5:血の味

「パフェ食べる?」

 お腹がすいていた。

「パフェ? そんなオシャレな物、仁地君の家にあんの?」

 周囲に見知った人間がいなくなると、小来さんの態度は元に戻った。少し無知で、どこか上から目線で、テンションが不安定。

 今日という日は、僕にとって刺激が多すぎた。人間の暗黒面を見せられて、もう、目なんて見えなくて良いかな、と考えても見た。目が見えようが見えなかろうが、人間の非生産的で破壊的な性質はなくならないし、そもそもそれは目で見る物ではない。どうせならやっぱり目は見えている方がいい。

 どういうことが原因で小来さんは女子に嫌われいじめられるに至ったのかとか、どんな精神構造であの男は好きな女性を徹底的に侮辱したくなるのかとか、考えなくてもいいことを考えてしまう。答えは出ない。ただ、想像も出来ない不幸が身に降りかかる恐ろしさが、逃げ切れない闇のように僕の足を冷たく飲み込む。無力感が腹の底に溜まる。

 その渦中にいる小来さんは一体どんな気分なのだろうか。苦しい? 辛い? 逃げ出したい? もう駄目だ? それとも、死んでしまいたい?

「アイスクリームくらい、こんな季節でもあるさ。疲れた時は甘いものを食べるに限るよ」

「疲れてないよ?」

「そりゃ普段の小来さんに比べたら全然運動してないけどね。ここが疲れた時も甘いものがいいんだよ」

 自分の頭を人差し指で示して見せた。

 心が疲れた時はつまり、頭が疲れた時だ。

「エンドルフィンって言ってね、快楽物質が出る。モルヒネを服用した時と同じ感じになるのかな、脳内麻薬とも呼ばれる。鎮痛作用に至っては、モルヒネの六.五倍」

「知ってる知ってる、いっぱい走った時に、ふって体が軽くなるんだよね、どこまでもぐんぐん走っていけそうになって、めっちゃくちゃ気持ちいいの。その後にがっくり疲れが来てさっきまでとは逆に体が重たくて足を一歩も上げるのが苦しくなるの。お前はペース配分が滅茶苦茶だ、長距離の練習は短距離の延長じゃない、走って体を作るものだって顧問の先生に言われた」

「ランナーズハイだね、それは。確かに同じ状態になる」

 僕は自ら小来さんを自宅へ招き、冷凍庫からアイスクリームを出して振る舞った。ビールを入れるための尻すぼみの円錐代グラスへ、コーンフレークとバニラアイスを詰める。チョコレートで層を作り、クリームチーズを練り込んで作ったチーズアイスも詰める。電子レンジで溶かしたチョコレートをかけ、苺ジャムでフルーツとした。横で見ていただけの小来さんはすごい! お手軽! と僕のすること一つ一つに大げさな拍手と喝声を上げていた。

 常識外れに効かせたエアコン、真っ赤に燃えるハロゲンヒーターの前で体を丸めてアイスクリームをかじる。汗がたらたらと額から滑り落ちる。小来さんは端に汗を溜め、スプーンにすくったものを舌の先で舐めるように食べていた。冷たいアイスクリームが喉の奥を落ち着かせる。苺ジャムの酸味が鼻へ抜け、アイスクリームが痺れるほど甘い。徐々に体の緊張が解けて来た。

 僕らは恵まれている、と思う。真夏に鍋を食べる贅沢とか、真冬にガンガン暖房を入れてアイスクリームを食べる、とか。少々の嫌な目にあったとしても、この小さな島国に生まれたことを感謝しなくてはいけない。しかし、生まれてしまったことは僕の願いだったのか? 意思だったのか?

「ここのところ、はる、運動してないんだよね」

「ん?」

 どういう意味かと思ったが、さっきの僕の言葉を受けての発言らしい。

「はるに比べたら運動してないって言ったじゃん?」

「ああ」

「もう、走れないかもって思ってる」

「走れないなら走らないでいいよ」

 勢い込んで彼女は振り向いた。彼女の鼻先が僕のアイスクリームに突っ込む。

「そ、そこは引き留めるもんでしょ?」

「なんで。出来ないなら、やらなくていいだろ」

 彼女にティッシュペーパーの箱を突き出し、アイスクリームの被害状況を確認した。

「やめてよ、そんな優しいこと言うの」

「麻薬みたいに中毒になる?」

「頑張らなくて良いかもって思っちゃうじゃん。そんなの、思ったら、引きずられたら、はるになにも残らなくなるじゃん」

「その程度の気持ちだったってことだよ」

 ふっと鼻で笑われる。ようやく彼女がさっきまでのストレスから浮上したのがわかった。

「ずるい言い方すんね」

「どういたしまして」

「顧問の先生に走る能力がないって言われて、その後、あの日、仁地君と会った日、あの男に乱暴された」

「そうなんだ」

「自分の体が、まるで物みたいだった。生きてないの。あの男にとって、はるは人形なの。好きなように扱っていいの。はるの人権なんてないんだって思った」

「うん」

「内側に、あの男のわがままを詰め込まれた気分だった」

「うん」

 ただ、頷いて話を聞く。僕も男なんだけどな、一応。傘を貸した、そのタイミングが良かったらしい。危害を為すものと見なされていない。

「はるね、自分をぶっ壊したい」

「うん」

 この前の訴えはここにつながるわけか、とグラスの底でとろけたアイスクリームを掻き込んだ。

「はるは、はるをとりもどしたい。走れなきゃ、もう生きている意味ない。なのに、スポーツジムにはもう行けない」

「そこの道走ってくれば」

「ストーカーが出るの」

「それは危険だね」

 彼女は自分の足、ふくらはぎの筋肉を強く捻る。硬そうな足だ。よく、走り込んである。

「この体に限界があるのが嫌。走っても走っても速くならないのが嫌。こんなにやってるんだから、もっと筋肉とか育っても良いじゃん。なんでよ、この皮膚が邪魔してるの? 内側から爆発してしまいたい。毎日そんなこと思って、なにもする気が起きなくてぼーとしてる。走るのが怖い」

「アイスクリーム食べなよ。溶けてる」

「仁地君は、怖くないの!?」

 責めるような口調を投げられて、僕は半眼で見つめ返した。

「才能だろ」

「才能じゃない! やったら出来る! やって出来ないこと無いの! 努力したら叶うの!」

「才能だよ。君には、走る能力がなかった。そんなに努力したのに追い越された現実が何よりの証拠だ」

 突然小来さんは立ち上がり、ガタガタと窓を開け始める。開かれた窓から、寒風が吹き込む。僕は身震いをし、大慌てでカーディガンを羽織った。

「窓から、身を投げてみたいって、何度も思った。頭から落っこちて首を折って一発即死ってのもいい。でもさ、足とか、腕の骨を折って、無理矢理走れなくなっちゃったら、どんなに素敵なのかな。硬い地面に伸びてる自分の姿を想像して泣きたくなる。だからそれがどうした、はるひとりいなくなったって、なにも変わらない」

 三十秒に一人誰かが自ら命を殺すこの世界で、人ひとりの存在はゼロに等しくはかないと、僕は知っていた。だから、死なないのだ。あってもなくても同じような命、わざわざ投げ出して虚しくなる必要もない。

「ねえ、これ見て」

 腕が僕に向けて突き出された。こうして見ると、色白に感じられた彼女も日焼けしているのがわかる。腕の内側が外側に比べ、透き通って白い。その手首に、何本も黒い線が走っている。皮膚が鋭利なもので刻まれ、治癒した周囲が隆起している。真っ直ぐに切られた安直な傷ばかりではなかった。バツ印だったり、切るだけで飽き足らなかったのか、指でほじくり返したりしたような、広がった傷跡、無垢な肌をずたずたにする大量のためらい傷。傷の周囲を、血管がどくどくと脈打っている。

 痛ましさに目を閉じそうになった。見えることは苦しい。だけど、目を閉じたくはない。受け止め、考えろ。この傷の意味は何だ。

 瞬きもせずその傷の奥にある物を受け止めようとしていたら、「んっ」と小さいうめき声が聞こえた。

「血が出てくるの。すごいよ。見る?」

「見ない」

 照れくさそうにうつむく彼女は、本気で狂っているに違いない。血なんか見せられたって、嫌なことを思い出すだけだ。

「なんか、仁地君の距離感って気持ちいいんだよね。絶対にはるの内側にはいってこようとしない感じ。でも突き放さない。優しいよね」

「冗談だろ。自分でも冷血漢だと自覚してるけど?」

「これね、新しいクラスの子に見つかっちゃって。手首をやっちゃうのは本当に本当に自制が効かなくなった時だけだよ。普段は冷静だからお腹にしてる。だってウェア着られなくなったらいけないでしょ。だからこのくらいたいした物じゃないのに。たぶん、あの子たちにとって、ぬいぐるみはハブる口実だったんだよ。たいていの子は気持ち悪がるんだよね。だから仁地君が目を逸らさなかったの、すごく嬉しい」

「ああそう」

 目の前で自分を壊したがる人がいるのに、逃げるわけにはいかないじゃないか。

 ようやく僕は、自分をぶっ壊したいという、彼女の言葉を本気にし始めていた。

「何か切るものある?」

「それは誰かに見せる物なのか?」

 質問で質問をかわそうとするも、筆立てにあったカッターナイフはコンマ零秒で見つけ出され、僕は鬼の形相になって取り上げた。取り合いになるのを恐れて窓の向こうに投げ捨てる。

「あっひどい!」

 ひどいものか、と心の中で言い返した直後、それを追いかけて彼女は窓枠を乗り越えていた。まさか窓からダイブされるとは思わず、僕は腕を伸ばして彼女を捕まえる。空中に残っていた左腕。それを、強く引っ張っていいのかどうかためらった。彼女の体重で傷口が開いたりしたら。ためらったのは一瞬で、代わりに僕はそれよりももっと向こうを捕まえようとした。彼女の腕を追う僕の足に何かが引っかかる。直後、全身からあらゆる抵抗が消えた。

 落下していく。

 鈍色の空の下、冷たくこごった空気を切り裂く。

 庭に育った桜のしなやかに張り巡らされた枝が、がさがさと二人の体を受け止めた。体の向きを回転させるも、完全に受け止めるには至らず、折り重なって地面に激突する。肩胛骨から来た衝撃波が息を詰まらす。脳みそを揺るがし、全身を砕くかのように突き抜ける。

 しばらく頭の中が痛く鳴り響いて起き上がれなかった。

 二階の窓から落下したから、おそらく桜がなくても死にはしなかっただろう。むしろ、枝が頬を引っ掻いて、熱い痛みがあった。桜の野郎。ちっと舌打ちする。

「おい、小来さん、生きてるか?」

「生きてない」

「生きてんじゃねぇか」

 彼女の頭をわしづかみ、地面に押さえつけてやる代わりに乱暴に撫でた。むぎゅぎゅぎゅきゅきゅう、と鳴く。

「死なないよ。君は。人はそんな簡単に死なせてもらえない」

 僕たちは生殺しのような人生を送っている。死ねない、だけど、死ねないことは、生きるよりも辛い。頬をこすってみると、ねっとりとした液体がごっそりと伸びて手の甲に絡んだ。僕はその血を見る。

 赤。

 橙に近い黒い赤。

 なんだろうな。

 今日は曇っていたし、今ひとつよくわからない。

 鼻を近づけてみるとやはり、鼻の奥を強く打ち付けた時にする、生臭く錆びたにおいがした。

「大丈夫か?」

 小来さんの体を人命救助用人形を相手にする気持ちで抱き起こし、顔面から、首から、腕から、手のひらでくまなく押さえるようにして点検する。そんな神経質じみた僕の行為に不思議がるでもなく、彼女はほらほら、と手首を突き出して来た。白かった手首は傷口が開き、褐色の液体でまだら模様になっていた。

「きれいでしょ、ね、鮮やかな赤で、わくわくする」

「鮮やかな赤?」

 心臓が飛び跳ね、手のひらや脇から嫌な汗が噴き出す。

 ああ、やっぱり。やっぱり血は好きじゃない。

 何の皮肉だろうか、結局僕は血で気付くのだ。

「ちょっとごめん」

 僕は彼女の手首を引き寄せ、鼻を動かし、舌で舐めた。その味と濃度を忘れないうちに、自分の手の甲も舐める。ほとんど同じくらい鉄錆臭く、濃い味がした。

「う、な、なに? なになになに?」

 見せたがりの小来さんに驚かれるほどのことをしているらしい。しかしそれは僕にとっては些細なことで、懸案事項じゃなかった。

「小来さん、僕の眼鏡探してくれるかな? 自分がぶっ壊れるってどういうことか、教えてあげる」

 血を舐めたことで僕が彼女の苦しみを認めたと勘違いしたのか、小来さんが抱きついて来る。首筋に頬ずりする彼女をメリメリと木の皮をはぐように引きはがし、

「行ってこい。褒美はやる」

 取りあえず彼方を指さした。その方向に眼鏡が落ちているかどうかは知らないが、「わかった!」という返事が嬉しそうなので、僕は気が重くなった。

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