4:あべこべ

 スポーツジムのシャワー室の前で待っていて欲しい。

 奇妙なことを頼まれて、僕はあくびをかみ殺しつつ女子シャワー室の前に突っ立つ。なんとなく理由に想像がつかないでもなかった。彼女は美しいから、幾度となく盗撮や痴漢、犯罪まがいの何かをされたのだろう。更衣室の前で震える背中。スポーツジムに通い詰めトレーニングを欠かさない熱心な会員の爽やかなイメージとはかけ離れて、小さく、怯えていた。僕が声をかけた日も、嫌なことを経験したのかも知れない。

 壁に背中を預けて心の中で秒を数えていると、恰幅のいい男が近づいてきて声をかけられた。彼は視界の中でさっきから細い廊下を何度も往復していた。体型はがっしりとした肩幅、厚みのある胸板。腰にも固い筋肉がついているのが、ジャージ素材の短パンの上から容易にわかった。浅黒い顔をしているが引き締まった印象はない。体育会系にしては機敏さのない緩やかな歩き、片腕を上げる速度。優しそうなお兄さん。そう言った物腰だった。そう言った物腰だったから、僕は無意識に警戒心を抱いた。

「そこ、女子シャワー室の真ん前だよ。女性が困惑するからそこからどいてもらえないかな。苦情も来てる。どかないようだったら引きずってでもどいてもらうよ」

 まるで子ども相手に話すみたいに、にこやかな笑顔は崩れない。まったく御し安い相手だと思われているらしい。

「つれが」

 あくびをした。手で口をふさぎ、はみ出た涙を拭う。

「つれが待っててくれって言うんです。よっぽど怖い目にあったらしくって。仕方ないんでここで立ちぼうけです。もうすぐ出てくると思うんで、ちょっと待ってもらえませんか?」

「ここはみんなの場所なんだよ」

 男が僕の手首を締め上げた。骨がきしむ。

 なんなんだろうか、この男。僕は危機意識が弱い。自己防衛本能が強いとも言う。心が、理性を超越した速さで来るべき恐怖を察知して、感受性をゼロにする。わからないのだ、自分へ向けられた悪意の種類が、原因が、その強さが。だから、簡単に見誤る。

「うがぁっ」

 僕は叫んだ。

 男が乱暴に僕の腕を振り回し、引っ張られた肩はちぎれそうな痛みを覚え、筋肉がぷつぷつと断線する音を立てる。足が滑り、背中は床に打ち付けられる。眼鏡が飛び出し、乾いた音を立ててどこかへ滑って行った。

「婦女暴行行為は例え未遂でもみのがせない。可能性でもみのがせない。ここはお客さんに快適に快く運動してもらうための場所だからね。君は会員証を持っていないだろう? 確か、付き添いでここまで来たんだよね」

 三日月型の目よりも、語尾が裏返り気味の声の方が気持ちが悪かった。いつの間にか互いの立ち位置は逆転し、僕とシャワー室の間にしっかりと彼はいる。

「あの子とどういう関係なのかな。友だちであれ、会員証を持たない人は無料で中に入っちゃいけない規則なんだ。もちろん、家族でもね。君は彼女の何なのかな? もしあの子を困らせたりしているようなら、ここで警察につき出すという法もある」

 クラスメイトというのが僕の答えだ。けど、言いたくなかった。こんな不作法に人を痛めつける男に示す愛想はない。

「仁地君!」

 小来さんがようやくシャワー室から出て来て、廊下でイモムシ状態の僕へ悲鳴を上げた。立ち上がりたかったのだが、男が僕の手首を放さないので立てない。相変わらず手首はぎしぎしと嫌な音を立てている。それが体内の骨を伝って中耳に到達する。逃れようと骨をギシギシ鳴らしてもがきながら思う。この野郎、後で絶対殺す。殺す。なんとしてでもぶっ殺す。

「ああ、はるちゃん、久しぶり。不審な男を捕まえてあげたよ。警察につき出そうか? でも君がそっとしておいて欲しいなら今すぐにでもここから追い出すよ」

 男の媚びた猫なで声が、ざらざらした舌のように僕の背中を舐め上げた。鳥肌が立つ。

「止めて下さい……。仁地君は、あたしのクラスメイトです、あたしがここで待っていて欲しいと頼みました。お願いです、もう、あたしに関わらないで下さい」

 僕の肩に隠れるようにしゃがみ、ぽつぽつと言葉を落とす。強く捕まれた上着が小刻みに震え、耳に届く彼女の声は小さくかすれている。

「あばずれが。ここは男と交尾する場所じゃねぇんだよ。クラスメイトだ? 友だちでもなんでもない男を引き込んでシャワー浴びて、これから何するつもりなんだ? このガキは警察につき出してやる。一緒にお前も欲にまみれた売女だと言ってやる!」

 ヒステリックに男が叫んだ。嫉妬だ。

 マッサージチェアで足のこりをほぐしていた主婦らしき女性が、何事かとこちらへ身を乗り出すのが見えた。

 男が彼女に向けて、小来さんの性的裏事情を暴露する。やれ見境がないだの、中毒だの、男と見れば媚を売るだの、病気持ちだの、僕の知らないこと想像の出来ないことをまくし立てる。事実かどうか、僕自身は興味がない。わかることは、尽きない彼のネタの異常さだ。

「小来さん、聞きにくいことなんだけど、もしかしてこの男に乱暴されたのか?」

 声を潜めて訊いてみる。今現在僕も乱暴されているわけだから、どんな形であれ、それほど的からはずれた質問ではないだろう。僕の質問を受けて彼女はうなずく。シャワー後の長い髪が僕のほほを撫でた。

「しかたないな」

 言った言葉に、どういう意味かと、小来さんは目をまるくする。

「僕の力じゃこの男を引きはがすのは無理だ。だから、警察につき出すように言ってくれないかな。後のことは僕が何とかする。小来さんは証言してくれさえすればいい」

 今この場で僕を解放するよう頼んだところで絶対に聞き入れない。「そっとしておいて欲しい、だからこのクラスメイトはここから追い出して下さい」という選択肢もあり得ない。男に端からそのつもりがないのだ。

 惑う小来さんに僕は、ぐ、と頷いて見せた。さっさとしろ。

「け、警察につき出して下さい!」



 結果はもちろん、言うまでもない。

 警察という第三者を介せば、一発で誰が狂っているのかわかってしまう。

 僕らを社会的にののしり精神を蹂躙し痛めつけてやろうとした男は、あべこべに、僕らの手によって社会的に抹殺された。

 今は警察署で厳しくおしかりを受けている。

 カツ丼でももらっているかも知れない。

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