2:白の少女

白いワンピースだ。

雨に叩かれるガラス越しに、僕はそれを見つけた。

かれこれ数時間だろうか。

白いワンピースの少女がずっとそこにいる。

向かいのスポーツジムの軒先で雨宿りをしている。


彼女は傘を「持っていた」。


傘をさすくらいなら晴れるのを待っていた方がよかったのか、スポーツジムの細い軒下に突っ立って、コンビニで買えそうなビニールの傘を右手に怠そうに持っていた。

しかしその傘は今はない。

僕は勉強の息を継ぐために何度か顔を上げていたので、傘の行方はコマ送りのように知っていた。


 弛緩した細い人差し指、中指、薬指。

それが傘の柄を支えていた――第一ラウンド。


 人差し指が伸びきって、傘の柄を手放した――第二ラウンド。


 そして最終ラウンド。

しばらく、十五分くらい経ってからだろうか、それは中指と薬指の先に引っかかっていたが、ついに中指が力尽きた。

同時に薬指もギブアップした。


傘はコンクリートの地面に落下し、ノックダウンされたボクサーのように横たわっていたが、その三十分後、スポーツジムから出て来た酒太りの壮年男性に持ち去られた。


雨は昼から降り始め、空は不思議と晴れていた。

そして、少女はそんな傘の誘拐活劇など、全く気付いていないようだった。


 男性は傘を拾ったとき、ほっと安堵したような気まずいような、小ずるいにやけ顔をした。


どうどうと泥棒する大人の姿に、正直僕は腹が立った。

喫茶店のテーブルの下で足を組み替え、冷めたミルクティーを飲み干した。


 何とかしなくてはいけないらしい。


 シャープペンシルを筆箱にしまい、ノートと教科書を閉じる。

地球を取り巻く大気圏の図が、宇宙や鉱石、化石の写真に変わった。

薄っぺらい地学の教科書。


僕は眼鏡をかけ、淡い遮光ガラスの向こう、十メートル弱離れた地点に目を凝らした。


 少女は右肩にスポーツバッグを持ち、薄手のシフォン素材のワンピースを着ている。


往来にはストールを体にぐるぐる巻いた女性、トレンチコートを着たサラリーマン、はんてんを着た老女が行き交っていた。


暖房の効いた店内からでは想像するしかないが、外は寒いようだった。


今朝の天気予報も二月上旬並みの寒さになるでしょうと報じていた。


時折強く吹く風が車の白い排気ガスをちぎり、彼女のスカートの裾を巻き上げた。


そして僕は空っぽになったティーカップの中身を、もう一度口の中にすすり上げた。





「傘、ないの?」


 僕は少女に傘を差し掛けた。


身長はほんの少し僕より低い。


百七十あるかないか。

髪の長い少女。


骨を感じる引き締まった足首からはち切れそうなふくらはぎへつながる筋肉の流れが美しい。


ファッションのアクセントなのか、白いワンピースに加え、手首に褐色のリボンを巻いていた。



 彼女はぼんやりと振り返った。


ひなげしがゆっくりとその花弁を開くように。


甘いような、うっとりと胸をつかえさせる香りがほのかに立つ。

春のにおいだ。

浮かれた気分で思う。

少女は声をかけた事が間違いだったと後悔するほどに美しかった。


 彼女は細くまばらな睫を上げて、僕と目線を合わせようとする。

が、まどろむような瞳は重力に惹かれて垂れ落ちた。


「さっきからずっとここに立ってるでしょ。僕ずっとそこの喫茶店にいたんだけどさ。風邪ひくよ?」


 風が軒の内側に吹き込んで、冷たい霧雨が僕の頬を打った。

あれ? と思う。

見知った顔だった。クラスメイトの女子。


「小来はるさん?」


 小来さんは目をまるくした。


彼女はクラスでもあまり発言量の多い子ではなかったし、授業中もほとんど机に伏せて寝ていたから、僕の事は知らなかったのかも知れない。


どうして私の名前を知ってるの?


と言いたげに上半身を遠ざけ、それから勢いよく僕の腕にすがりつく。


「傘っていうか、雨がダルくてー。雨っていちいち傘ささないといけないの面倒くさくない? 止むの待ってたんだよね! ラッキー! 傘入れてよ。あ! あんたの家連れてってよ。家まで帰るのもダルいっていうかぁ」


 小ぶりな胸を僕の腕に押し当て、小来さんは体を揺する。

高い声できんきんと自己中心的な事を喋る。


僕は思いっきり眉をしかめて、だけど、彼女を振り払う事は出来なかった。


それはその声の奥に絞り出すような必死さを見たからかも知れない。


僕の腕から伝わる彼女の体温が、戸惑うくらいに冷たかったからかも知れない。

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