第4話 博多 ~ 広島 3
「まさかQのフォー・オブ・ア・カインド(フォーカード)で勝っちゃうなんて、思わなかったなぁー」
上機嫌ににまにまとスマートフォンを眺めるトキワカさん。
「ターンの時点で勝率何パーセントだよって感じなのに、申し訳ないことしちゃったなぁー」
その表情は微塵も「申し訳ない」とは考えていない。しかし、負けたアミールのほうも落胆を通り越してアビシェクと一緒に爆笑していたので、元から気にすることでもない。
まさかの5とQのフォーカード対決によってトキワカさんの勝利となったテキサスホールデム大会は、岩国駅での記念撮影によって幕を引いた。そのときアミールとトキワカさんの手には、最後のハンドであるそれぞれのフォーカードが握られていた。
トキワカさんが微笑みながら見つめているのは、スマートフォンの中に残るその写真だ。
「いい勝負でしたね」
「あんな終わり方になったら、あと何戦してもぐずぐずになってただろーね」
インド人の彼らも乗り換えて同じ列車に乗っているはずなのだが、「もう一戦」とは言わず、握手をして別の車両に別れた。別れ際に「恋人と仲良くしろよ」という意味であるだろう勘違いの言葉をアビシェクにかけられたから、もしかすると気を遣ってくれたのかもしれない。
「そうそう。ポーカーに夢中で忘れてた」
トキワカさんはスマートフォンをコートのポケットにしまった。
「銀朱くん、広島はどこを観光するの? ホテルは決めてる?」
「ホテルは決めてます。観光は……まぁ、とりあえず原爆ドームに行ってみようかと」
「宮島はどう? 厳島神社、見たくない?」
宮島という単語だけではわからなかったが、厳島神社と言われて、頭の中にもやもやと、大きな鳥居がおぼろげなイメージとして現れた。
「私ね、『次に広島に来たら絶対宮島に行こう!』って思ってたんだけど……どうかな?」
じっと、トキワカさんが僕を見つめてきた。
それは、僕に「イエス」と言わせるためのお願いだった。
なんかもう、小動物的な上目遣いとか、たまらん。わざとでも許す。年上とは思えない。
トキワカさんが僕の旅についてきているはずだったが―――まぁ、僕のほうにも、特に広島での予定がなかったところだ。都合がいい。
「わかりました。行きましょう」
「ありがと。じゃあ次の駅で降りるから」
「えっ? はっ?」
「ほらほら早く早く! そのでっかいリュック担いで!」
新山口駅から二時間かけてたどり着いた岩国駅、そこから乗った列車をわずか二十分ほどで降りることになった。
考える暇もなく準備させられ降り立った駅は、わかりやすいことに〈宮島口〉だった。
駅から出ると、そこはすぐに〈観光地〉といった風情で、宮島行きの船の発着場までは歩いて数分だった。
トキワカさんは女子にしても小柄なほうで、僕よりも頭ひとつかそれ以上に小柄だった。すっぽりと全身を覆うコートは、立つと彼女の膝まで隠してしまう。
「おっ、ちょうど出発だよ。ラッキー」
フェリーの発着場で、鼻歌を唄いながら大きなキャリーケースを転がしていくトキワカさんを、僕は大声で呼び止めた。
「トキワカさん! 船のチケット買わないと!」
「何言ってんのー?」
とことこと面倒くさそうに戻ってきたトキワカさんは、先ほどの宮島口駅の改札で駅員に見せたままの青春18きっぷを自分の顔の横で振った。
「宮島行きのJRのフェリーなら、青春18きっぷで乗れるんだよ?」
「マジすか?」
「切符買ったときに〈ご案内〉の紙があったでしょ? ちゃんと読まないと損するよ? ほらほら、時間時間!」
せっつかれ、僕とトキワカさんは若干の駆け足で宮島行きのフェリーに乗り込んだ。
宮島行きのカーフェリーは三階層の構造になっていて、一台の自動車と、数十人の乗客を乗せていた。二階と三階にはベンチがあるらしかったが、僕とトキワカさんが駆け足で乗り込んだときには、すでに船は人で溢れ返っていた。
海上を進む揺れの少ない両頭の小型フェリー。その車両甲板で、僕は担いでいたリュックを下ろした。
「ふたりとも大荷物ですから、仕方ありませんね」
「いいよ別に、立ったままでも。そんなに寒くないし、ちょっと座り疲れちゃったし」
両手の指を組んで裏返し、トキワカさんは踵を上げて背伸びした。
ごんごんと音を立てて船は海上を走る。トキワカさんと並んで、船体に寄せては砕ける波を見つめながら、前に船に乗ったのはいつだったっけと、僕はぼんやり考えていた。
「銀朱くん、問題。厳島神社を建てたのは誰?」
「え……っとぉ。……平清盛、ですよね?」
まさか〈大工さん〉という答えの意地悪なクイズではなかろう。
「じゃあさ、清くんが妖怪とにらめっこしたって話、知ってる?」
清くんというあだ名では、太政大臣も形無しだと、思わず笑ってしまう。
「なんですか、それ。面白そう」
「〈
トキワカさんのふざけた愛称と大雑把な語りのせいで、いまいちリアクションが取りづらい。
「それがにらめっこの起源だったりするんですか?」
「さぁ、わかんない。でも、大昔のにらめっこはそういうルールだったらしいよ?」
「そういうルール、というと?」
「見つめ合って、目を逸らしたほうが負け」
そこまで説明すると、トキワカさんは目を輝かせて、「やってみよっか」と言い出した。
やばい。確実に僕が負けて恥をかく。
しかしトキワカさんは有無を言わせない。
「喋ってもいいし、まばたきしてもいいし、笑ってもいい。ただし目を逸らしたらダメ。じゃ、よーい、スタートっ!」
にらめっこはいきなり始まり、開始と同時に、僕は唇を強く引き結んだ。
「………………」
お互いにお互いの目を、じっと見つめ合う、この状況。
少しでも気を抜いたら、同じ極の向き合った磁石が反発するように、すぐに視線が泳いでしまう。喋ってなどいられない。
言ってみればこれは、お互いがお互いを監視するゲームだ。審判など必要ない。決着の瞬間はプレーヤー同士で自然とわかる。ごまかしようがない。
小柄なトキワカさんの黒い瞳に、全神経を集中して視線を注ぐ。
小学校のときに「人の目を見て話せ」と教師に言われた記憶が過ぎる。あれは嘘か間違いだ。人と人は話すときに、終始目を見て話したりなど絶対にしない、と、このとき知った。
顔のどこかの筋肉が攣りそうになる。
呼吸さえも慎重になる。
今まで、これほどまでに緊張を強いられるゲームなど、体験したことがなかった。笑うことは顔の筋肉の弛緩だが、この〈にらめっこ〉は、笑えば負けのそれとは真逆の趣向を持つゲームだった。
本当に、本当に、髪の毛一本ほどの些細な気の緩みで、目玉が動きそうになる。
数分が経過したところで、頭がくらくらしてきた。
対するトキワカさんは、余裕だった。必死に視線を逸らすまいとする僕を、うっすらと目を細めて見つめていた。彼女の瞳しか見ていないから、笑っているかどうかはわからなかったが。
―――相手も悪かった。
何せトキワカさんは、ナンパなんかしたことのなかった今朝の僕に声をかけさせるくらいの可愛らしい顔立ちの女性で、そんな人の目を見つめ続けるというのは、心臓に悪い。
鼓動が早くなり、眩暈がする。
なにひとつ楽しくない苦行のようなゲームに、しかし僕は勝ちたかった。勝って格好をつけたかった。
このにらめっこに負けると、なんだか、僕の人間的な弱さを露呈してしまいそうで―――
―――一瞬の出来事だった。
トキワカさんが、両手で僕のジャンパーの襟を掴んだかと思うと、ぐいっと引っ張った。鼻と鼻が触れる寸前までふたりの顔が接近し、彼女の吐息が僕の唇を撫でると、思わず錯乱してしまい―――
「……はい、私の勝ち」
ぱっと、トキワカさんは両手を開き、掴んでいた僕のジャンパーの襟を解放した。
「……そいつぁずるいですよ、お姉さん」
一気に緊張から解放されると、僕は情けないことに、へなへなぐにゃりと、その場に崩れ落ちてしまった。
心臓のドラムロールは、まだ鳴り止まない。
「だって銀朱くんがぜんぜん負けてくんないんだもん。もうすぐ着くし。ほら、厳島神社見えてるよ?」
「……俺が負けることが前提ですか。そーですか」
「男と女でやったら、大体男の子が負けるでしょ」
そんな気もする。
深呼吸を挟んで、膝に手をつき立ち上がる。トキワカさんの言ったとおり、フェリーの右舷から厳島神社の鳥居が見えていた。もうずいぶん前から見えていたようだったが、先ほどまではトキワカさんの目しか見ていなかったので気付けなかった。
ちょうど満潮であるらしく、境内の足元まで海に浸かった世界遺産を船から眺めつつ、たった今の敗因を探る。
「トキワカさんは、何を考えてたら、あんな平気な顔でいられたんです?」
「私が何を考えてたかって?」
僕の質問に答える前に、船が宮島に到着した。
乗ったのとは逆側の乗降口が開く。
「『銀朱くんの睫毛、意外と長いなー』って考えてたよ」
「まつげ……」
トキワカさんの反則に気付くのに数秒かかった。
「きったなっ! 汚いですよトキワカさん! 俺はちゃんと目を見てたのに!」
「青いね、銀朱くん。若いね、銀朱くん」
老獪なトキワカさんがけらけらと笑いながらキャリーケースを引いて歩いていく。そんな彼女の後ろ姿を見る僕には、敵わないなぁ、という感想しか持てなかった。
一時間ほど宮島を観光した結果、帰りの船に乗ったときのトキワカさんの口から出てきた感想は「人が多かったね」と「鹿がかわいかったね」だった。
「大晦日ならまだわかるけど、まだ三十日だよ? なんであんなに観光客が多かったんだろ」
「三十日だから多かったんじゃないんです? 大晦日の夜とか正月になると、初詣が……」
「あ。あーそっか。それでツアー客の人が多かったのか。外国人向けのガイドブックにも〈一月一日は避けろ〉って書いてあったのかもね」
そうかもしれない。
帰りのフェリーでは三階のデッキまで上り、ふたり並んでベンチに座って景色を眺めていた。海風が少々寒いが、この年の記録的な暖冬のせいでそれほど辛くはない。
「鹿、確かにかわいかったですね」
「もっといっぱいいるかと思ってた。餌付けしたかったのに」
もしかして鹿がいるから宮島に行きたがったのではと、僕は一瞬だけ考えた。世界遺産を見ても「うんうん、ふぅーん」くらいの感想しか言っていなかったから、十分ありえる。
宮島―――正確には厳島の厳島神社周辺には、僕が見ただけで数十頭の鹿がいた。仔鹿もいれば、角を矯められた大きな牡鹿もいた。観光客のカメラのフラッシュにも慣れた様子だった。
ちなみに、宮島での鹿への餌付けは注意書きによって、一応禁止されている。
「あんな有名な観光地で餌付けがオッケーになったら、島が鹿でいっぱいになっちゃいますよ」
「でもさ、人馴れした鹿があんなにいるってことは、誰かがこっそり餌付けしてるんだよ」
否定はできない。
「食べこぼしを狙ったりとか、隙だらけの子供からお菓子を奪ったりとか、そんなことならありそうですけど」
フェリーの三階のデッキでは、小さな女の子がベンチの周りを走り回っていた。母親らしき女性が一声叱ると、女の子は父親らしき男性の脚にしがみついた。
「宮島のお土産、何も買わなくてよかったの?」
「いや、まだ一日目ですから。荷物になるものは……」
「提灯とか木刀とか欲しくなかった?」
はっきり言う。
「必要ないです」
「謎だよね。なんで男の子って木刀とか欲しがるんだろ」
「五歳でも十五歳でも、男子は心のどこかが〈サムライ〉なんですよ」
「銀朱くんは違うの?」
「来年五十になる俺の親父は、そういうタイプです。旅行する度に、俺や母親がどれだけ反対しても木刀を買うんです」
だから必要ない。ほしくもない。薪にできるくらいたくさん家にあるから。
ため息をつく僕に、トキワカさんは、あははと笑う。
「まぁ、でも、広島を出る前に、もみじ饅頭くらいは買おうかと思います」
「え? どうして?」
「お土産の定番じゃないんですか? 京都なら八橋。長崎ならカステラ。広島なら……」
「そうじゃなくて、荷物になるから宮島でお土産買わなかったのに、なんでよりによって初日に食べ物のお土産買うの? 傷むかもよ?」
「ああ」
そういうことかと、僕は食い違いに気付いた。
「違うんです。もみじ饅頭は実家のお土産じゃなくて、神戸に住んでる知人に買っていこうかと思ってるんです」
「神戸でも誰かと会うんだ。親戚? 友達?」
「友達は友達です。歳はだいぶ離れてますけど……」
そういえば言ってなかった。
僕がこの旅行で、誰と会うのか。
「トキワカさんなら、わかるかもしれませんね」
「なぁに? どういうこと?」
「神戸で会うのは、コウさんという人なんですよ。黄色の黄の字で、黄さん」
数秒後、頭の上に〈!〉の感嘆符が浮かび上がりそうなくらいに、トキワカさんの表情が変わった。
「黄さんって、金龍杯の……」
内心、〈黄さん〉というキーワードだけで、本当に気付くとは思わなかった。トキワカさんの記憶力は凄まじい。
「そうです。金龍杯の決勝戦で一緒に戦った、黄さんです」
「………………ちょっと待ってちょっと待って。名古屋と大宮にも行くって言ってたよね?」
いやはや、そこまで勘づかれるとは。
金龍杯の公式サイトでも、それほど注目されていた情報ではないのに。
「お察しのとおりです。俺は、周防(すおう)さんと深町プロにも、この旅行で会うんです」
黄さん、周防さん、そして深町プロ。
あの決勝戦で勝負を共にした三人に会うために、僕は博多を出た。
これはそういう旅だった。
「……へぇー……」
トキワカさんが何事かを考えているうちに、船が本州側の発着場に着いた。三階のデッキにいた乗客たちが、ざわざわぞろぞろと階段を降りていく。僕も自分の重たいリュックを気合を入れて担ぎなおし、立ち上がった。
すると、僕のジャンパーの裾を、ベンチに座ったままのトキワカさんが引っ張った。
「あのね、銀朱くん」
「はい」
「これはね、私のものすごいワガママ。だから断られても全然気にしない」
そんなことを言うトキワカさんは、二時間ほど前に列車の中で見せた、小動物的な上目遣いをしていた。
「銀朱くんがいいなら。それと、ほかの三人がいいって言うなら……」
その目つきは、どうか絶対に断らないでくれと主張していた。
「……私も、その三人に会ってみたい。一緒に連れてって」
広島までのはずが、トキワカさんとの旅はまだまだ続きそうだと、僕の心は躍っていた。
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