2 母

 日月はわたしの母に発見される前、実の母と二人、西の都市で暮らしていたようだ。異常な熱気と高揚に始まり、これまでこの国には経験のなかった惧れと幻滅で終わった戦争の傷跡は徐々に薄くなったとはいえ、持てないものの暮らし向きは本当に楽ではなかったようだ。そんな世の中の状況は今のところ、持てるものの一員であるこのわたしでさえ濃厚に感じられる。漏れ聞くところによると、日月の母は身を売る仕事以外、生きるために、どんなことでも引き受けたという。裁縫が出来、料理が出来、学者とは程遠いとはいえ、語学も出来る。筆も立ち、字も美しい。また父が愛した女性だから、きっと頭も良かったはずだ。けれども残念なことに日月の母は庶民だったのだ。戦時中、父と出遭ったときは食堂の女給。もっとも、それは店の人手不足で借り出されたためだという。本来は料理長に近い役目を与えられていたらしい。

 父と日月の母との出遭いにどんなロマンスが香ったのか、わたしは知りたくもあり、また知りたくはない。知りたい理由は、戦時下の男のペルソナを片時も離さず身に纏い、己の家庭や持株会社にどこまでも君臨しようとしたあの厳しい父の恋愛に対する興味であり、知りたくない理由は、わたしが母を愛していたからだ。

 日月の母のことを知らされたときの母の気丈な姿を、わたしは脳裡にありありと思い浮かべることができる。母だって普通の人間。本心では悔しくもあり、また憎くも感じたはずだ。が、母はわずかも取り乱さず父の頼みごとを引き受け、最低限の事実をしか明かすことなしに持てる伝手を最大限に利用し、日月の母を捜し出す。残念なことに、それは父の死には間に合わないが。父の、いや夫の死という一つの大きな区切りの日に、ようやく母はその作業を完遂する。本来ならばまったく関わる必要もない探索作業を途中で放り出したところで、母に文句をいう人間は唯一人いなかったというのに。

「たとえ一時期であっても葛城が大切に扱い、また扱われた人なのです。その人の所在はいまだ知れませんが、借りた恩は返さなければなりません。そうではありませんか、宮邨さん」

 母を気遣い屋敷を訪れた葛城財閥傘下の帝国重金属工業社長に母が投げかけたあの言葉が、唯一母の愚痴だったように思える。

 行方知れずの日月の母を捜す行為は死の床にあった父の母に対するたっての頼みごとだったが、母はそれを父からの命令ではなく、また単なる親切心や男でいえば義侠心のような立場からでもなく、どうやら報恩と捉えていたようだ。が、そういった言葉と裏腹に、わたしは真夜中の寝室で父の背広数着を鋏で切り裂きながら、更に両手で引き千切っていた母の姿を目撃している。後にも先にも、普段は努めて穏やかな母のあれほど狂おしい女の姿を、わたしは一度も見たことがない。あのとき母は胸中、何を考えていたのだろうか。正直いって惨く怖ろしい光景だったが、あのときの母は艶やかであり、また妖艶で、それまでに見たことがないくらいの美しさ。

 約一月前、母の遣いに発見されたとき、日月の母親は流行り病の床。戦時中、ついで戦後と、幼い息子を養った苦労が祟ったのかもしれない。あるいは苦労を知らないわたしには想像もつかない他の理由があったのか。母の一声で臥せっていた共同住宅の一室から西の都でも有数の大病院に移される。が、時既に遅く、その命は燃え尽きる。何人もの医者が代わる代わる見立てをしたが、誰の態度からも助かる気配が感じられない。やがて病床の身で唯一の心配事だった一人息子の行末が約束され、かつわたしの母の慈愛が決して見せかけのものではないと得心し、病の重さにしてはそれほど苦しむことなしに、まるで糸が切れるようにふわりと息を引き取る。わたしは葬儀に参加させてもらえなかったので詳しい事情は知りようもないが、執事の山路が言うには『とても安らかなお顔』だったようだ。そう説明した後で山路が口を滑らし、『旦那さまが御呼ばれになったかもしれませんな。お独りの旅立ちは寂しいものですから』と呟くが、わたしはわざと聞こえない振りをする。確かにそうともとれる日月の母の死だが、それではわたしの母があまりにも可哀想ではないか。

 母はさまざまな意味で有能だったから、父から受け継いだ家も会社も守り抜く。結局のところ、母は周囲に期待されつつ父を看取る。母は自分の意思で死ぬわけにはいかない。世間と親戚と会社に預かる総計で数十万人の従業員のため、母は生きる。できることなら母だって父の後を追って死にたかっただろう。そんな態度はおくびにも出さなかったが。持てる家の有能な子女として育てられ、格の等しい家に嫁いだ母には自分の気持ちより優先させなければならないものがあったのだ。そうでなければ父の会社は父の死後、右から左へと父の兄弟か親戚の手に委ねられただろう。結果、会社は徐々に衰弱し、やがて時代の闇の中に消えていったかもしれない。母には父の親戚筋の男たちから毎月の生活費とわたしの養育費が支給され、生涯、この屋敷に縛り付けられる可能性もあったのだ。実際、その類の噂は今でも世間や会社で囁かれ続ける。よって母はミスが出来ない。些細な失敗はともかく、会社の舵取りを誤れない。もっともわたしには母がわずかでもミスを冒す可能性が頭に思い浮かべられないのだが。少なくともこれまで浮かばなかったし、おそらくこの先もそうだろう。

 わたしはそんな有能で気丈な母を持てたことを誇りに思う。が、同時に母を可哀想にも感じる。わたしとしては複雑な心境にならざるを得ないが、いつか母に心から好きな人が現れたなら、その人と添い遂げて欲しいと願っている。母はわたしの前で母親の顔しか見せないが、母だって昔は夢見る少女だったはず。それとも幼い母の見た夢は、世間体ばかりを気にする男なんぞに頼らずに颯爽と肩で風を切り生きる女性の姿だったのだろうか。

「日月さん、あなたの母さまはどんな人だったの」

 いつの間にか自分の母親の回想に耽っていたわたしは、不意に我に返り、日月に尋ねる。何故かといえば、日月が不思議そうな表情で、わたしを見つめていたからだ。

「ねえ、日月さん。わたしに教えてくれないかな」

「やさしい、だれにでもやさしいひとだったと思います」

 わたしの問いに応え、日月が言う。その声に妙な感慨や無理に悲しみを堪えたような雰囲気はない。日月は既に亡くなった自分の母のことを思い出として整理してしまったのだろうか。

「日月さん。あなたは強い子なんだね」

 わたしは感じたままを正直に口にする。

「いいえ、ぼくの母さんがそれを望んでいるだけなんです」

 すると日月は少しはにかんだようにそう答える。

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