い。お前さんの目の前で昔話はするもんじゃないよな」
苦い顔をした安田さんから目を逸らして首を横に振った。
「そこまで気ぃ遣わないでください。長い間引き摺るような繊細な性格してないですよ」
安田さんは僕の過去を把握している人だ。きっと僕に奉仕……なんて言うんだろう。施しかな。
きっと僕に施しをしてくれるのはそういうのが関係しているのだろう。
同情なのか。哀れみなのか。善意なのか。
安田さんが僕に向けている感情の原泉はイマイチ掴めないけど、なんでもいいのだ。その施し自体は嬉しいのだ。
「俺がお前さんの立場なら引き摺りまくって非行三昧すると思う……」
そうだろうか?
安田さんの顔をまじまじと見つめる。眉は太くて目は垂れ目。頬にはたっぷり肉が付いており肌はツルッツル。口元を見てもユルユル。
根拠はない。けどこれで非行三昧ってのは、
「ないっすね」
「何が!?」
「思わず素で……」
「だから何が!?」
そんな会話をした後、食べ物を貰って商店街を後にした。
そこからまたしばらく歩いてやっとあおば園の正門の前に辿り着いた。
相変わらず外から見ると馬鹿でかい施設だ。奥に見える建物の大きさに辟易し、僕は敷地内に入っていった。
あおば園の周囲は赤茶色の煉瓦を積み上げたような塀でグルリと囲まれており、正門からしか出入りできない。が、別に警備員が居るわけではないしなんの問題もなく入っていく。
ただ、僕が帰るのは目の前にある馬鹿でかい建物ではない。整地されている道が二叉に分かれ、正面ではなく横に逸れる。そこから二分も歩くとだだっ広い場所に出た。
塀に囲まれて無くて、敷地から外れた場所あるのが、僕の家だ。
ポツンと建てられている一軒家だ。
んん。これはどう形容すべきなのだろうか。二階建てだけど平べったいから平屋って言えるのかな。平屋というと語弊が生まれるかもしれないけど、向こう側にある建物の大きさを考えれば、比較上は平屋と言っても差し支えない気もした。
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