2
スケッチブックの上を、鉛筆が走っていく。そのたびに黒い線が描きたされるが、その描線はすぐに全体と混ざってしまい、見わけがつかなくなった。まるで最初から、そうだったみたいに。
もう長いあいだ、ナツはスケッチブックにデッサンを続けていた。そこにははっきりフユとわかる少女が、イスに座って本を読んでいる。本物はすぐ目の前にいた。モデルを頼んだわけではないが、読書中の彼女はほとんど静止しているので、描くのには便利である。
何本かの鉛筆を動かすナツの横では、ハルが邪魔にならないようにそれを見ていた。
「――絵を描いてるときは、何を考えてるの?」
ナツの手がちょっととまったところで、ハルは訊いてみた。
「特には考えてないな」
そっけなく、ナツは答えた。そしてまた、淀みなく手を動かしていく。髪の線を足したり、陰影を濃くしたり。そのたびごとに絵がよくなっていくのが不思議だった。まるで帽子からウサギでも取りだされているような気分になる。
「集中している、ということ?」
ハルは特に気にした様子もなく、さらに訊ねた。
「まあそうかもな。少なくとも、今日の夕飯とかについて考えてるわけじゃない」ナツは鉛筆を立てて、片目をつむった。「けど集中しきってるわけでもないな。できるだけいろいろなものを見て、あまり考えすぎないように、見たままを描き写してるって感じでもある。極端なことをいえば、手を抜いてるな。それくらいの余裕は必要だろう」
「手を抜くのも難しい、ってことかな?」
ハルは一応、そんなことを言ってみた。
「まあ、そんなところだな」
いささか適当そうに、ナツは答える。
「――じゃあ、あなたはいつもさぞ大変なんでしょうね。手を抜いてないときがないんだから」
不意に、そんな声が聞こえた。
もちろん、フユである。けれど本を読む姿勢は変わっていない。文章から目を離しているのかどうかも怪しかった。
「手厳しいな……」
と、ナツはおどけたふうに苦笑する。
「けどちゃんとした絵を描いてもらいたかったら、不用意な発言はよしたほうがいいぞ」
「頼んでないわよ、そんなこと」
冷凍庫に安置された雪だるまみたいに、まるで動じることなくフユは言った。
「絵に変な落書きをされても構わないっていうのか?」
「好きにすればいいわ。それで困るのは、あなたのほうだと思うけど」
ナツは手をとめてハルのほうを見ると、貝殻がほんの少しだけ開くみたいなため息をついた。「これだから、お姫様はな」
そんな二人のやりとりを、ハルはただおかしそうに眺めている。
三人がいるのは、来理の家にある居間だった。庭に面した広い部屋で、そこかしこに古めかしさがしみついている。その辺を見慣れない生き物が走っていても、たいして気にはならなそうだった。庭から入ってくる風や光は、普段よりもどこか礼儀正しい感じがしている。
アキはまだ来理といっしょに訓練中で、ここにはいなかった。
「――そういえば、この前本を読んだんだ」
ふと思いついたみたいに、ハルは言った。細部の描きこみに移っていて、ナツの手はやや遅くなりはじめている。
「何の本だ?」
うるさがりもせず、ナツは訊きかえす。
「複雑系についての本」
「何でまた、そんなの読んだんだ?」
ボタンの輪郭を濃くしながら、ナツは少し呆れている。
「ちょっと興味があったんだ。それで図書館から借りてきた。ナツのお父さんについての話も載ってた」
「俺の父親ってことは、言語学についての話だな」
ナツは画面から少し目を離して、実物と比べてみた。ページをめくる以外にほとんど動きがないので、非常に描きやすかった。もしかしたら、その辺のリンゴより描画するのは楽かもしれない。
と考えてから、それが安易に伝わってしまいそうな気がして、ナツは意識を描線に戻した。まったくのところ、この少女には妙に鋭いところがある。壁があるように見えて、それが透明にできているから、人より冷静に物事が観察できるのかもしれない。
「……言語の初期発生がどうのとか、そんな話だろう?」
勘づかれる前に、ナツはハルとの会話に集中しているふりをした。
「うん、言語の文法生成過程を複雑系のアプローチによって解析する、とかそんな話」
「何のことだかわからん」
「数式とか、そういうのはぼくもよくわからないんだけど、要するに言葉がどうやってできあがっていたったのかをシミュレートするってことだと思う」
「まあ、それならわかる」
「それで、いくつかある言語生成モデルに、〝アトラクタ〟のあるものとないものがあるんだって」
「アトラクタ……?」
ナツは眠っているあいだに石ころを詰められた狼みたいな顔をした。
「ひきつける、という意味の英単語。一見、無秩序でランダムな振るまいも、見方を変えるとあるパターンに落ちつく、そういう点のことをアトラクタっていうらしいんだ」
「熱平衡みたいなもんか」
「そう、物事はどこかで一つの点に収束する。それぞれのバランスをあわせて」
「…………」
ナツはちょっと口を閉じて、瞳のところに鉛筆を入れた。描くということは、何かを描かないということでもある。描きたしているように見えても、実際には何かを削りとっていることが多い。
「――それで、その本の中に、人はどうして言葉を使うようになったのかが書かれてるんだ」
ハルはちょっと言いよどんでから、鳥が風の具合を確かめるみたいにして言った。
「ふむ、何て書いてあったんだ?」
「それが可能性にあふれた世界だったからだって」ハルは言った。「それがプラスであるにしろ、マイナスであるにしろ。言葉は様々なものを作った。それまでより、ずっと強度のある素材で。でもそれは、人間に必要なことだった。想像する、ということが」
「うちの父親らしいな」
ナツは空を漂う風船みたいな感じに笑った。
「言葉はいろんなものを作った。善いものも、悪いものも。でも人は、いつしか言葉に頼るようになったと思うんだ。少し、行きすぎなくらい。自分で作ったはずのロボットに追いまわされるみたいに」
「……ふむ」
「すべての言葉には、原理的に隙間が生まれる。何かを区別すれば、そうでないものとの隔たりが生じるから。そこに何か新しいものを運びこむこともできるけど、そのせいで本当のことが見えにくくなったりもする。言葉は結局、言葉以外のものを正しくは教えてくれないから」
「――そのせいで、この世界はよりいっそう不完全になっているんじゃないか、と?」
言われて、ハルは小さくうなずく。
ナツはスケッチブックをテーブルに置いた。砂時計が底をつくような自然さで。
「魔法のことについては、俺も気にはなってるよ。どうしてこんな力があるんだろう、ってな。もしかしたらそれで完全世界を取り戻せるのかもしれないし、そのほうが幸せなのかもしれない。世界にはどうも、悲劇が多すぎる」
とんとん、とナツは鉛筆の端で画帳を叩いた。思考の形を整えるみたいに。
「でも前にも言ったと思うけど、それはどうでもいいことだよ。魔法はこの世界に存在する、それは変わらない。その事実にどんな意味があるのかはわからない。ただ、俺たちがそれをどう捉えるか、問題はそこなんだろうな。そのことにだけはたぶん、意味がある」
「うん――」
それはナツらしいといえば、ナツらしい答えだった。この少年はそれがどんなものであれ、決して怖れようとはしない。何しろ、幽霊にだって形を与えてしまうのだから。
「どうやら、難しすぎて手を抜いていられないみたいね」
不意にからかうような、フユの声が聞こえた。彼女はようやく本から顔をあげて、二人のほうを眺めている。
「そうは言いますがね、お姫様」ナツは苦笑して言った。「俺はどっかの天才作曲家じゃないんで、人としゃべりながら楽譜を完成させるなんて真似はできないんだよ」
「あなたがそんなに謙虚だとは知らなかったわ」
フユはあくまで、手厳しかった。ナツは嘆息する。
「……まったく、お前はアキのやつよりずっと難物だよ。あの単純なお嬢さんなら、もうちょっと相手が楽なんだがな」
ナツは匙を投げるような格好で言った。とはいえ、フユにしてみればおそらく、アキを相手にするほうが厄介だと思っているだろう。一種の三すくみみたいなもので、それがハルにはおかしかった。
「――フユは、どう思う?」
と、ハルはことのついでに訊いてみた。
フユはけれど、そんなことには何の興味もない、というふうに軽く肩をすくめてみせるだけだった。
「魔法なんて、あってもなくても同じよ。そんなものがあったって、人は変わらない。人が変わらないなら、世界が変わることもない」
それは、彼女のテーゼだった。人は変わらない。変わるのは、関係だけだ。なら、そこに魔法があってもなくても、結局は同じことだった。魔法に意味はない。
けれど――
そうでないことも、彼女は知っていた。ごく少数の例外を。でもそれは、十分に無視していい数値だった。魔法なんて、その程度のものなのだ。
「まあ、人それぞれってことだろう」
ナツが軽く場をいなしたとき、向こうからアキがやって来るのが見えた。敷石が大きく磨り減りそうな、あまり軽々とはしていない足どりである。
「お疲れさま――どうだった、訓練のほうは?」
と、まずはハルが声をかけてやった。
アキは消沈した様子で、その隣のイスに座る。喜ぶにしろ悲しむにしろ、実に率直な少女だった。
「あんまり、うまくはいかなかったかな」
「今日も今日とて、か」ナツは笑った。
「でも今日はわりとうまくいきそうだったんだよ」アキは抗弁する。
「どのくらいにだ?」
「ちゃんと光がついた」
「明滅訓練のほうはどうだ?」
揺らぎを作ったり消したりして、すばやく光を点滅させる訓練のことだった。
「う、それは、まだだけど――」
まだどころか、揺らぎの強弱さえまともにはコントロールできていない。
「百年一日だな、やっぱり」
やれやれ、というふうにナツが頭を振ると、アキは不満そうな顔をしている。が、事実は事実なので言いかえすこともできなかった。
そんなアキに向かって、
「無理して急ぐことはないよ。アキはアキのペースでやればいいんだから」
と、ハルは言った。もちろん、それだけでアキの機嫌は直ってしまう。素直な少女なのだ。
「――そうだよね、人それぞれなんだから。それに、わたしは魔法使いになってから一番日が浅いわけだし」
自分で自分をなぐさめられる程度に、アキは回復している。それからこの少女はふと、テーブルの上に置いてあるスケッチブックに気づいた。そこに描かれた、フユの絵にも。
「これって、ナツが描いたんだよね?」
スケッチブックを手に取ってしげしげと眺めながら、アキは訊く。
「そりゃそうだ」
「何で、わたしの絵は描かないの?」
「……何故、お前の絵を描かなきゃならないんだ」
と、ナツは極めて合理的、かつ正当な反問を行った。
「だって、来理さんの絵だってあるのに」
そう言って、アキは居間の壁にかかった油絵を見る。
立派に額装された絵が、そこには飾られていた。十号程度のカンバスに、イスに腰かけた来理の上半身が描かれている。そこにはこの媼に特有の、傷跡のない月みたいな雰囲気が写しとられていた。
もちろん、描いたのはナツである。半年ほどかかって完成した作品だった。
「お前は頼まれても描く気になれないからな」
ナツは気の毒そうに宣言した。
「何で?」
「わざわざ俺に言わせる気か」
その時、道具の片づけをしていた来理が部屋へと戻ってきている。
「何だか賑やかそうね」
と、彼女は雲一つない空みたいな笑顔を浮かべた。誰もがその前で、わざわざ雨を降らせようとは思わない笑顔を。
「来理さんの絵のことについて、しゃべってたんです」
アキはできるだけいつも通りにしようとして、つい二七〇度ほど回転してしまった笑顔を作った。少々、調節に失敗している。
「ああ、あの絵のことね」
来理はいかにも嬉しそうな顔で、壁にかかった絵のほうを見た。
「こんなに素敵な絵を描いてくれて、私としては感激ね。絵の贈り物だなんて、はじめてだし。でも、こうして眺めていると、ふとドリアン・グレイの肖像画を思い出しちゃうわね」
「ドリアン・グレイ?」
「……オスカー・ワイルドの書いた小説よ」
と、フユは不意に、横から口をはさんだ。
「美貌の青年、ドリアン・グレイはある画家の願いで肖像画のモデルになる。その日から、彼自身は歳をとらず、代わりに絵の中の自分だけが醜く年老いていくの。彼はそのために悪徳の沼にはまっていく、そういう話――」
言ってから、案外それはナツの魔法で可能なのではないだろうか、とフユは思ってしまう。記号を現実化する、その魔法でなら。
いや、しかし――
「あら、フユの絵もあるのね」
不意にそんな声が聞こえて、フユの意識は戻された。見ると、来理はスケッチブックを持って、その中の絵をのぞきこんでいる。
「そうなんです。でもナツは、わたしの絵を描くのは嫌だって言うんですよ」
せっかくとばかりに、アキは自分の不満を注進した。
「アキだって、きっと素敵なモチーフになるわよ。どうして描いてあげないの?」
「……考えておきます」
さすがのナツも、この人にはいつもの軽口は返せなかった。
来理はなおもその絵を興味深そうに眺めていたが、「あら?」と小さな間違いにでも気づいたような声をあげている。
「このフユの絵、何だか雰囲気が柔らかいと思ったら、少し微笑んでいるのね。ほんの少しだから、気づかなかったけど」
「微笑んでる……?」
フユは黒猫が目の前をよぎった程度の、不吉そうな予感に襲われる。
「俺は約束したわけじゃないからな」とナツは空とぼけをした。「そのまま描くとも、絵をいじらないともな」
「む――」
フユは表情を変えずに、ほんの少しだけ眉をしかめる。
(変な魔法がかかってるわけじゃないと思うけど)
そう思うのだが、こうなってはフユとしてはそれを祈るしかない。
四人の子供たちの日曜日の集まりは、大抵はこんなふうに、穏やかで賑やかなものだった。
――来理の用意したお茶とお菓子を囲んでいると、玄関のベルが鳴った。来理は席から立ちあがって、そちらのほうに向かう。
しばらくすると、来理と訪問客の男が居間に姿を見せた。熊みたいな大男で、奇妙なデザインのトレンチコートを着ている。
「みんなはそのまま、お茶を続けてね」
と、来理は言った。男は子供たちに向かって軽く会釈をして、二人はそのまま居間を通りすぎていく。
二人が立ち去ったあとには、見慣れない空白に似た沈黙が残されていた。突然、知らない場所にでもやって来たみたいに。
「あの人、確か委員会の人間だよな」
と、ナツは念のためという感じで訊いた。
「うん――室寺さんて、人だよ」
ハルは答える。
「何しに来たんだ、あの人?」
「さあ――」
ハルはかすかに首を傾げてから、カップを手に取って口をつけた。
その紅茶は何だか、さっきまでとは少しだけ味が違っているような気がした。
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