7
日が暮れる少し前、来理は室寺に送られて自宅へと戻っていた。やはり魔術具の修復には時間がかかりそうなので、いったん必要なものを取りに帰ってきたのである。明日からはしばらくのあいだ、鴻城の屋敷で寝泊りすることになりそうだった。
春の夕暮れはひどくぼんやりとして、夜と昼の境界が曖昧だった。ゆっくりと何かが降り積もっていくように、世界は徐々にその容態を変えつつある。
「……?」
来理が扉に手をかけると、それには鍵がかかっていなかった。出かけるとき、確かに戸締りはしておいたはずではあったけれど――
扉を開けて中に入ると、居間に明かりが灯っているのがわかった。薄暗い廊下に、キャンバスから絵の具がはみだすみたいにして光がもれている。誰かが、そこにいるようだった。心あたりはない。物盗りということもないだろうが、来理は警戒しながらそっと中をのぞいてみた。
いつもと変わりのない居間には、誰かが一人で座っている。背中を向けているので、顔を確認することはできない。
けれど――
「未名……」
佐乃世来理にはそれが誰なのか、すぐにわかっていた。
呼び声に反応して、彼女は向きを変える。それは間違いなく、宮藤未名だった。日向ぼっこでもするような温かなまなざし、柔らかな口元、少し癖のある髪。来理にとっては実の娘であり、ハルにとっては母親にあたる。かつてハルを生き返らせるために〝蘇生魔法〟を使い、自分の命を犠牲にした女性――
彼女は確かに未名の顔で、微笑んでみせた。たった今、世界で一番きれいなものを見つけたみたいに。
けれど、来理はただ小さく首を振って黙っているだけだった。彼女はこの再会に喜ぶことも、驚くこともない。
何故なら――
宮藤未名は、もう死んでしまっていたからだ。来理の中で、ずっと以前に。それは頑丈な棺桶に入れられ、地の底深くへ沈められ、立派な墓標まで立てられていた。その一連の作業を、来理はもう済ませてあったのだ。ある種の契約書にサインするみたいに。
「……あなたは、未名じゃないわ」
来理は月も星もない夜のような穏やかさで言った。
彼女は返事をすることもなく、正体を現す。水面に立つ波紋のような揺らぎが起きると、そこには小さな少女の姿があった。家に侵入した彼女は、飾ってあった写真から未名の姿に変身していたのである。
「――何で、わかったの?」
サクヤの口調は、まるでそれを咎めているかのようだった。
その言葉に対して、来理は軽く首を振って答えている。
「あの子はもう、この世界のどこにもいない。私はただ、それを知っているだけのことよ」
「…………」
サクヤは目を伏せるようにして、ちょっと黙った。
けれどしばらくして、口を開く。まるでその言葉が現実を変えてしまうことを、恐れるみたいに。
「……ニニは死んだわ」
来理はただ、うなずく。
「……牧葉清織のやつに殺されて」
そこまで言ってから、サクヤはまた口を閉ざした。海に深く潜ったダイバーが、減圧症にかからないよう半分ずつ浮上を繰り返していくみたいに――
少ししてから、来理は訊いてみた。
「どうして、あなたは私のところに来たのかしら?」
「……あんたたちは、あの牧葉清織のいるところに行くつもりなんでしょ」
訊かれて、来理は一瞬困ったように黙ってしまう。サクヤが何を言うつもりなのか、わかってしまったから。
「だったら、あたしも連れていって。あいつだけは、このままにしておけない」
「……復讐、ということかしら」
どうやら彼女の傷口からは、まだ生々しく血が流れ続けているようだった。致死量にも等しいほどの血が。おそらくそれを縫合してやることは、誰にもできないだろう。
「希槻さまがいなくなった以上、どの道あたしはいつか死ぬ。あの人の血を補給できなければ、ホムンクルスは長くは生きられないから」
サクヤはそして、世界の最後を見とどけるようなかすかな微笑を浮かべて言った。
「それならあたしはせめて、あたしの心が望むことをしたい。少しでも人間らしく――」
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