8
中央競技場は陸上のほかに、サッカーやラグビーの試合が開催可能な施設だった。スタジアムは二万人ほどの観客収容人数を擁し、スタンドに囲まれたごくオーソドックスな形式をしている。
室寺と五人は車から降りて、その建物へと向かった。当然だが、あたりに人はいない。行楽日和といってもいいくらいの陽射しのもとで、時間だけが妙に余白を感じさせる沈黙の中にあった。
スタジアムにある出入口のいくつかは、直接フィールドにつながっている。六人はそのうちの一つを選んでスタンドの下をくぐっていった。短い暗闇の向こうには、赤茶色の陸上トラックと緑の芝生が広がっている。今のところ、特に異常は見あたらない。
広大なフィールドに出ると、まわりをぐるりと壁が囲んでいる。スタンドがすり鉢状になっているせいか、空までの距離がだいぶ遠くなったような感じがした。手をのばしたくらいでは、どうやっても届きそうにない。風は水槽に入れられた魚みたいに、あたりを吹きすぎていった。
「何もないようですね」
と、朝美が周囲を警戒しながら言った。
「来理さんもいないみたいだし」
傍らで、アキもつぶやく。
「とにかくゴール地点を調べることだな」
室寺が言って、六人は指定されたとおぼしき場所へ向かった。
陸上トラックのレーンには、一から九までの数字が振ってある。それを一つ一つ調べていくと、ちょうど七レーンに黒いマジックらしいもので文字が書いてあるのが見つかった。
「また、暗号――?」
と、アキが嘆息したときのことである。
ピイイィィ――
スタジアムいっぱいに、笛の音が響きわたった。ゲームの試合開始を告げるような、金属的な亀裂音である。
「何だ……!?」
室寺が背後のスタンドを振りむくのと、ほぼ同時だった。
正体不明の白い物体が、観客席でいっせいに立ちあがっている。
さすがにスタンドを埋めつくすというほどではないが、それでも相当の数だった。雨後の筍といった表現がぴったりである。
「早朝から運びこんでいたのは、どうやらこれだったみたいですね」
朝美が、ほとんど独り言みたいにつぶやく。
「――おい、次の行き先はどうなってる?」
と室寺は目だけを動かして訊ねた。謎の物体に、まだ動きは見られない。が、どう考えてもこれで終わりというわけはないだろう。観客というには、あまりに不気味すぎる集団だった。
「ちょっと待ってください――」
アキは言って、慌てて地面をのぞきこむ。
『BとNのあいだにあって、Heの場所
――グース』
今度は、そう書かれていた。
「何だそりゃ?」室寺が訊く。
「いや、そう言われても――」
アキが困惑しているあいだに、それは起こった。
鬼ごっこで規定の秒数を数え終わったとでもいうように、白い物体がいっせいに動きはじめたのである。あるいは、起動準備が完了した、ということかもしれない。何にせよ、何百、何千あるのかもわからないそれらの物体は、人間のような動きでスタンドからの移動をはじめていた。
――六人のいるほうへと向かって。
「どうやら、これが本命だったらしいな」
と、室寺はこの状況に及んでも不敵な笑みを浮かべている。
「いったいどうするつもりなんですか、室寺さん? 数が多すぎますよ――」
朝美がちょっと、途方に暮れるように言った。
「心配するな。お前たちはとりあえずその暗号を解いて、次の行き先を教えてくれ」
室寺の声はあくまで泰然としている。
そして五人が何かを言う前に、室寺はその場を少し離れて、スタンドのほうへと向かっていた。首を軽くひねり、腕をまわす。肩を左右で上下させ、足の具合を確かめるように地面を強く踏んだ。拳を何度も開閉し、呼吸を整える。
白い物体の一体目が、スタンドから地面へと飛び降りてきた。
ほぼ等身大の人形、といっていいだろう。粘土で形成されたような質感をしていて、流線型の白い四肢が、黒い球体のようなもので接合されている。頭部と思われる場所には、目のような青い線が入れられていた。腕部の先には手のような構造も認められる。
人形は室寺のことを認識するように、一呼吸だけ間を置いた。
そして次の瞬間、人間離れした速度で室寺へと襲いかかる。明確な敵意と破壊目的が、そこにはあった。
室寺は構えをとって、鋭く息を吸う。
人形の一撃が交錯する直前、室寺はそののばされた手を左腕で払うと同時に、右拳による打突を実行した。
――室寺の魔法〈英雄礼讃〉
それは〝装着した魔術具の効果を増大させる〟というものだった。つまり、厳密にいえばこの魔法は室寺本人には何の影響も及ぼさない。この魔法だけでは、室寺蔵之丞を無敵の超人にすることはできなかった。
だが、彼は常に三つの魔術具を身につけている。
魔法の揺らぎを受けたグローブが人形の体をとらえると、その一撃は人形の肢体をばらばらに粉砕しながら、派手な音を立てて十数メートルほども吹き飛ばした。
ひび割れた胴体だけになった人形は、文字通りの木偶と化して地面に転がっている。
「……すごい」
呆然としたアキの口から、やや控えめな形容詞がもれだした。
力を強化するグローブ、防護用のコート、特殊効果を持ったブーツ――それが室寺の装着する三つの魔術具だった。もちろん普通の魔法使いでも同じような効果は見こめるが、室寺の〈英雄礼讃〉によるほどのものではない。聖剣は誰にでも抜けるというものではなかった。
一体目を破壊するあいだにも、別の人形が次々とスタンドから飛び降りている。室寺は気合いを入れなおして、次の襲撃に備えた。
「こっちは俺に任せろ。お前たちのほうには通さん」
しゃべっているあいだにも、室寺はすでに二体目を粉砕している。
「――だ、そうだけど」
と、ナツは軽く肩をすくめるように言った。
「できるだけ急いだほうがいいだろうな」
そして、五人は二つめのなぞなぞに向かいあった。
「今度は前のより短いけど……」アキは地面を見ながら言う。
「BとNのあいだ、He。これってたぶん、元素記号のことだろうね」ハルがつぶやく。
「ホウ素と窒素のあいだといえば、炭素ですね」朝美が言う。
「炭と公園に何の関係が?」アキは首をひねった。
「……炭素といえば、ダイヤモンドかな」ハルが言う。
「ダイヤモンドといえば、野球場だな」ナツがひきついだ。
「でも、ヘリウムというのは何のことなの?」フユが訊く。
その時、ボーリングのような派手な炸裂音が響いて全員がそちらのほうを向いた。見ると、室寺が人形の足をつかんで別の集団に投擲しているところだった。
「――野球とヘリウム?」アキはもう一度首をひねった。
「周期表では、二番目の元素ですね」と、朝美。
「二番目ってことは、キャッチャー?」アキが言う。
「何で二番がキャッチャーなの?」とフユは理解しかねるような顔をした。
「……守備番号だ」ハルは気づいた。「一番がピッチャーで、二番がキャッチャー。三番はファーストだったかな」
「そうだよ。前に野球部の取材をしたとき教えてもらったんだ」アキは朗らかに自慢する。
「キャッチャー、つまりホームベースってことか」ナツは言った。
「たぶん、そうだよ――」
ハルは顔をあげると、室寺に声をかけた。
「室寺さん、次の行き先は野球場のホームベースです」
人形を一体前蹴りで突き飛ばし、室寺は顔だけそちらへ向けた。
「了解した。ただし、俺はこいつらを片づけるのが先だ。次の場所にはお前たちだけで向かえ。それから、千ヶ崎――問題がなければ例の計画通りの行動に移れ」
「でも、室寺さん――」
朝美はいかにも難しそうな顔をした。いくら室寺の〈英雄礼讃〉でも、この数を相手にして無事ですむとは思えなかった。
「俺のことなら心配いらん」
室寺は一笑した。そういう男なのである。
「どうせ大本命は例の子供たちだろう。それまでの肩ならしにはちょうどいい」
「…………」
朝美はかすかに逡巡したが、結局はその言葉に従うことにした。こと戦闘に関するかぎり、この男にはほとんど無敵の能力がある。
出入口までの人形が塵でも掃くように蹴散らされると、五人はスタジアムの外に向かった。トンネルの下から、朝美は振りかえって言う。
「千條と乾さんがいなくなったうえ、あなたにまで死なれたら困りますからね」
いまや競技場の反対側にあるスタンドからも、人形の群れは白い津波のように押しよせつつあった。
「……俺はそう簡単に死ぬわけにはいかないんでな」
室寺は仁王立ちしたまま、顔を振りむかせもせずに言う。朝美には見えなかったが、その顔はたぶん、笑っているはずだった。
時間の余白は急速に、隙間なく埋めつくされようとしていた。
〈生命時間〉をかけられた車は、指示された場所へと自動で走っていく。車には四人の子供たちが乗っていた。朝美は以前と同じくバイクで追走中である。車内には手で叩けそうなくらいの硬質な沈黙が漂っていた。
「……室寺さん、大丈夫かな?」
アキがつぶやくように言う。
「本人がそう言ってたんだから、ぼくたちにはどうしようもないよ」
ハルは少し複雑な表情で首を振った。
「それに、私たちがあそこにいても、足手まといになるだけでしょうね」
フユは冷静に指摘する。
「でも――」
と、アキがなおも言い募ろうとするのを、ナツが制した。
「俺たちにできるのは、さっさと佐乃世さんを見つけだすことだな」
当然の正論を言われて、アキは口を閉ざすしかない。
車はほどなく、野球場に到着した。こちらにはスタジアムといった施設はなく、外野の向こうは土手に囲まれている。さっきよりも、いくらか空が低くなったようでもあった。
球場の前に立った四人と朝美は、けれどその場でいったん立ちどまっている。
グラウンドには、さっきと同じような人形が石ころでもまき散らしたような格好で散在していた。さすがにさっきのような数は見られないが、それでも相当数には違いない。
「どうやら指示に従って進む先々で、この人形を破壊しなくてはならないみたいですね」
と、朝美は眉をひそめる。
「室寺さんじゃあるまいし、そんなのわたしたちには無理なんじゃ……」
アキが不安そうに言うのを、「ちょっと待ってください」と押しとどめて、朝美はグラウンドのほうに向かった。
そして一番手近にあった人形に向かって、銃を構える。〈転移情報〉によって本物の性能を上書きされた、例のおもちゃの拳銃だった。
朝美はその銃で、人形の頭部を狙い撃った。正確に一撃された人形は、けれど何の反応も示さない。朝美が横たわったままの人形に近づいても、やはり同じである。指先一つ、ぴくりともさせない。
「フェイク、ってことですか?」
ナツは訊きながら、同じように人形に近づいてみた。見ためは、さっきのものと何の変わりもない。
「いえ、魔法の揺らぎはあります。ただ、起動条件のようなものを満たしていないのでしょう。スタジアムの時に聞こえた笛の音、あるいはああいったものが」
「ふうん」
アキはしゃがみこんで、人形の体を何度か叩いてみる。こんこん、と硬質な音がした。かなり頑丈そうである。
「しかしこれ、どっかで見たことがある気がするんだよな……」
それを見ながらナツはふと、釈然としないようにつぶやいていた。
「え、どこで?」
アキが訊きかえすと、ナツは迷うように首を振っている。
「――いや、たぶん関係ないし、どうでもいい話だ」
「何にせよ、問題ないなら次の暗号を探しましょう」
フユが言って、それから五人は動きだす。大量の人形が横たわるグラウンドを、ホームベースのほうへと向かった。白骨化したような白い人形があたりに散らばるさまは、非業の最期を遂げた兵士たちがそのまま野晒しにされているようで、あまり気持ちのいいものではなかった。もっとも、室寺がここに到着すればまさしくその通りのことにはなるのだろうけれど。
五角形のベースが埋めこまれた本塁のところまで来ると、そこには予想通りに次の行き先を示した問題が書かれていた。当然、それを解かなければ次の場所へは進めない。
「迂遠な話だな」
とナツは少しうんざりした顔をして言った。またぞろ例のなぞなぞに挑戦しなければならないのだろう。
けれどその時、不意に朝美が声をかけている。
「――申し訳ありませんが、ここからのことはみなさんにお任せします」
「どういうことですか?」
ちょっとびっくりしたように、アキは訊きかえした。
「事前の打ちあわせ通り、私は別行動に移ります」朝美はあくまで淡々とした、事務的な口調で言った。「あなたたちは何とか、佐乃世さんの救出を続けてください。室寺さんはああ言っていましたけど、このままではいずれじり貧に追いこまれてしまうでしょう。そうなる前に、何か手を打つ必要があります」
言われて、四人とも一瞬戸惑った表情を見せる。ここからは、子供たち四人で行動しなければならない、ということだった。
けれど――
事態はすでに、ほかにどうしようもない状況になってしまっている。
「大丈夫、あなたたちならきっとやれる気がしますから」
千ヶ崎朝美は彼女には珍しく、根拠のない太鼓判を押した。
「――完全魔法だけではなく、あなたたち自身の力を見ているとそんなふうに思えるんです」
※
スタジアムでは〈英雄礼讃〉を駆使しつつ、室寺が孤軍奮闘を続けているところだった。フィールド上には、人形の残骸が破片になって散らばっている。緑の芝生は白いペンキの飛沫でもとばしたように、まだらになって染まっていた。
今しも、何十体目かの人形が室寺の裏拳で破壊されたところだった。
「――さすが、たいしたもんですね」
ポータブルモニターに表示されたそれを見ながら、烏堂は感心している。
競技場を囲むスタンドの最上段、大きなガラス窓の並んだ部屋の中に、烏堂有也はいた。すぐ隣では、鷺谷が立ったまま窓の外を眺めている。部屋の中にはほかに誰もおらず、電気はつけられていなかった。見つけられては困るからだ。
そこは場内にアナウンスや音楽を流す放送室で、室内には机やイス、いくつもの放送用機材が置かれていた。窓の外からは競技場をほぼ一望することができる。さすがにフィールドの人間は豆粒ほどにしか見えなかったが、全体を眺めるには好都合だった。室寺が次々と人形を殴り倒していく様子がよく見える。
「あーあ、またやられちゃいましたね……」
烏堂は画面に映された光景を眺めながら、ひどくとぼけた口調で言った。
スタジアムの人形を用意したのは、もちろんこの二人だった。鷺谷聡の〈
鷺谷の〈即興兵隊〉は〝人型の形状をした物体をロボット化することができる〟というものだった。アキの魔法と少し似ているが、こちらは単純な命令に従うだけで、自らの意志や感情といったものを持つことはない。ロボットとしての性能は、概ねそのデザインに依存して変化した。
一方、烏堂の魔法は〝ある行為による効果を、指定した条件下で発動させる〟ものだった。以前にも説明したとおり、一種の目覚まし時計のような魔法である。
結社からの協力要請を受けて鷺谷がまず用意したのは、大量の人形だった。幸い、鷺谷にはその心あたりがあった。会社による宣伝企画のために制作された、『スターチャイルド』というアニメの等身大模型である。
そのアニメではチャイルドと呼ばれるロボットの骨格として、「素体モジュール」という設定が使われていた。宣伝用の人形として作られたのは、その模型である。とはいえ、特注品のものが一体あるだけで、もちろん大量生産などされていない。完成品と設計図だけはそこにある、という状況だった。
そこからどうやって生産ラインを成立させたのか、鷺谷は知らない。あまり知りたくもなかった。だがそれが必要なことだけを伝えると、すぐに人形の生産が開始されたのである。鷺谷にすれば、こちらのほうがよほど魔法だった。
できあがった人形には、鷺谷が魔法をかけた。ただしこれには問題があって、魔法の効果は長くは続かない。もって半日程度というところだった。それに一日に魔法をかけられる人形の数も限られている。玩具のネジを巻くにしても、そう簡単にはいかないのだ。
そこで、烏堂の〈暗号関数〉が必要になってくる。その魔法の条件づけによって、魔法の発動を任意の時間にずらすのである。あとは、作業の問題だった。二人は連日の徹夜を続けて、とうとうこれだけの人形を用意した。
今、そうして作った人形たちが、ドミノでも倒すみたいに次々となぎ倒されていくのを見るのは、一種の虚しさと快感の混じった、奇妙な感覚だった。
「……にしても、かすりもしませんね」
烏堂はイスに座ったまま、モニターの前であくびをもらした。その映像は別の人形にカメラを仕込んで撮影させているものだった。隣では鷺谷が、窓の外をじっと見つめている。
「ええ、そんなものでしょうね」
と鷺谷はまるで、こんなことは当然わかりきっていたことだ、といわんばかりの口ぶりだった。内心でどう思っているのかは不明だったが。
フィールドでは室寺が、大車輪の活躍を示しているところだった。その無駄のない動きは、一種の舞姿にも似ている。人形たちはその動きをとらえきれずに、子供が玩具を壊すほどの容易さで吹き飛ばされていった。
「見事なものです」
鷺谷は画面を食いいるように見つめながら、つぶやいた。
「ただし、いつまで持つかは知りませんが――」
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