四つめの始まり
1
結城季早は病院の食堂で、遅めの昼食をとっていた。並んだテーブルにほとんど人の姿はなく、ひどくがらんとしている。その様子は何となく、どこかのクジラの体内を思わせた。その暗い胃の中が終着点で、もうそこからはどこにも行けない。
季早は日替わり定食を口にしながら、休憩中のこともあってぼんやりしている。どことなく体の組織にまとまりを欠いているような感じで、手首の部分をまわすとネジ式に取り外せそうな気もした。
そうやって機械的に食事を続けていると、前の席に誰かが座っている。見ると、宮良坂統だった。この心臓外科医は相変わらずの無造作な身なりで、使いこまれた工作機器のような風貌をしている。
「構わんかな、ごいっしょしても?」
と、宮良坂は底響きのする声で言った。
「ええ、もちろんです」
季早は儀礼的にトレイを少し下げて、宮良坂のスペースを作った。
席に座った宮良坂の盆には、いつものようにサンドイッチとジュースが乗せられている。そのジュースは、宮良坂がこの食堂で唯一まともだというものだった。サンドイッチを一口で半分ほど平らげると、宮良坂は言う。
「――ここの飯は少しも変わらんな」
「そうですね」
味噌汁を飲みながら、季早は逆らわない。
「何よりもこの病院はまず、食堂の改善にあたるべきだと思うんだがな」
実際に、宮良坂は院内で頑固にそれを主張していた。症例の検討会で食堂の料理について一席ぶつような人間は、ほかにはいないだろう。
「宮良坂先生はそう言いますけど、僕はそれほど不満じゃありませんよ」
季早ごく穏やかに、控えめに反論した。
「そうかね?」
ちょっとなじるような口調で、宮良坂は言う。手元のサンドイッチはすでに三つめにかかっていたが。
「まあ、自分で作るよりはましですから」
と、季早は言った。妻と子供を亡くしたという前歴が、季早にはある。心臓の悪かったその妻である結城
「そいつは一理あるかもしれんな」
宮良坂は最後の一口を放りこむと、わざと感情を削り落とした声で言った。どれだけ問題なく癒着したところで、傷跡そのものはなかなか消えるものではない。
「……それよりも、だ」
と、宮良坂は急に話題を変えて言った。
「外科部長がかんかんになってたぞ、例の手術のこと」
「――でしょうね」
季早は平気な顔をしている。
「いったい何をしたんだ? 術式の途中でスタッフ全員を部屋から追いだしちまうなんぞ」
それはつい数日前に行われた、患者の開胸検査についてのことだった。その手術を小児科医が執刀するのもおかしな話だというのに、あろうことか担当医である季早は、手術の途中で看護士も麻酔科医も退室させてしまったのである。患者本人の希望であったことや、実質的には問題のなかったことで表面化はしていなかったが、どう考えても医療過誤ですむ話ですらなかった。
季早はけれど、料理のメニューでも確認するような、ごく当たり前の声で言っている。
「魂をつなぎあわせていた――と言ったら、信じますか?」
「魂を……?」
宮良坂はさすがに、言葉の意味を咀嚼しかねたような顔をしている。
「ええ――」季早は淡々として話を続けた。「僕の魔法〈永遠密室〉では、内部のものを取りだすことはできても、中に入れることはできません。だからそうするためには、実際に切開して、縫合する必要があったんです。つまり、外科手術の必要が」
そう言われて、宮良坂にはもちろん何のことかはわからない。この経験豊富な熟練医師に理解できたのは、それが魔法に関わる物事らしいということだけだった。
「魂をつなぐ、ね」
宮良坂は狐にでもつままれたような顔をしている。
それを見て、季早はかすかに笑った。かつて浮かべていた、白夜に似た印象の笑顔を――
「でも宮良坂さん、もしも誰かが〝完全世界〟をくれると言ったらどうします?」
「完全世界?」
「人が言葉を覚える以前、魔法とともにあった世界のことです。そこでは一切の不幸も、虚偽も、犠牲もありはしなかった。すべては完全だった」
「それをくれる、と?」
「ええ」
宮良坂は複雑な症例のカルテでも眺めるような、厄介そうな顔をした。
「そいつを断わるのは、ひどく難しそうだな」
「……そうですね」
と、季早は深海の底からすくってきたような、暗く冷たい感慨を込めて言っている。
「魔法使いでそれができるとしたら、それは不完全世界を望んでいるということですらあるんですから」
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