第18話 大宮 ~ 名古屋 3
座布団を敷く。
炬燵机の上に麻雀用の緑色のゴムマットを広げる。
麻雀牌をマットの上に散らし、牌が収まっていた箱に、三万点分の点棒を入れる。
サイコロが振られ、最初の親が決まる。
対局の準備は極めて静かに、必要な会話以外の言葉が発せられることなく整った。
最初の親を取った周防さんが口を開いた。
「確認ですけど……金龍杯決勝と同じルールでいいんですよね?」
僕と黄さんが黙って頷くのに対し、深町プロがあとを引き継ぐ。
「トビなしの三万点持ち三万点返し。順位ウマはワン・スリー。
順位ウマというのは、今回の場合、一着になった人はそのときの持ち点に加えて三万点プラス、二着の人は一万点プラスされるルールだ。三着と四着はその逆で、マイナス一万点、マイナス三万点となるため、一回戦でトップを取っても二回戦の順位次第で最終結果は大きく変わる。無闇に点数をかき集めるのではなく、順位争いが肝となる。
場所や道具などの環境が違うだけで、揃った
この場に満ちる緊張感もまたそのときと似ていたのだが、どうしても今回は、深町プロと周防さんに視線を向けてしまう。
トキワカさんが動き、深町プロと周防さんの間に、すとんと腰を下ろした。
「この勝負、私が見届けます」
そのとき、トキワカさんと目が合った。彼女自身も対局者であるかのような厳しい視線に睨まれ、僕の背筋が伸びた。
負けられない―――負けるにしても、がっかりされるような負け方は許されない。
「……始めましょうか」
ぽつりと周防さんが呟くと、四人の八本の腕が卓上に伸び、がちゃがちゃと麻雀牌をかき混ぜ、牌山を組んでいく。
そうして、周防さんが二個のサイコロを振り、再戦の金龍杯が始まった。
―――一回戦―――
実際の勝負に僕の意気込みの度合いが反映されるのならば、いくらでも気合を入れる。
無論、これが本当に最後になるかもしれないこのメンバーでの対局に、僕が気合を入れないはずもなかった―――のだが、僕の意気込みとは関係なく、勝負は深町プロと周防さんの競り合いだった。
「ツモ。2000・4000」
初っ端の東(とん)一局に深町プロが満貫をツモ
「ロンです。タンヤオ・ドラ。2600点」
東二局では、周防さんが細かい和了りで失点を埋めようとする。
これが周防さんの持ち味だった。
満貫をツモられたとして、黄さんならハネ満の和了りを目指すのに対し、周防さんは小さな和了りを刻んでトップ者に食らいついていこうとする。一発逆転のホームラン狙いではない、堅実な送りバントで得点を狙うタイプだ。
誰かからリーチが入っても、周防さんはベタ降りしない。ぎりぎりまでしのぎ、回し、粘り、聴牌料をもぎ取る。周防さんの闘牌を後ろから見ていたトキワカさんによると、周防さん流の安全牌理論と優れた観察眼によってなしえる芸当で、とても真似できないとのことだった。
東三局の黄さんの親リーチ、そして東三局一本場の深町プロのリーチを流局にまで持ち込んだ周防さんは、折り返しの東四局二本場で1600点を和了り、供託を奪取した。
深町プロも負けていなかった。
「ツモ。3000・6000」
直後の
この日の対局は金龍杯名古屋場所とでも呼ぶとして、深町プロと周防さんががっぷりと四つに組み合う戦いだった。僕と黄さんは置いてきぼりにされていて、南三局に黄さんが、南三局一本場で僕が一回ずつ和了るだけしか出番がなかった。
迎えた一回戦の
満貫とハネ満を周防さんに親被りさせたというのに、周防さんは2600点以下の和了りしか物にしていないというのに、ぴたりと背後に食いつかれた格好で、深町プロはずいぶん渋い顔をしていた。
さすがは〈アサシン・シード〉で決勝卓に座っただけはある。このシードを得るための条件は、「予選期間中に、最も多く逆転トップを取ること」だ。
僕の想像でしかないが、普段の周防かなえさんは、子供たちに人気のある優しい保育士の先生なのだろう。しかし麻雀に関しての彼女は、紛れもなく〈暗殺者〉だ。ぴたりと背後に忍び寄り、狙った獲物の首を掻き切っていく。
恐らくは一万点差以内なら周防さんの射程圏内で―――一回戦の結果も、深町プロの懸念したとおりになった。
「ツモです。ダブ南・白。1000・2000」
今まで二回も親被りを食らわせた深町プロにとっては、周防さんのツモ和了(あが)り、その親被りを受けたことは、痛烈な意趣返しに思えたことだろう。
一回戦の結果は、深町プロを800点差で差し交わした周防さんのトップで終わった。
一回戦が終わると、ちょっと休憩、と黄さんが立ち上がった。
「煙草吸ってくるよ」
「すみません。灰皿があればよかったんですけど……」
「いいよ。四人も吸わない人間がいるんじゃ伸び伸び吸えないからな」
黄さんは自前の携帯灰皿を持ってアパートの外に出た。
「それじゃあ私も、飲み物買ってこようかな。深町さんはコーヒーでいいですか?」
「あー、炭酸にして。とびきり甘いやつがいいな」
「わかりました」
「あ、私も行きます」
周防さんとトキワカさんが揃ってアパートを出ていくと、部屋の中には僕と深町プロだけになった。
一回戦の結果をノートに書き留める僕の正面で、深町プロは大きく息を吐いて天井を仰いだ。
「……なんだって周防さんは、あんなに強いんだろう」
「同感です」
「正直、百回やったら六十回は順位で負けるだろうね」
その発言に驚いて、僕は顔を上げた。競技プロである深町さんすら周防さんの実力を認めている―――というのもさることながら、「麻雀を打つ俺を見てくれ」とまで豪語した彼にしては、あまりにも弱気だったからだ。
「……深町プロがそう言うのなら、俺が勝てるのは百回のうち十回くらいですかね」
「んー……ノーコメント」
深町プロの優しさが、しかしそのときの僕には物足りなかった。
「十回に一回は順位で勝てるなら、まだ俺にも勝機はあります。……今度こそ俺が優勝してもいいですか?」
「ダメだね」
ぐりん、と深町プロの顔が僕の正面に向いた。
「優勝はまた俺だよ」
その意気ですよ、と言いたくなるのをぐっと堪えた。
「いや、俺です」
「いやいや俺だ」
「いやいやいや」
「いやいやいやいや」
「何をいやいや言ってんだ。三歳児かお前ら」
煙草休憩を終えた黄さんが戻ってきた。
「誰が優勝するかって話ですよ」
「そんなの俺に決まってるだろ」
「黄さん一回戦は最下位じゃないですか」
「ばっか。んなもんダブル役満で一発だよ」
神戸での年越し麻雀の一件があるので、僕には冗談には思えなかった。
黄さんと深町プロが一回戦でのお互いのミスをつつき合っているのを見ながら、見えない所で弱音を吐くのも深町プロなりの気分転換なのだろうなと考えた。対局中は普段の飄々とした雰囲気が消え失せるほどに神経を尖らせていても、ずっと張り詰めたままではいられない。
好きな人に弱みは見せたくないものだ。たとえそれで相手が喜んでくれたとしても、張りたい見栄や通したい意地がある。
周防さんとトキワカさんが、ジュースやらお菓子やらが入ったコンビニの袋を提げて戻ってきたところで、「二回戦で白黒つけようじゃねーか」という落着となった。
―――二回戦―――
「ツモ! 4000オール!」
金龍杯名古屋場所の最終戦は、深町プロの爆発から始まった。
「ツモ! 3000・6000!」
東一局、親番の深町プロの満貫ツモ和了りはフラッシュオーバーのように瞬く間に僕たちを焦げ付かせ、東一局一本場での周防さんの2300点の和了りの直後には、バックドラフトのように再燃し、東二局でのハネ満ツモ和了りに結びついた。
この日三度目の親被りを食らった周防さんは、しかし焼け死ななかった。続けざまに放たれる深町プロのリーチを掻い潜り、東三局には3900点、東四局には5200点を和了っている。僕と黄さんはまったくの蚊帳の外だった。
一回戦と同じく、トップの深町プロを周防さんがこつこつと点棒を取り戻して追いかけていく、という構図だったが、そのときの深町プロの気迫は一味違った。
南一局の親番にて、二回戦四度目のリーチをかけた深町プロは、一発で引き和了った。
「ツモ! 8000オール!」
三者から8000点ずつ徴収する24000点の和了りに、勝負が決まったとすら思った。何せこの和了(あが)りによって、四人合わせて十二万点のうち、深町プロが過半数の73700点もの点棒を独占したのだから。この時点で二着の周防さんと五万点近い差をつけたのだから。
しかし、当のふたりに関しては、勝負はまだ終わっていなかった。
「ロンです。チートイツ・ドラドラ。6700」
直後の南一局一本場にて、周防さんは深町プロへの直撃の和了りを決める。深町プロが周防さんに振り込むのはこの日三度目で、そういった意味でも〈噛み合った〉勝負になってしまっていた。
続く南二局、親番を取る周防さんがリーチをかけた。
「
ほかの三人が降りて、周防さんのひとり聴牌。次の一本場でも同じことが起きた。
「聴牌」
先ほどの6700点の振り込みで13400点だけ差が縮まったとはいえ、まだまだ深町プロが有利な状況だ。しかし、聴牌料でじりじりひたひたと追いかけてくる周防さんに、深町プロが一回戦の結果を思い起こさなかったはずがない。
気を緩めたわけではないだろう。しかし深町プロは焦っていた。
周防さんだけを見てのわき見運転は、当然とも言うべき必然さで、交通事故を招いた。
「……ロン。
振り込んだのは深町プロ。和了ったのは黄さんだった。
一瞬だけ顔を苦痛に歪めた深町プロは、静かに点棒を黄さんに渡した。
黄さんは苛立たしげに舌打ちした。
「今ので死んだぞ、深町」
かすかに怒気を滲ませる黄さんの言葉に、深町プロは顔を上げた。
「ふたりで麻雀打ってんのかよ。それともアマチュア舐めてんのか?」
室内がしんと静まり返った。
―――黄さんの目を見ればわかる。
「決まったよ。何万点持ってようが関係ねぇ。優勝はお前以外の誰かだ。指くわえて見てろ」
深町プロの油断に苛立っているし怒っている。しかしそれを深町プロにぶつけているわけではない。
黄さんなりの叱咤激励だ。
しっかりしろ、という。
深町プロの表情を見ていても、確かにそれは伝わっている。僕が気になったのは周防さんだけだった。
もしも〈空気を読む〉などという馬鹿げた行為に周防さんが及んで、彼女が手を抜きでもしたら―――
―――などという心配をする資格は、二回戦で一度も和了れていない焼き鳥の僕にはなかったし、する必要もなかった。
「ツモです。タンヤオ・三色・ドラドラ。2000・4000」
南三局、親番の黄さんのリーチを受けての、周防さんの和了り。この日初めての満貫の和了りによって、深町プロとの差が、とうとう9300点にまで縮まった。
―――オーラス―――
「参ったね。俺にはどうも、優勝の目がないらしい」
そう言った黄さんは、ぽんと僕の肩を叩いた。
「あとは任せた」
13400点持ちの黄さんが優勝するには、一回戦の結果を考える限り最低でもダブル役満が必要になる。それがどれほどの確率かはわからないが、本人の言うとおりに、「ない」と表現して差し支えないだろう。
それに対して最後の親番の僕は7100点しか持っていないが、和了り続ける限り親番が続くので、黄さんよりかは優勝の可能性があった。
しかしやはり、可能性を論じるのならば、それは深町プロか周防さんのどちらかだろう。
深町プロは54400点持ち。周防さんは45100点持ち。その差は9300点。一回戦のふたりの結果は僅差の二着と一着だった。だから単純な話、ふたりのうち、この二回戦を制した者がトータルでの優勝者だ。
金を賭けているわけではない。優勝して副賞がもらえるわけでもない。トキワカさん以外に観客もいない。深町プロと周防さんにしても、このゲームの勝敗そのものに求愛の成否がかかっているわけでもない。
しかし―――
「ポン」
周防さんが動いた。僕の切った
沈黙の闘牌がぐるぐると巡る。打牌の順番は左回りに、牌山の消費は右回りに、真逆に回る二輪の運命の歯車が噛み合ったとき、優勝者が決まる―――と表現するのは、些か格好のつけすぎだろうか。
友人宅で集まって、麻雀を打つ。飲み物やお菓子がある。パーティーと呼んで差し支えない。
もっと和やかに楽しむこともできる。
しかし―――どうしてこんなに、剥き身の白刃を構えるかのように僕たちは真剣なのだろう。
そして、どうしてこんな張り詰めた緊張感が、楽しいのだろう。楽しめているのだろう。
「……そんなことは、どうでもいい」
僕のぼそりとした独り言は、静寂の室内ではひどく大きかった。しかし誰も反応しなかった。
そう、どうでもいい。今は、このゲーム以外の何かに気を囚われてはいけない。
集中。
―――周防さんはトップまで9300点差ある。これをまくって一着になるためには、満貫ツモかハネ満のロン和了りが必要だ。周防さんの捨て牌を見る限り彼女は
「リーチ」
卓上に投げ出されたその言葉が、僕の集中の霧を吹き飛ばした。
ぱっと顔を上げると、ほかのふたりもリーチ宣言者を見つめていた。
リーチを宣言して、供託の千点棒を提出したのは、深町プロだった。
―――点差を考えると、深町プロのリーチは、ありえない選択だ。
周防さんとの点差は9300点。これをまくるために周防さんは最低でも満貫8000点の手を作っている。一万点差までならば満貫ツモで逆転するからだ。そこに深町プロがリーチをかけて供託の千点棒を出してしまうと、周防さんがトップになるための最低条件が満貫ツモから満貫ロンに下がり、逆転の間口を広げる格好になる。
ありえない。競技プロの深町さんが敵に塩を送るような行為をするはずがない。ここでリーチをかけたのには何らかの理由がある。
わからない―――わからないが、わかったところで僕の勝負に影響することでもなかった。僕もすでに聴牌している。勝つためには降りられない。深町プロのリーチがどうこう、というわけではないのだ。
ただ―――僕のツモ番で、誰かの当たり牌を掴んでしまったときには、少し考えもする。
「……」
もしもこれが八月の金龍杯だったら、実況席で「松島くん、掴んでしまいました」と放送されていただろうか。
僕がツモってきた牌は
恐らくだが、この牌を切ると、どちらかに当たる。
わかっているのなら切るなという話だが、これを捨てなければ、代わりに優勝のチャンスを捨てることになる。残りの巡目も少ないために形式聴牌を目指すわけにもいかない。
答えは決まっている。必要なのは覚悟だけだった。情けない話だが。
思えば、年越し麻雀で黄さんにダブル役満を振り込むきっかけになったのも四萬だった。
四は死に通じる。
「失礼。……切ります」
果たして、僕の死は、いったい誰の生を浮かび上がらせるのか。
四萬を切った。
直後、ロンの声が―――
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