2:極彩色

 小来はる。清らかな花、という意味の、はる。

 僕の高校のクラスメートで、陸上部で、走るのが速くて、代表にも選ばれるほどの実力者でありながら、教室ではそこらの文系女子よりも沈黙を愛し存在を消している少女。卵形の顔に配置された目、鼻、口は神がこうと定めた基準を優等生なくらい踏襲していて、美人、かわいい、という尺度で測れない底知れなさがあった。女子からは倦厭され、男子からは敬遠されていたと思う。

 壮絶な美少女小来はるの噂はクラスどころか学年を超え、学区を越え、ひなげしの姫、と言う称号が陰でまかり通り、校門の前には必ず見物人が朝夕彼女の姿を待ち受けていた。

 つまりは、ハイレベルでローカルなアイドルだったのだ。

 その彼女が、僕の部屋で漫画を読んでいる。ワンピースを着て、腕をほっぽり出して、だらしなく部屋に転がっている。ワンピースは薄い柔らかくて肌触りの良い素材で出来たルームウェア。完全にくつろぎモードだ。彼女はあれ以来、僕の部屋を漫画喫茶か何かと勘違いして、通い詰めている。

 しかし、二回に一回の割合で読んでいる漫画が逆さまになっていた。きっと一度だって漫画を楽しんではいない。彼女はいつも適当な少年漫画の適当な巻のページで顔を隠している。そんな風に小来さんはたいてい漫画を読むかぼうっと窓の外を眺めるかしているので、僕はひとり座卓にむかって勉強する。ときどき我に返った小来さんが手すさびに僕の相手をしようとして、「字、かなり大きくね?」とか「部屋暗くなーい?」とか言ってくる。そのことごとくに対して僕は無視する。

「ねえ」

 漫画を閉じて腹ばいの姿勢で床に転がるアルミチューブをつまみ上げた。僕はちらっとそれを見て、自分のすべきことに集中する。勉強だ。僕は自分の毎日にそれ以外の者が必要だと思った事は一度もなくて、暇さえあれば参考書をめくっていた。たまに、そんな自分の思考回路が不思議になるけど、それだけだった。

「ねえ」

 ずりずりとものぐさ丸出しに這い寄ってくる。僕の膝の上に顎を置いて、その尖った骨で太ももを痛めつける。

「なんだよ」

 男友達がこんな真似をしてきたら絶対足で追い払ってやるのだが、相手は曲がりなりにも女子で美少女、手で払う事すらためらわれる。いや現実を直視するのも恥ずかしいので、声がうわずらないようにするのが限界だ。

「これ、絵の具じゃん」

「そだけど」

「仁地君の部屋、絵の具いっぱい転がってんね」

 僕は返事をしない。

「絵の具だけじゃなくてクレヨン、カラーインク、マーカー。後何コレ、色見本帳? っての?」

「足」

「え?」

「顎刺さって痛いからどけて」

「ええー、ゴメンゴメン。アハハ、痛いんだ?」

「いてぇよ。それからそれはカラーチャート」

「男のくせに女ひとり膝に乗せられないんだ。アッハハ、ダッサーイ」

 膝からどいた小来さんはゴロゴロと横転し星形の赤いクッションを巻き込み、部屋の隅まで転がっていった。緑色のソファにぶつかって止まる。僕の部屋は壁紙はライトグリーンだし、床はインディゴだし、カラークッションが散在し、壁には写真が貼られているし、色という色であふれかえっている。部屋の持ち主が色の統一ということを全く考えないから、それらは整頓されないまま混沌として、僕の親でさえ入って五分で船酔い状態になる。色の激流に負けなかったのは、小来さんが初めてだった。

「ぐぇ、頭打った……いったぁ」

 ソファーの木製部分、手すりに頭をぶつけて悶絶している。薄いワンピースに包まれた肢体を伸ばしたり縮めたりする。内太ももの輪郭がかなりくっきりと表れて、柔らかそうで温かそうで、僕は生唾と共に目を逸らした。

「なんでこんなとこにソファーがあるの。ゼータク。あー目がちかちかする。こんな極彩色の空間でよく集中してベンキョー出来るよね。そんけーしちゃう」

「あのさ!」

 僕はシャープペンシルをノートに叩き付けて立ち上がった。大股に彼女に近寄る。勝手な事を言いまくる彼女に腹が立っていた。同時に、僕は彼女の存在に怯えていた。ボロを出してしまいそうで。ほら、美少女の前で、男子は普通自分の情けない所を隠すだろ? そういう理屈のそれがばれてしまいそうで焦っていた。

「文句あるならさっさと出てけよ。僕は高校生だから勉強がしたいんだ。小来さんはグラウンド走ってくればいいだろ。選抜メンバーなんだから」

 僕にそう言い放たれた後の小来さんの表情の変遷は、酷かった。これを蒼白になる、と言うのかも知れない。顔を真っ赤にする、と言うのかも知れない。のけぞって口を引き結ぶ。全身を抱きしめ、僕を睨む。脱力。腕を垂らし、うつむいた。

 床に手をついて覗き込むと、表情が消えていた。唇が細かく震えている。その奥から、あ、と声がした。あああああ。発音されるAの音があまりにも不安定なので、彼女の肺が縮み上がっているのがわかった。飛び出したAは錐(キリ)となって僕の胸を貫く。

「あんたには、はるの気持ちなんてわかんない! ねえ、自分をぶっ壊したいって思ったことある? 自分をおおうこの皮膚が、疎ましいって思ったことある? こんな、こんな、余り物の重油で作ったみたいなゴムスーツ、引きちぎってぐちゃぐちゃにしてやりたい!」

 喉の奥から叫んで、彼女は突然自分の足を握った。違う、皮膚を握って、滅茶苦茶な力加減で引っ張る。皮膚がちぎれないとわかると、げんこつで殴る。ばしん。ばしん。重たい音が部屋中に響き渡る。

 僕は唖然とそれを見ていた。止めようという気持ちは湧かなかった。ただ、面倒くさいな、そう思った。なんだよこいつ、変人ぶってやがる。

「仁地君にはわかんない。部屋に引きこもって一日中シャーペン握ってるだけの仁地君にはわかんない」

「なにがわかんないって言うんだよ?」

 いらっと来た。これ以上わからないことがあってたまるか。記憶の中の、お前はなにもわからないのな、とあざ笑った男の声が脳裏で響いて、僕は勢いよく立ち上がった。

「自分を痛めつけてヒロインごっこか?」

 小来さんの肩を突き飛ばし、そのまま床に押さえつける。顔を限界まで近づけた。目の奥を覗く。そこには闇があって、僕は映っていない。僕にはなにも見えない。彼女の体温が僕の顔面を撫でるというのに、なにも見えない。

「じゃあ、こっちからもひとつ質問だ」

 一音一音区切り、腹の底から低い声を出した。小来さんから立ち上る甘い香りが僕の鼻孔を通る。少し冷静になれた。

「緑色の血を見たことある?」

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