第19話 大宮 ~ 名古屋 4
―――夜。
「そんじゃ、今日はお疲れ!」
熱田神宮のそばのひつまぶし店の前で、僕とトキワカさんはホテルに戻ることになった。
「ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」
「ホテル代から食事代まで、すみません」
「いいっていいってー」
「そーだ気にすんな!」
頭を下げる僕に、深町プロが肩を組んできて、黄さんがわしわしと僕の髪の毛をかき混ぜる。これから周防さんと飲みに出かけるふたりは、すでに酔っ払っているかのようだった。
「楽しい時間だったじゃない。これもお礼だよー」
「大人の面子もあるしな」
「あれ? 私も子供扱いされてる?」
苦笑する周防さんもまた、僕たちと一緒に奢られていた。
「貴重な休みを割いてくれた礼と、部屋を散らかしたお詫びだよ」
「行儀のいいお客様でしたよ、黄さん」
「黄さんはホテルマンだからねー。このお腹さえ引っ込めば彼女もすぐに見つかるのにねー」
黄さんの出っ腹をぽんぽんと叩いた深町プロは、うるせぇ、と頭を叩かれた。
周防さんが僕とトキワカさんに、申し訳なさそうに微笑んだ。
「明日はお見送りできなくてごめんなさい」
「いえ、とんでもない。ご迷惑おかけしました」
「迷惑なんて何もないよ、松島くん。来てくれて嬉しかったし、おかげでとっても楽しかったから。トキワカちゃんも。良かったらまた遊びに来てね。また打ちましょう」
「うん。絶対来るから。……今度は負けないから」
「楽しみね」
敬語のない再戦の約束をするふたりに、深町プロが割り込んだ。
「いーないーな。羨ましー」
「深町さんが羨ましがることなんてないじゃないですか」
苦笑する周防さんに対し、深町プロは、照れ隠しのつもりなのか、咳払いをひとつ。
「いや……俺もさ、愛称で呼んでほしいなって。ついでに、タメ語で話してほしいなって」
履物のせいで深町プロよりも若干背の高い周防さんが、優しげに聞き返す。
「……どう呼んでほしいの?」
「…………俺は、『かなちゃん』って呼ぶよ。そう決めた。だから、かなちゃんが、……俺の名前を決めてよ」
黄さんは古風にも、口に指を突っ込んで口笛を吹き、ふたりを茶化した。
「だったら……私は、『ひょーちゃん』って呼ぶことにする」
「ひょー?」
「……初めて名前見たときにね、
男共、爆笑。
「もー。笑わないでよ」
「ひっひひひひ、ご、ごめんごめん」
「それ以上笑ったら敬語ですよ?」
周防さんの顔を見る限り、半分本気で怒っていた。もう半分は羞恥で、どうやら怒ると敬語になるらしい。
「……わ、わかった。もう、笑わない、よほっ」
「うそ」
「大丈夫、だいじょうぶ。……うん。気に入ったよ。ありがとう。……生まれて初めて、この名前でよかったって親に感謝してるよ、かなちゃん」
「私も、呼びやすいあだ名に決まってラッキーだよ、ひょーちゃん」
「ひょー……ほほほほ!」
堪えきれず、結局深町プロは笑ってしまい、緩んだほほを周防さんにつねり上げられていた。
三人と別れ、僕とトキワカさんはホテルまでの帰り路を歩く。
夜ともなれば暖冬でも冬は冬。黒い空気にトキワカさんの口から白い息が出る。
「よかったの? 付いていかなくて?」
「酒の席ですから。僕が付いていくと、何かと気を遣われそうで」
大人同士で話したいこともあるだろう。
「それに嘘じゃなくて本当に、満腹で眠たいですし」
「私も。ひつまぶしおいしかったね」
「はい」
「……銀朱くんは、知ってた?」
「はい?」
「深町さんの、」
「ああ……はい。相手が周防さんとは知りませんでしたけど、『近々告白する』とは、一昨日に聞いてました」
「ふーん」
しばらくの沈黙が、拳ひとつ分くらいのトキワカさんとの隙間に滑り込む。
「……よかったね。深町さん」
「ですね」
未来はわからない。
だが、深町プロの念願が叶ったのは、今に限れば確実にいいことだった。
「金龍杯名古屋場所が、あんな結末になるとは思いませんでした」
トキワカさんはくすりと笑った。
「なに? 名古屋場所って。……でも、そうだね」
「まさか最後の最後で、俺の切った牌が両方に当たるとは思いませんでした」
オーラスで僕が四萬を切った直後に、深町プロと周防さんのロンの声が重なったのだ。
周防さんは少しだけ驚いていて、深町プロの表情は変わらなかった。
ダブロンと呼ばれるケースだ。成立しないルールもあるが金龍杯ではダブロンが認められていたので、ふたりともが手牌を倒した。
深町プロの和了(あが)りは、リーチ・タンヤオ・ピンフの3900点。
周防さんの和了りは、發・
ふたりの和了りの形を見たときに、深町プロがリーチをかけた理由を理解した。
「深町さん、リーチかけてなかったら負けてたね」
「周防さんがハネ満を聴牌していて、当たり牌が自分と同じである可能性を見越してのリーチだったんでしょうね」
僕は周防さんの手を満貫8000点だと予想していたが、実際には、四萬で和了ればハネ満12000点の聴牌だった。誰からのロン和了りでもトップになれていた。
深町プロはタンヤオ・ピンフの2000点を
だからこそ深町プロは、まるでプロポーズのような、後に退かない堂々としたリーチを敢行した。その局だけは確実に、深町プロの読みが周防さんの力を上回っていた。
―――それまでの対局の、どこが決め手になったのかは、周防さんに聞かなければわからない。しかし勝負が終わった直後に彼女は深町プロに、「私と付き合ってください」と、自分から言い出していた。
和了りを決めたときの深町プロの言葉が、ひどく印象的だった。
裏ドラは、めくらなくてもいいね。
「俺もいつか、あんな台詞、言ってみたいです」
「……ほほう。あんな台詞って、どんな台詞なのかね?」
変な言い回しがおかしくて、トキワカさんを見ようとした。
トキワカさんは、僕の後ろで立ち止まっていた。
暗い夜の底で、きらりと光るトキワカさんの期待に満ちた目が、僕を見ていた。
「教えてよ、きみが言いたい言葉。私に聞かせて」
「……トキワカさん……」
「私たちの旅は、もう終わるんだよ?」
トキワカさんは些細な誤解をしていた。ほんの少しだけ会話が食い違った。
しかし、本当にそれは、些細なことだった。
今日の深町プロが言った言葉の中で、僕が真似して、しかし真実に心をこめてトキワカさんに言いたいことは、あの一言しかない。
始まりのあるものはいつか終わる。トキワカさんとの旅も、明日で終わる。
伝えたい―――伝えなければならない。
今こそ。
「僕は……」
その今を―――
「あれ? 常磐?」
―――その今を、第三者に、無造作に奪われてしまった。
横合いからの声の主は、トキワカさんと同年代に見える女性だった。夜でもわかるくらいに派手に髪を染めたけばけばしい感じの女性だった。
「常磐……だよね? 常磐でしょ?」
どうやらトキワカさんを知っているらしい女性は、にこにこと笑いながら、久しぶり、と言って近づいてきた。
発言から判断するに数年ぶりらしい再会に、トキワカさんは―――
「……う…………あ……」
表情を凍りつかせていた。
今までの―――今日までのにこやかな可愛らしい顔が嘘のように消えてなくなり、動揺と困惑と、そして恐怖が、トキワカさんの感情を支配していた。
「えー、もしかして私のこと、忘れちゃったの? ひどくない?」
「いや……その……」
言葉にもならない声を発して視線をさまよわせるトキワカさん。その唇が、かすかに震えていた。胸の前で祈るように小さな手を組み、華奢な体を強張らせていた。
「あたしこっちの大学に通ってるんだけど、あんた今なにしてんの?」
「……わっ、……わたっ、……わたしはっ……」
ダメだ。
何が〈ダメ〉かはわからないが、新幹線での一件よりも強く、会話を止めなければと思った。
だが―――恐らくトキワカさんにとって、一番触れてほしくないことを、一番聞かせたくなかった僕の前で、その女性は口走った。
「あんた、高校やめたって聞いたけど、ひきこもりはやめたんだね。よかったじゃん」
―――もう遅いかもしれない。
聞いてしまった。
トキワカさんは顔を伏せて沈黙した。
僕は割り込むようにしてその女性の前に立った。
「人違いじゃないですか? 彼女は〈トキワ〉という名前じゃありません」
「は? あんた誰? 知らないんだけど」
ずけずけと物を言ってくる女性に、この人なら嘘をついても心が痛まないなと思った。
「よく誤解されるんです。……彼女の名前は、トキワじゃなくて、トキワカなんです」
「トキワカ?」
「ええ、だから人違いです。彼女はあなたが思っている人ではありません。……急いでるんで、これで失礼します」
「あっ、ちょっと!」
どうせ逃げるのだ。上手な嘘を並べてやる必要はない。呼び止めようとする女性の言葉にも耳を貸さない。
「行きましょう、トキワカさん」
僕はトキワカさんの手を取って、早足でその場を去った。
ホテルに向かうため、というよりもその場を離れるために、追いかけられても振り切れるように、わざとデタラメに歩いた。
ひとまず人のいない所へ行こうと、僕はトキワカさんの手を引いた。
トキワカさんは、僕の手を強く握り締めていた。僕の指が痛くなるほどに。僕の胸が痛くなるほどに。
自分たちがどこに向かっているのかもわからないままに、ずんずんと早足で歩く。
その最中、
「……さん、てん、」
「え?」
「14159265358979323846264338327950288419……」
突如としてトキワカさんの口から、ずらずらと数字が並べ立てられた。まるで素人手品師の口からずるずると万国旗が引っ張り出されるかのように、次から次へと、彼女の口が無限の数列を唄いはじめた。
「……82148086513282306647093844609550……」
トキワカさんの最初の言葉「さんてん」から察するに、彼女が唱えていたのは円周率だった。常識の範囲内とは言えない桁数に、「恐らくそうだろう」としか言えない。デタラメな数字であっても僕には正誤がわからない。
「……53594081284811174502841027019385……」
ときどきすれ違う通行人の奇異の視線を無視しながら、僕はトキワカさんを引っ張って歩く。
呪詛のように呟かれる円周率は、トキワカさんの防衛手段だ。
自分の心を守るための。
「……44288109756659334461284756482337……」
嫌なことがあったときに、それを上書きするために、数字を唱えるのだと言っていた。
そうしていれば、嫌なことを記憶の底に押し込められるから、と。
それが習慣になっている、と。
「……72458700660631558817488152092096……」
その話を聞いたときに思った。いったいどれほどの〈嫌なこと〉が、ぞっとするくらいに夥しい量の数字を、彼女に背負わせてしまったのかと。
あまりにも、あまりにも、あまりにも、
「……33057270365759591953、」
「トキワカさんっ」
あまりにも痛々しくて、トキワカさんの両肩を掴んで呪詛をやめさせた。
僕たちが歩みを止めたとき、立っていたのは、人ひとりいない裏路地だった。
早足のせいで息が上がりかけていて、胸が熱く、肩で息をしていた。
「……どこまで、唱えれば、あなたの記憶は、塗りつぶせますか?……このままだと、俺の家の電話番号とか郵便番号とかの個人情報まで出てきそうですよ」
「…………ごめんなさい……」
顔を伏せるトキワカさんは、猛禽に怯える小動物のように、ぎゅっと体を縮こまらせて、震えていた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
これが彼女の本当の姿だとは、思いたくなかった。
「トキワカさん、聞いてください」
「……ごめんね、銀朱くん。……わたし、わたしね……」
「トキワカさん」
「私、あなたに、嘘ついてる」
「大丈夫です。俺は知ってましたから」
そこまで僕が言ったところで、ようやくトキワカさんは、顔を上げてくれた。
「……え?」
どこが痛むのかもわからない、といった彼女の苦痛の表情が、少しだけ和らいだ。
「俺は、わかってました。気付いてました。トキワカさんが嘘をついていると、察してました。だから謝ることなんてないんです。嘘も含めて、あなたはトキワカさんなんですから」
何千桁もの数字に、負けていられない。
僕の言葉で、彼女の心を埋め尽くそう。
そして―――始めよう。
「好きです」
今すぐにでも。
「好きです。好きです。好きです」
彼女が望むなら。
「松島銀朱は、あなたが好きです」
最後の勝負を、始めよう。
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