3:イロハ
「きゃはは、見たー?」
「あの顔!」
「ずぶ濡れで!」
女子が三人、嬌声を上げ互いの表情を確認し合いながら廊下を駆け抜け僕とすれ違った。始業式の直後で、みな、妙に緊張し浮かれた気分になっていた。小来はると僕は再び同じクラスだったが、去年までと同様、教室で言葉を交わすことはなかった。でも相変わらず部屋に来てはいる。今日も来るだろう。そして、狂った色で溢れた極彩色の部屋で、瞑想するように目を閉じる。一時間経つと、またね、と帰って行く。一体彼女が何をしに来ているのか、僕にはわからない。
職員室に行こうとしていた僕の足が止まった。階段の横の、女子トイレの前にしゃがみ込む陰がある。頭から水をかぶったのか、いつもはさらさらとしている長髪が束になって頬に張り付いていた。膝を抱えて、始めて声をかけた雨の日みたいに、虚ろな目で虚空を見ていた。
「小来さん」
正面に回り込んでみたけど反応はない。僕はため息。
「なにしてんのさ、こんなとこで。さっきの女子にやられたの?」
彼女達が立ち去った方を見たが、当然もうどっかに立ち去っていて、放課後の廊下に人影はない。
「部活は? 今日はないの? サボっていいの?」
「はる、ねくらかなあ?」
「さあ。意味わかんねぇ言動多いけど、どっちかっつーとギャルっぽい」
「ふふ。そう言ってくれるんだ。嬉しい。あたしはね。走るのは好きなの。でも、ほかはまるっきりなの。昔っから女の子から避けられることが多くて、どうやって話したらいいのかわからない」
僕は首を横に四十五度倒した。おや、話し方が違うぞ。
「このキャラクター好き? って聞かれて、うさんくさい笑い顔が嫌いって答えたら、はぶられた。嘘でも好きって言うべきだった。合わせておくべきだったよ」
合わせておくべきだった。
周囲の空気を読んで、それに合わせた言動をする。人付き合いイロハのイ。それが出来ないとどういうことになるのか、僕はよく知っている。笑われるのだ。指をさして言われる。あいつ、人間じゃないんですよ、こんなこともわかんないんですよ。手のひらに汗が滲んだ。血液が凍って体が冷えていく。
「人と合わせるのなんて当然だろ。そんなこともできねぇのかよ」
合わせられなくて、落第者の印を押された僕だから、容赦なくののしった。彼女はクラスで孤立している。おまけにいじめられている。身から出た錆だ。当たり前のことも出来ないんだから、どこにも同情の余地はない。誰かに助けてもらえると思うな。僕が傍観者? 違う。ただ助く必要のないものを放置するだけ。
「あたしね」
彼女の頭からぽたりと水が落ちた。どうやら、水道水をかけられたわけではないらしく、尿のにおいがする。便器に顔を突っ込んだみたいな、醜悪なにおいにえづきそうになる。まったく、コイツはどうやってあの普通の女子をここまでたきつけたんだろうか。人付き合いが下手くそなのにもほどがあるだろ。うつむくな。泣きそうな顔をするな。弱々しく頬を痙攣させるんじゃねぇよ。何様なんだよ。耐えろよ。
「走ることも出来てなかったの。春休みの大会、二番手だった。トップ走らせてもらえないかった。あんなに毎日、頑張ってきたのになあ。毎朝十キロのマラソンだって欠かしたことないのに。短距離百本とか、腹筋作りとか、誰よりもたくさん、本気でやった自信ある。お腹だって割れてる。走り込んで自分の弱点研究して、体調管理も怠ったことないのに、始めて一年の後輩に負けた」
「ふむ」
顎に手を添えて相槌を打った。
「その新人一年生とは、すでに大学推薦の声もかかっているほどの才能の持ち主だと聞いたけど」
「仁地君の耳にも入るくらい、なんだ……」
「そういう天才と本気で渡り合ったって下らないよ。自分を殺されるだけだ。僕たち凡人には凡人なりの良さがあるんだから、難しく考えなくて良いんじゃないの。才能なんて持っているなら勝手に発揮されてるよ。活躍は天才に任せて僕たちはのんびり見物すればいい」
小来さんへ穏便に相手をするなんて、本当は嫌で嫌でたまらなかったけど、ハイココデサヨウナラと言うわけにはいかなくて、仕方なく座り込んで動かない両腕を握って立たせた。手の内側にビチャリと張り付く嫌な感触があって、思わず顔をしかめる。
「くさいよ」
小来さんは信じられない物を見るように僕を見据えた。排便被りの少女とは思えない凄みにたじろぐ。
「誰かが風を切って走っている姿を、黙って見てるだけなんて、我慢出来ない。天才とか、才能とか、関係ない」
舌打ち。ひょいと僕の甘言に騙されてしまってくれれば面倒じゃないのに。
そうですね、あなたの言うことは正論ですね、走り一本勝負、それ以外の部分で勝ち負けを競ったって意味がないですね。努力が大事と諦めないなんて美しいですね。
「小来さんくさいよ。どっかで体を洗ってから帰った方がいいんじゃね? でも僕の家は貸さないからな」
「スポーツジムなら……でも。ねえ、お願い、ついてきて欲しいの」
いつになく殊勝にお願いをするから、断る言葉を言いそびれた。
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