7 経歴

 暗闇の中には仄かな燈があり、わたしを導く。何処にいるのか定かではないが、夢の世界。それに遊ばれていると感じる。不安はない。が、心が曝された惧れ、狂おしい負の感情。けれども危険な香りがしない。おそらくわたし自身の肯定、わたし自身の否定から醸成された感情だからだろう。

 思えばわたしはこれまでずっと心を隠し続けている。心を閉ざし続けたのではない。心を隠して生きたのだ。わたしの心の隠れた部分、真っ当な人たちから見れば奇異と受け取られる心の秘宮を、これまで誰にも明かさない。おそらくこれからもそうだろう。わたしの人生が続く限り、わたしはそのように生き続けるだろう。わたしがわたしとしてこの世に生を受けた見返りとしての定めかもしれない。あえて否定すれば、わたしからわたしがいなくなる。そんながらんどうのわたしに、わたしはなりたくはないし、またなれるわけもない。

 時の経緯とともに定めが諦念にすり替わる。わたしは諦念を受け入れる。が、わたしに不満がないわけではない。諦念は見返りに、わたしに才能を授けたようだ。自分では当初まるで気づかない才能。

 日月が屋敷に貰われ一週間ほど経ったとき、仕事のついでに訪れた母方の親戚、泰治叔父が、

「訳あって手に入れたが、自分に使う当てがないから」

 と説明し、わたしに年代もののライカを与える。すべての始まり。

 わたしの作品が世に出られたのは母の力だろう。二十歳を前に誰に断ることなく屋敷を後にしたとき、わたしは母の力だけには頼るまいと誓う。が、わたしの母の圧倒的な力が、わたしを世に認知させたのだ。母はわたしの心に負担をかけぬよう気遣い、援助を水面下で行う。各方面に手をまわし、わたしが気づいたときには一端の新鋭芸術家と呼ばれる立場にまで昇らされる。親の七光りを否定しても始まらない。わたしはわたしに対する母の愛にただ感謝し、以後の作品を撮り続ける。写真を絵画に変え、表現を発展させる。写真家としてのひっそりとした芸術家デビューから年数経ち、さらに画家に鞍替えしてから数年を経、わたしがこの業界で生き残れたのは、わたし自身の才だろう。わたしはこの先も自分の才が枯れず、できるならば才プラス努力で、まったく新しい創造の境地に入っていけたら幸せだと願っている。それが、わたしの母の望みでもあるはずだ。

 暗闇の中の仄かな明かりはわたしの手前数メートルほどを照らし、わたしを何処とも知れぬ場所に導いているようだ。

 わたしは友人に恵まれている。戦時下に軍需工場と変わった中学校で出遭った松浦昭吾はわたしの失踪から二月後、どこから情報を得たのか、都の下宿で今にも飢え死にしそうなわたしを訪れ、米やら芋やら野菜やら鶏肉やら、とにかく多くの食材を届けてくれる。

「お屋敷育ちの葛城がこんな所で暮らしているとは呆れたな」

「ありがとう、松浦くん。恩に着るよ」

「恩に着るなら成功しろ。それが唯一の報恩だ」

 わたしはまるで干物のように干乾びた自分の身体全体から次々と溢れるように涙が溢れ出してくるのを、まるで珍しいものでも見るかのように不思議な気分で捉える。

「きみはまだあの村で暮らしているか。みんな元気でやっているの」

「この二月で見かけが変わったのは、おまえくらいのものさ。お屋敷の全員はみな元気だよ」

「しばらくこちらにいられるのか」

「そうしたいところだが、こっちにはこっちの事情がある。嫁取りをすることになった。だから明日には村に帰る。我侭は言えない。見合いで決まったのさ。峠を越えた蝉鳴山の向こう村の出身だ。器量はそこそこだが頑丈そうな身体付きをしている」

「そうか、健康が一番だな。おめでとう」

「ありがとう。しかし、おまえは平気か」

「わたしのことは気遣うな。気遣われるとそれが却って負担になる」

「そうだな。わかったよ。ちなみに、おまえは酒が飲めたか」

「なんだ、ころころと話題が変わるな。こちらに来てからはそんな余裕はないが、飲めないわけではない」

「では今日はおれに付き合え。こんな様子じゃ、切羽詰った仕事もないだろう。いいな」

「ああ、任せる」

 話は決まるが、店が開く夕方までには時間がある。松浦が持って来てくれた握り飯で当座の飢えを凌ぐと、わたしたちは下宿の近所を散策することに決める。

「松浦くんを撮ってあげよう。もっともわたしの仕事の場合、最終加工後にきみだとはわからなくなるだろうがね。だから、それとは別にポートレイトも撮ってあげよう。後で送るから住所をくれないか」

 撮影場所を探し、駅近くの西口公園で撮影した一葉のポートレイトを後日、わたしは松浦昭吾に送る。それとは別に松浦の農作業従事者特有の節くれだった手の甲をトリミングし、全体のフォーカスを歪ませ、ソラリゼーションをかけた作品が写真賞の佳作となる。そこから、わたしの最初の師匠Fとの出会いが生まれる。

 師匠Fとは、やがて芸術的に仲違いする。が、Fはわたしの健康や境遇を気遣う度量の広さを持つ人間だ。

「進む道は別れたが一度はわしが認めた才能だ。単に水が足りなくて枯れさせるわけにはいかんだろう」

 Fの援助はときには励ましの言葉であり、ときには金銭や食材だったが、さすがにいつも貰うばかりでは申し訳なく、わたしが遠慮の言葉を述べる。

「気にするな。わしに余裕がなければおまえには何もやらん。いずれわしが凋落し、おまえがそのときもし一線に居たら援助しろ」

 そう言い、次には豪快に笑う。

 Fの次に師事した師匠Tはわたしの扱いに困り果て、

「葛城くん、きみが見たいと思う世界は、おそらく今の写真技術では創り出せないだろう。絵の世界へ行け。そこで才能を開花しろ」

 わたしに画家への転向を促す。

 そのTに紹介された画家の師匠Hは性格的にかなり問題を抱える。が、創造者としてのわたしの技術を飛躍的に伸ばしてくれる。

「すべてを見せてあげますから、いくらでもわたしから技術を盗みなさい。ただし、わたしの技術を盗んだだけでは誰が見てもわたしの模倣者に過ぎません。その点はくれぐれもお忘れなく」

 そんなHの言葉を思い出す度に、わたしは自分が師匠たち三人が丁寧に作り上げた作品のような気がしてくるのだ。

 暗闇の中の仄かな明かりに導かれ、ようやくわたしは暗い通路を抜け出し、ある程度の大きさがある広場に達したようだ。


 ※ ここからは馨のエピソード。……といっても、最初から馨のお話なんだけど。

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