7
昼を少し過ぎた頃、県道を走るSUVの車内には五人の人影があった。運転席に室寺、隣の助手席にはアキ、後部座席にはハル、ナツ、フユの三人が座っている。朝美はいつものバイクに乗って、そのあとを追走中だった。
運転席に座っている室寺は、実のところ運転はしていない。ハンドルには軽く手をそえているだけで、アクセルやブレーキには足を置いていなかった。
それはアキの魔法〈生命時間〉によるものだった。
〝物体に生命を吹きこむ〟彼女の魔法によって、室寺の車には今、自らの意志が持たされていた。〈生命時間〉は対象の形態に従った自律機能や、会話能力を付与することができる魔法だった。となれば、自動車が名前の通りに自走するのは、容易いことだったのである。
「――にしても、自分の車が勝手に走ってるってのは妙な気分だよ。誰かに体を乗っとられたみたいな感じだ」
室寺はどこか釈然としない様子でうめき声をあげた。
「それは室寺さんがクロのことを奴隷みたいに考えてるからですよ」
隣で、アキは乱暴な子供をたしなめるような口調で言う。
「クロ……?」室寺は口を半開きにした。
「この子の名前です。黒い車だから」
まるで犬の名前ではある。
「クロが言うには、室寺さんの運転は乱暴すぎるそうです」
「俺が?」
室寺は目を瞬かせた。〈生命時間〉をかけられた物体との会話は、基本的にはアキとしか成立しない。
「無駄にアクセルを踏んだり、急ブレーキをしたり、無茶なコーナリングをしたりするのはやめて欲しい――だ、そうです」
「……腹蔵のない意見をありがとうよ」
室寺はため息をついた。
「もっとまじめに聞いて欲しい、ってクロは言ってますよ」
「このままだと、そのうち水奈瀬に向かって尻尾でも振りそうだな」
と室寺は苦笑したが、アキはまじめな顔をしている。
「自分の言うことを聞いてくれないなら、相手の言うことだって聞かなくなるのは普通ですよ」
諫言を受けて、室寺は少し口を閉じた。心なしか、車のパネルあたりから敵意のようなものが感じられる気がする。
「その言葉、覚えておくよ。運転については一考しておこう」
「室寺さんも車に名前をつけてあげればいいんじゃないですか?」
アキはいたって明るい口調で提言した。
「……考えとくよ」
室寺は少し疲れたように、深々とシートに身を沈めた。
そうこうするうち、車は目的地へと到着している。天橋市立総合運動公園、カーナビの表示は指定された座標と一致していた。
「――さて、これからどうしろっていうんだ?」
入口付近で停車すると、室寺は誰にともなくつぶやいた。
公園への入口には臨時のフェンスが設置され、進入禁止の看板が出されていた。普段は一般に開放されているが、今日だけは使用禁止ということだろう。横のほうにある台座には、公園名の書かれたプレートがはまっている。
「あそこ、何かあるんじゃないか?」
と言ったのは、ナツである。
その指先は、ちょうどプレートのあたりを示していた。ほかの四人も目を移すと、なるほどプレートの横に白い封筒のようなものが貼りついている。もちろん、こんな場所に郵便の回収があるわけはない。
「俺が行ってくる。お前たちはここで待ってろ」
室寺は言って、車から降りていった。それだけで、車内はずいぶんと広くなった感じがした。重そうな鉄の塊が転がっていれば、それだけで十分に気になるものだ。
バイクで待機したままの朝美に向かって手で合図すると、室寺は周囲の警戒をしつつ封筒の回収に向かった。封筒を手に取ると、そのまま中身を空けて確認する。しばらくすると、室寺は全員を手招きした。どうやら、個人宛ての恋文ではなかったらしい。
四人と朝美は室寺のところに向かった。そこで、室寺は封筒の中身を四人のほうへと示す。そこには、こう書かれていた。
『一を抜いて、一人ぼっちの二番目の卵
卵から生まれたのは二組の双子のヘビ
ヘビの尻尾はどこにある?
――グース』
「何なんだ、これは?」
室寺は実に的確な表現をした。
「たぶん、次の行き先を示す暗号みたいなものだと思いますけど……」
ハルは首をひねるようにして言った。
「宝探しゲームだな、これじゃ」
ナツはうんざりした顔をする。
「行った先で、また似たような暗号があるんだろう」
「このグースというのは何なの?」
フユは最後の署名らしきものについて訊いた。
「グースは鵞鳥――ここではおそらく雁、つまり鴻のことだと思います。鴻城、という意味の署名でしょう。マザーグースともかかっているのかもしれませんが」
朝美は冷静に指摘した。
「――オーケー、こいつを解かないと、俺たちは佐乃世さんのところまでたどり着けないわけだ」
室寺は軽く手を叩いて言った。本人がこの公園内にいることは、以前と同じような電話で確認済みだった。例によって、それが本物で、本当かどうかの保証はなかったが。
六人は公園の入口で、紙面を取り囲んだ。樹木が風に揺れる音が聞こえた。太陽はいつものように、控えめに時間の進行を告げている。
「最後のは、ヘビの尻尾を探せってこと?」とアキがまず、問題について質問した。
「たぶん、そうだろうね」ハルが答える。
「そのヘビが何なのかは、前の文章を解かないとわからないわけだ」ナツは軽く鼻を鳴らした。
「一を抜いて一人ぼっち、って?」アキは首を傾げる。
「……もしかしたら、素数じゃないかしら?」フユがふと気づいたように言った。「素数は一をのぞいて、それ自身の数でしか割れない」
「素数の二番目というと――」と、室寺。
「三ですね」朝美が答えた。
「でも、その卵は二組の双子のヘビだった?」再び、アキが訊く。
今度は誰も、すぐにはわからなかった。
「……もしかしたら、二乗しろってことじゃないかな?」と、しばらくしてハルが発言する。
「三の二乗は、九」フユがぽつり言う。
「九つのヘビ?」何のことだ、という顔を室寺はした。
「ヘビといえば――?」ナツは唇を尖らせる。
「爬虫類、冷血動物、地を這うもの、毒、丸のみ……」フユが連想を羅列した。
「とぐろ、わっか?」アキが首をひねる。
「……九つの円」ハルは顔をあげた。「陸上のトラックのこと、じゃないかな?」
「確かに、ここのトラックレーンは九列ですね」朝美が補足する。
「その尻尾といえば」室寺が最後にまとめた。「ゴールのことだろうな。陸上のゴールは基本的に一つしかない。九つのレーンの終わりの場所――」
「そこに、来理さんが?」
アキが訊いた。
「あるいは、次の宝探しのヒントがな」
そう言う室寺の口調は、今にもやれやれと言わんばかりだった。
「――子供の遊びにつきあえ、ってわけだ」
※
一羽の鳥が、上空を旋回していた。青空を背景にして、地上からは小さな点にしか見えない。それは今にも、膨大な空の青さに吸収されてしまいそうだった。もちろん、魔法の揺らぎを感知できるような距離ではない。
鳥は眼下の公園を睥睨するように飛行していたが、何かを思い出したみたいに進路を変えた。弾丸のようなスピードで、ある場所へと向かう。やがて到着したのは、夜間に競技場を照らすための照明塔の一つだった。無骨な葡萄棚に似たその骨組みの上に、鳥は空気の乱れさえ起こさずにふわりと着地する。
照明塔は、高さにして五十メートルほどはあった。普通なら点検や電球の交換といったときにしか、人の訪れることのない場所である。たまにやって来るものといえば、鳥か、空から落ちてくる雨粒くらいのものだろう。
けれど――
そこには今、一人の少年の姿があった。
少年は空から間違えて落っこちてきたような、ぼんやりとした顔をしている。少なくともそこには、高さにめまいを起こしたり、地上へ降りられずに困惑したりする様子は見られない。風が吹いても、少しも動じることはなかった。まるで、天使がそこで、天国の門でも開くのを待っているみたいに。
その少年の前で、鳥のほうには変化が起こっていた。魔法の揺らぎが生じ、水面に小石を落としたような波紋が広がる。その波紋が治まったとき、そこにはサクヤの姿があった。彼女にもやはり、少年と同じように高さや落下の危険を顧みる様子は見られなかった。
「ちょっと予定外のことになったわよ、ニニ」
と、サクヤは言った。
ニニは相変わらずのぼんやりした顔で、彼女のほうを見かえす。
「どうかしたの?」
「執行者の連中はともかく、例の子供たちも来てるみたいよ。裏切り者の、志条芙夕もね」
「……彼女は委員会側についたのかな?」
ニニはちょっと考えるように言った。
「どうかしらね」サクヤは比較的どうでもよさそうに言った。「佐乃世来理を助けにきた、というところじゃないかしら。どっちにしろ、希槻さまの魔法が解けてるのは確かみたいね。どうやったのかは、よくわからないけれど」
「でも母親のほうは解けていないんだよね?」
言われて、サクヤはちょっとむっとしたような顔をする。
「あたしだって、そんなこと知らないわよ。でも、あの子供たちが向こう側に協力してるのは確かでしょ。どうするつもり?」
ニニは黙って、少し考える。その様子は水面にただ釣り糸をたらしているだけのようで、そこで何らかの思考が行われているようには見えなかったけれど。
「ボクらの目的は〝室寺蔵之丞の排除〟だ。そのことは変わらないよ」
「作戦に変更はない、ということ?」
「うん」と、ニニはうなずいた。「ここで獲物が弱るのを待つ」
「でも、もう不測の事態ってやつが起こってるみたいだけど? せっかく面倒ななぞなぞまで作ったっていうのに」
サクヤが小馬鹿にしたように言うと、ニニは「うーん」とうなった。ちょっとのんびりしすぎているようでもある。
「……まあいいわ、そっちのほうはあたしに任せとけばいいわよ」サクヤはわざとらしくため息をついた。「あんたは室寺のほうに集中してればいい。いざとなったら、烏堂と鷺谷の二人を置いて逃げればいいんだから」
サクヤはそう、さりげなく不人情なことを口にした。
「そうだね」
とニニはそれを気にしたふうもなく答える。
「そっちのほうは、サクヤに任せるよ。ボクは全力で室寺のほうを片づける」
「頼もしくてけっこうね」
サクヤはからかうように肩をすくめてみせた。
「――でも」
と、ニニはいつものおっとりした調子で加えた。
「もしサクヤのほうが危なくなったら、すぐに飛んでいくから。だからその時は、ボクが着くまでがんばって」
「……何であたしが危ないなんてわかるわけ?」
サクヤはちょっと眉をひそめて、言いがかりをつけるように発言した。
「わかるよ」
けれどニニは、笑顔で言っている。
「サクヤの声なら、どこにいたって聞こえるんだから」
言われて、サクヤは無理に怒ったような顔をして、強く口を閉ざす。そうしないと、頬が勝手に変な形を作ってしまいそうだったから。
「――じゃあ、あたしは行くから」
サクヤは腹いせに思いきりドアを閉めるような調子で言うと、再び鳥の姿に変身して飛びたっていった。そんなサクヤの様子を、ニニは怪訝そうな顔で見送っている。
「さて、と――」
それから、ニニは骨組みに腰かけて、天使めいた格好で地上の様子を見守った。
天国の門は開かれないとしても、その時はいずれ確実にやってくるはずだった。
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