人形愛
り(PN)
1 日月
「馨さん、今日から、この子があなたの弟になります。仲良くしてあげてください」
冬休みも初めの朝九時少し過ぎ、ドアをノックし、母がわたしの部屋に来て告げる。振り向くわたしの目が捉えたのは綺麗な少年。七、八歳くらいだろうか。さすがに幼い顔立ちをしていたが、目許が引き締まり、姿勢も良い。今では家族になったとはいえ、初めての他家で緊張の様子。が、惧れのような表情は見受けられない。
「わかりました。お母さま」
わたしが言う。
「お名前は」
「あら、うっかりしていましたわ。名前は日月(ひつき)さんと言います。月日(つきひ)の日に、同じ月日(つきひ)の月です。さあ日月さん、馨さんに、ご挨拶なさい」
「あの、はじめまして。かおるさん」
「こちらこそ、どうぞはじめまして、日月さん。これからもよろしく」
そう言い、わたしが日月に笑みを投げる。応じて日月も幼い微みを返す。
「さて、馨さん。わたしは用事があります。夜には戻ってきますが、それまで日月さんの面倒を見てあげてください。お願いしましたよ」
「街まで、お出かけですか」
「当然そうなります。何か欲しいものでも」
「時間が取れるようでしたら、立風堂のガトーショコラを。夕食後に日月さんと一緒に食べたいので」
「良い思いつきですね。わかりました」
母が言い、慌てて続ける。
「ああ、そうそう、言うのを忘れましたが」
あの日の母はいつもと違い、落ち着きがない。少なくとも、わたしの目にはそう映る。ここ数ヶ月、わたしたち家族における激動の時間が、母を、持って生まれた性格以上に強く変えたようだ。が、大人ではなく、子供相手では勝手が違い、戸惑ったのかもしれない。
「何でしょうか、お母さま」
「前以て、あなたに伝えましたように、日月さんのお部屋は、このお隣です。でも日月さんはまだ幼い。それに屋敷にも慣れていない。だから馨さんのお部屋に自由に出入りさせてあげたいと、そうお願いしようと思っていたのですよ」
わたしに説明する母の横顔が瞬時、日月のように幼くなる。ぎゅっと手を繋いだ日月と母が入れ代わる。本来、母が持っていたはずの表情かもしれない。どんなに困ったときでも母の美しさは変わりない。わたしは険しい表情を浮かべる母を見るのを好まない。できれば母には常に子供のように振舞って欲しいと願っている。
「お母さまに言われなくとも、もちろん日月さんは、この部屋に出入り自由ですよ。さあ、日月さん、こちらにいらっしゃい」
わたしに促され、日月はそれまでぎゅっと握っていた母の掌をさらに強く握り、ついで母の顔を見上げ、次には母の表情に促され握った手を放すと、覚悟を決めたようにわたしに近づく。わたしはそれまで座っていた椅子から立ち上がり、腰を落とし、自分の目線を日月のそれを合わせ、できるだけにっこりと微笑みかける。ついで、わたしに向かってゆっくりと指し差出された日月の薄い掌を繊細なガラスの壊れ物にでも触れるように自分の右掌で受け止める。子供なのに、しかもつい先ほどまで母の掌を握っていたというのに、日月の掌には熱がなく、本当にガラスで出来た造形作品かと思わせる。
「疲れていませんか」
日月の手を握り返し、わたしが問う。
「いいえ、だいじょうぶです」
日月が答える。
「では馨さん、お願いしましたよ」
時刻を確認し、母がわたしたち二人がいる部屋を去る。バタンと扉が閉ざされ、わたしたち二人はその音に合わせるようにそれぞれの右掌を離す。扉の先から母が階下に降りて行く音と執事の山路にテキパキと指示をする声が低く聞こえる。
「そうはいっても、長旅で疲れたよね。ベッドにでも腰かけなよ」
砕けた口調で、わたしが日月に話しかける。
「かおるさんのへやは広いんですね」
わたしの部屋に取り残され、何が珍しいのか、日月がきょろきょろと辺りを見まわす。広さ二十畳ほどの東向きの洋間。屋敷の二階。部屋の中で一際威厳を放つのがアンティークの置時計。半年前に亡くなった父の趣味の一つ。他にも屋敷の格に見合う調度品が多く設えられている。
「日月さんの部屋だって、ここと同じ大きさだよ」
わたしが言うと日月が応える。
「はい、それはさっき新しい母さん……お母さまにつれられ、見たので知っています。でも、ここだけでも前のぼくの家と同じくらいの大きさで」
「へえ、そうなの。大変だったね。まだ悲しいよね」
「しんだ人はかえってきませんから」
「月日さんの元いたお家って、ここからずいぶん遠いところにあったんでしょう」
母とわたしが住むこの屋敷は都会から随分離れた郊外の丘……というか、二峰連なった低い方の山の頂に建っている。口さがない中学同級の生徒たちは、御山のお化け屋敷、と呼んでいる。修繕の行き届かない荒れた屋敷ではないが、さすがに築百年を過ぎれば威風堂々を通り越し、魔が宿るのだろう。それが九十九神なら可愛いものだが、現実の死の商人を育てた場所となると冗談では済まされない。
「残念ながら、あなたも今日からのお化けの仲間入りだね」
わたしがいうと、日月が、えっ、と聞き咎める。
屋敷近傍の村人たちによれば、お化け屋敷に棲むわたしたちも、またお化けということになる。可哀想だが、ここに越して来た以上、日月もまたお化けの一人となったわけだ。
「言葉の意味は、いずれ、わかるよ」
そう言い、わたしが改めて日月を観察する。とにかく綺麗という第一印象だが、それに加え、日月は繊細で清潔だ。死んだ父がどんな情をかけたのか、まだ十四歳の子供でしかないわたしに本当のところはわからない。が、日月の母親もまたきっと綺麗/繊細/清潔な印象の人だったのだろう。ライバル企業の策略に乗せられ、また追い討ちをかけるように死の病に倒れた父が意を決し、母に日月の母のことを告げる。詳細は、もちろんわたしに知らされない。以前から父はその女性のことを気にかけていたようだが、如何せん、父の目の前から女性が姿を消し、七年の歳月が経つ。だから女性自ら名乗り出なければ所在は杳として掴めなかったはず。
「でも、お母さまはあなたの母さまを見つけたのだよ」
そう言うわたしの声は少し誇らしげだったかもしれない。
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