4 展望台で
しばらく晴天が続いていたこともあり、山の林道も遠く富士を望む見晴台周辺の土壌も湿り気がなく乾いている。逆にいえば埃っぽく、風が吹けば乾いた土が宙を舞い、空の青さを大きく汚す。こんなところで喉を荒らしても詰まらないので持ってきた水筒の水でうがいをし、日月と二人、腰を落とせる場所を探す。
西を見やれば、富士がくっきりとその姿を冬空の下に晒している。世界に名だたる名山と比べれば標高のある山ではないが、富士は日本の象徴だ。コノハナサクヤを初め、わたしたち日本人が信じる秩序と信仰の最後の拠り所に思える。学者の説によれば数百年後には噴火を繰り返し、今の形をした山はなくなるという。後に残るのは、その残骸。低い山が幾つかと新しいカルデラ湖が幾つか。そんな富士の残滓を遠くに仰ぎ、果たして日本人は己が民族の一本気な気質を守っていくことが出来るのだろうか。遥かな戦乱の世も、また近年の外国との二度に亘る大戦の世も、富士はその姿も大きさ変えずに眺めていたのだから。
日月と二人、見晴台から空の青に映える白い富士を眺めながら、そう思う。ついで日月に向き直り、言葉をかける。
「日月さん、疲れていませんか」
「いいえ、だいじょうです」
わたしの問いかけにそう応じた日月だが、つい先ほどは土埃をまともに吸い込み、ゼイゼイと咽を鳴らす。山道ではわたしの歩く速度に合わせ、慣れない早足で歩んだためか、幼い顔に明らかな疲労の色が浮かんでいる。
「まあ、そう無理をしなくても良いよ、日月さん。時間はお昼には少し早いけれど、休憩してお弁当にしよう」
自分の生殺与奪がわたしの手に握られているわけでもなかろうに、わたしがそう口にすると日月は、ふう、と小さな溜息を漏らし、
「はい。かおるさん。おべんとうにします」
と、ほっとした子供の表情を浮かべる。
壊れた木製のベンチが見えたが、それは避け、太い丸太の上に二人並んで坐る。膝の上にクロスを敷き、女中の桜根さんが拵えてくれたお握りを口一杯に頬張る。どうして口一杯に頬張ったのかといえば、桜根さんの作るお握りが、わたしたち子供が食べるには少し大き過ぎたからだ。
「小さいよりは大きい方がありがたいでしょ。それに大きい方がおいしいでしょ。だから文句をいいなさんな、馨さま」
その件に関し、わたしは何度か桜根さんに小言を言う。が、桜根さんはまったく取り合わない。やがてわたしが根負けし、小言を言うのを諦める。やがて桜根さんが言うように大きいお握りの方が美味しいような気がしてくる。
「日月さんは、どう思う」
のんびりとお握りを頬張り、水筒から水を飲みながら、わたしが日月に問いかける。
「大きいからおいしいとはかんがえませんが、このおにぎりはとてもおいしいです」
そう答えた日月の口調が僅かに揺れたので、わたしは首をまわし、日月の顔を覗き見る。日月は顔を手の甲で拭ったが、明らかに涙を流している。
「日月さん、大丈夫」
「もうへいきです」
答える日月の口調は言葉通り、既にしっかりと戻っている。
「ねえ、日月さん。あなたは自分がまだ幼い子供であることを嫌っているのでしょう。その気持ちはわたしにもわからなくはないけれど、今から無理をし続けると、あなたは大人になる前に人とは違う歪なものに成長してしまいますよ。わたしはそれを心配します。だからわたしに心を開いてくれとは申しませんが、わたしの前で泣いたって全然構わないと言っておきます。日月さん、わたしはそれを誰にも告げません。お母さまにだって話しません。わたしの心の中に、ただ仕舞っておきます。いずれ成長したあなたにそれが必要でなくなる日まで、いつまでも」
日月はそんなわたしの言葉に無言でいる。わたしは日月の無言を二つ目のお握りをゆっくりと食べながら遣り過ごす。わたしは自分が今ここで日月に対して強がっている、わたしの方が無理をしていると感じたが、少なくとも嘘はついていない。だから、わたしの気持ちが必ず日月に伝わると信じる。
やがて、
「ありがとうございます、かおるさん」
日月が言い、わたしの腕に頭を擡げる。
「かおるさんは、いいにおいがします」
「そうかな。ただ埃っぽいだけだと思うけど」
「うふふ」
「可笑しいかい」
「いいえ。でも、においって体だけから香るのではないんです。心からも香ってくるんです。ぼくの母さんがそうでしたし、ぼくたちにやさしくしてくれた、なん人もの人たちもそうでした」
「ふうん、心の匂いね。わかる気がするよ、日月さん」
わたしは変わらず日月の顔を見なかったが、日月が頬に美しい涙を流す様子をを感じている。わたしの本心は、それを自分の指先で拭い取りたいと叫んでいる。が、わたしの心の別の部分が、
「そうしてはいけない」
と繰り返す。自分の気持ちに戸惑うわたし自身への呼びかけだろうか。わたしの心は二つの想いに葛藤する。が、やがて自然にそうできる日が訪れることを願いつつ、わたしが葛藤にけりをつける。
「じっとしていると寒いね」
わたしのお腹は二つ目のお握りですでに一杯だ。
「どう、お食事には満足した」
わたしが尋ねると日月が、
「はい、かおるさん。ぼくもおなかがいっぱいです」
と答える。
「じゃあ、伸びをして、そろそろ屋敷に戻ろうか。それとも、もう少し先まで行ってみる」
わたしが二つの選択肢を与えると、
「今日はもう帰りたいです、かおるさん。足がとても疲れました」
と日月が、弱音を吐く。が、そう言いつつ、自分の頭をわたしの腕に押し付けてくる。
「でももう少し、ここで休んでいたいです」
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