ストラトスフィアを越えて

増岡

序:問い

「ねえ、自分の体をぶっ壊したいって思ったことない?」



 喉の奥を涙で熱くしわがれさせて、君は僕を見た。


 まるで、自分の肉体が不良品だとでも言いたげに。

 まるで、自分は世界一不幸だとでも言いたげに。


 その言葉を聞いた僕は、君の幸せを妬んだ。

 君の無頓着さにいらだった。


 だから、僕はこう言い返した。



「緑色の血を見たことある?」



 緑色の血。

 それはありもしない奇怪なもののようで、実は絶望と共にすぐ側にある。


 世界は目に見えているようには存在していないし、また、あることはどんなに願っても届かない。


 倦まずたゆまず骨折り砕いて研究を重ねようと、光より速い速度で広がり続ける宇宙の端を、僕たち人間には爪の先で引っ掻くことすら許されないように、世界は本当はもっとカラフルで、多種多様で、ちっぽけなホモサピエンスの脳みそでは想像もつかない出来事で溢れている。


 溢れるそれらは無限の可能性などではなく、高い夜空にきらめく酸っぱいブドウだ。

 僕はもう、手に入れようと望むことすら諦めてしまった。そもそも自分の足の筋肉を引きちぎってまで食べたいブドウなど知りはしなかった。


 空を覆う蔦棚の下、じわじわと訪れる筋肉の壊死と戦うことに疲れ、少しでも楽に死を受け入れるための心の準備をしている合理精神に富んだキツネ、それが僕だった。


 そのキツネは近い将来世界を失うことを宣告されていた。


 それでも、どんなに諦観を心に唱えても、目を閉じシミュレートした無の世界はキツネに夜鳴きするほどの恐怖をもたらす。

 死者の森と生者の原を分かつ三途のアケローン川を越えるよりも救いのない、生きながらの死刑宣告だった。


 光の見えない世界。

 闇しかない世界。

 太陽があろうとなかろうと一切合切無関係な世界。

 僕は途方もない未来へ向けて虚無の石を積み上げる。


 その世界では、緑色の血すら、見えはしないのだ。

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