3 散策
日月との暮らしに波風が立つとは思われない。が、スキンシップという意味で、すぐに距離が近づくようにも感じられない。
まだたった一日だが、一緒に暮らし思ったのは、日月が第一印象そのままの子供だということ。無論、それは見かけの話ではない。見かけならば短い期間に極端に変わることがありえないからだ。
日月の綺麗さや清潔さはその内面にも及んでいる。改めて、わたしはそれに気づかされる。
誰に習ったのでもなかろうに日月は態度や物腰が優美で清楚。偶に屋敷を訪れる素性不明の現政権関係者が見せる作ったような厭味がない。言葉遣いも、その歳の子供なりにしっかりし、屋敷内で父母の愛に真綿のように包まれぬくぬくと育てられたわたしにある甘ったれた雰囲気が微塵もない。
その代わり……といってはなんだが、日月はいつも気を張り――少なくともわたしにはそう感じられ――、おそらく本人にその気はないだろうが、一緒にいるこちらの方の肩が凝る。日月の態度から判断し、日月はわたしを拒んだり、あるいは疎んじたりしてはいない。むしろ日月なりに積極的にわたしに馴染もうと努力している。けれども心の奥深いところで日月はわたしを警戒しているのだろう。わたしに自分の内面を曝け出してはならないと厚い鎧を纏っている。その意味で、わたしはまだ日月の家族ではない。日月が、自分が貰われてきた家に最初から暮らしていた赤の他人に過ぎない。
そんな日月の拒絶を感じ、わたしはわたしなりに傷ついたが、日月のことは嫌いにならず、また疎んじもしない。日月がこれまで八年の短い生涯をどのように過ごしたか、本当のところはわたしにわかるはずもないが、それが日月が学んだ人生の対処法であるなら、それを受け入れ、尊重しようと思っただけだ。
が、そうはいっても少し癪に障る。
初めての出会いのときから、わたしは日月を大きな愛で包もうと決める。それはわたしに課せられた暗黙の努力ではなく、純粋の好意から発した気持ち。少なくとも、わたし自身はそう信じる。が、甘やかされて育てられ、欲しいものが願うまま何でも手に入れられる我侭な子供でしかなかったわたしは、日月からの見返りを欲す。日月にも、わたしを愛してもらいたい。父がいない屋敷の年長者として、また同じ母に愛される子供として、わたしは日月に愛されたいと願う。
そんな思いが、わたしに強く働きかけたのだろうか。
ある日、わたしは日月を散策に誘う。屋敷の周りを一巡し、それから富士の見える見晴台まで行ってみないかと誘いかけたのだ。
「屋敷の中で勉強ばかりしていては身体が鈍ってしまいますよ、日月さん。あなたにはまだちょっときついかもしれないけど、何かあったときに屋敷から避難する練習にもなると思うから出かけませんか」
そんなふうに水を向けると日月はわたしの顔色を窺うことなく、すぐさま心を決める。
「はい。かおるさんについていきます」
そのとき屋敷には母はいないが――母は週のうち四日、多いときは七日、屋敷にいない――、執事の山路はおり、二人分の弁当をすぐに用意してくれる。もちろん各部屋の掃除や片付けを行う通いの女中たちに、その行為を中断させ、作らせたのだが。
「ありがとう。だけど、そんなに遠くじゃないから」
わたしが言うと、
「馨さまは慣れていらっしゃいますからご心配いたしませんが、日月さまは初めてでございましょう。慣れない道程は疲れるものです。時間も余計にかかれば、お腹も空きます。文句を仰らずに持っていってくださいませ」
山路に諭される格好になる。
「わかったよ、山路。じゃ、適当なリュックサックを持ってきて」
「畏まりました」
山路の対応に手抜かりはない。程なくわたしと日月用のリュックサックが運ばれ、その中に弁当と必要なものが入れられ、コートや手袋やニットの帽子が用意される。屋敷の門扉まで山路と女中――弁当を作ってくれた桜根さん――に見送られ、わたしたちは手を繋ぎ、散策に出かける。門扉を離れて暫くの間、日月はわずかに不安そうに屋敷の方を振り返る。
「日月さん、何を怖がっているの。それとも何かを懼れているの」
わたしは問いかけたが日月は無言。
「あなたは心配しなくていいよ。わたしはあなたを山に捨てたりしないから。もし、それを心配しているのなら」
そこまではっきり言葉にし、わたしは自分の心の闇を垣間見る。
「それに、もしそうしようと思ったところで、お母さまが既にお見通しのはずだから、手が打ってあると思うよ」
最後の一言は自分に対する言訳かもしれない。
山道に日月と二人吐く息は白かったけれど、わたしの息だけ真っ白な嘘に塗り潰されているような気がして仕方がない。
「いいえ、かおるさんは、そんなことはしません」
二人とも黙したまま屋敷の周りを一周し、ついで一部が冬枯れした林の中に屋敷が完全に隠れたところで日月が言う。
「かおるさんは、ぼくをあいしてくれています」
「でもそれは見かけの態度だけのことで、本当はあなたのことが嫌いなのかもしれないよ。ぼくはお母さまの愛の一部をあなたに奪われたのだから」
「かおるさんは、ほんとうは、そんなことをは思っていません。ぼくは、まだうまくかおるさんをあいすることはできないかもしれませんが、かおるさんと新しいお母さまを好きになるともう決めています。それに、そんなことを決めなくても、かおるさんとお母さまは、さいしょからとてもすてきなひとたちだとわかっています。だから、なにもしんぱいしていません」
「ありがとう、日月さん。でも心なんてすぐに変わる。わたしはこの半年で、それを厭というほど実感したんだ。だけど日月さん、あなたはもっと多くを感じたんだよね」
わたしの質問に対する日月の答はない。
「かおるさん、あそこ」
しばらく林道を歩き、日月がまるで八歳の子供のように叫ぶ、青く明るく斜め上に開いた林からの出口を指し示し。日月の声に驚き、思わず顔を見下ろすと、寒さに紅くなった頬や顔全体に満面の笑みを浮かべている。
「天候もあなたの味方のようだね、日月さん。さっきよりずっと晴れて暖かくなってきたよ」
山道を歩き、火照り始めた身体から熱を放散しようとニット帽を脱ぎながらわたしが言う。
「はい。たしかに少しあついみたいです」
日月がわたしの動きを真似、同じように帽子を脱ぎながら、そう応える。
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