第5話 広島~倉敷~姫路~神戸 1

 広島 ~ 倉敷 ~ 姫路 ~ 神戸


 耳元で安眠を妨げる不愉快な電子音が鳴る。

「……ぬぐぉ……」

 アラームだと思って枕元のスマートフォンを取ると、通話の着信だった。

 時刻を見て、寝ぼける頭の片隅で、やはり昨晩に懸念したとおりになったと知る。

 十二月三十一日。大晦日の朝。暗いせいか、どうかすると睡魔に引っ張られそうになる。が、なんとか堪えて、スマートフォンを操作して耳に当てる。

「……うぁい。おぁようござぇます」

『おはよー。やっぱり目覚ましじゃ起きられなかったでしょ?』

 耳元から聞こえる早朝とは思えない弾んだ声に、少しだけ頭が痛くなる。

「……あと十分だけ寝てもいいっすか?」

『電車で寝たら? 肩でも膝でも貸すから枕にしなよ』

 大変に魅力的な提案だが、人肌に温められた布団には、現状敵わない。

 すこぶるつきに寝起きの悪い僕が無言のままに布団にもぐりこみそうになるのを察知してか、電話の向こうにいるトキワカさんが、ものすごいことを言った。

「……はぁっ?」

 それは、もう―――ものすごく卑猥で幼稚で下品なことを、大声で。

 眠気など吹き飛ぶくらいの、十代の女の子が絶対に言っちゃいけない類のことを。

『目、覚めた?』

「……今、何て言いました?」

『軽く熱いシャワー浴びなよ。スマホの充電器とか忘れないように。ロビーに集合ね』

 それじゃ、と言って、トキワカさんは通話を切った。今の話し相手は本当にトキワカさんだったよな、と確認している間に、僕の右手のスマートフォンがホーム画面に戻った。

 すっかり眠気の消えた僕は、ベッドのスイッチを操作して、部屋の明かりを点ける。

 広島のとあるホテル。午前五時すぎ。

 窓の外はまだまだ暗い。


 午前六時にホテルのロビーに行くと、フロントの前にトキワカさんが待っていた。

 全身をすっぽりと包む茶色のコートに、ピンク色のリュックサック。傍らには大きなキャリーケース。旅装は昨日のままで、赤いマフラーが増えていた。

「お待たせしました」

「早起きさせてごめんね」

「いや、昨日ふたりで決めたことですから」

 チェックアウトを済ませつつ、苦笑いを浮かべる。

「トキワカさんのモーニングコール、覿面に効きましたよ」

「あれくらいで驚くようじゃ、思春期だね、銀朱くん」

「返す言葉が見つかりません」

 ありがとうございました、またのご利用をお待ちしております、とビジネスホテルの従業員の女性に見送られ、僕とトキワカさんはホテルを出た。その従業員の目には、見た目は年頃の、しかし別々の部屋に泊まった若い男女は、どのような関係に映っただろうか。

 きんと冷えた路上を、寒いねと言うトキワカさんと一緒に歩く。

「タクシー、どこで拾いましょうか」

「道々拾えるよ。部屋の窓から走ってるの見えたし。その前にコンビニ寄ろう。朝ご飯と飲み物とお菓子買おうよ」

 僕とトキワカさんは近くのコンビニに立ち寄り、おにぎりとサンドイッチ、飲み物と菓子を買ってから、ちょうどコンビニの前を通りかかったタクシーを捕まえる。

 広島駅に着くと、小走りで駅舎の中を歩き、改札口で青春18きっぷを見せる。〈博多駅〉のスタンプの隣に〈広島駅〉のスタンプが並ぶ。

 そうして僕たちは、午前六時三十五分発の普通列車に乗った。

 空いている向かい合わせのボックスシートを見つけ、僕は網棚にリュックとトキワカさんのキャリーケースを押し上げる。トキワカさんはふうと息を吐いて、マフラーを取る。

「コートは脱がないんですね」

「えっち」

「いや、決してそういうわけじゃ」

「かわいい」

 しどろもどろになる僕を見て、トキワカさんは笑う。彼女には時々からかわれてしまうのだが、トキワカさんの悪戯心に腹が立つのではなく、まんまと引っかかってしまう自分自身が情けなく、悔しい思いをする。

 僕が憮然とした顔をしていたからだろう。

「銀朱くん、〈北風と太陽〉って話、知ってるよね?」

 旅人の上着をどちらが剥ぎ取れるか、という物語。

「旅人が女性なら、北風も太陽もスケベですね」

「いい着眼点だね。私も同じことが言いたかったの」

 トキワカさんは、自分の着ているコートの両肩の部分を、つまんで引っ張った。

「もしも北風と太陽の狙いをつけた旅人が、上着の下にものすごくダサい服着てて、誰にも見られたくないと思ってたら、勝負は引き分けになったんじゃないかな、と思うわけよ、私は」

 話が見えてきた。

「トキワカさんも、ですか?」

「コートで隠れるのをいいことにね。上下でちぐはぐな組み合わせになってるのよ」

 着替えるまで銀朱くんには見せられない、とトキワカさんは言った。

 とりあえずのコートを脱がない釈明はもらったが、それはそれで寂しいような気もした。まだ僕に、心を開いてもらえていないのかもしれない。女性のお洒落と友好の度合いは相関しないのかもしれないが。

 日も昇りきらない朝の風景を車窓から眺めつつ、先ほどのコンビニで購入した朝食を一緒に摂った。

 十二月三十一日のこの日、僕とトキワカさんは、神戸を目指す。

 この列車は和気という名前の駅まで走る―――のだが、そこで乗り換えというわけではない。

 朝食で出たゴミを片付けて、トキワカさんが、さて、と切り出す。

「昨日の続きをしようか」

「そうしましょう。倉敷まで、二時間以上あることですし」

 途中下車の倉敷駅に着くのは午前九時になるだろう、というのは、昨日調べた時点で判明していた。だから、〈勝負〉の時間はたっぷりある。

 僕はきっと、旅人の上着を剥ぎ取る太陽にはなれない。しかし、僕が真剣にゲームに取り組めば、もしかすると熱中してコートを脱ぐくらいには、トキワカさんが僕に近付いてくれるかもしれない。

 彼女に近付くためには、僕がゲームに近付かなければならない。

 トキワカさんは、網棚にも上げないピンクのリュックサックから、ある〈遊び道具〉を取り出した。

 昨日の続き―――勝負の再開だった。

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