3
舞台袖から、出番を間違えて夏が顔を出したような陽気だった。じっとしていると、汗ばんできそうである。この気温が続けば、桜の見頃は短くなるかもしれない。
ドレッドヘアに細面で角ばった顔だち。肌が色黒で長い手足をしているのは、ある種の鳥を思わせる格好だった。人目を引くはずのその風貌は、けれどどこか風景の中に溶けこんで、目立たないものになっている。
彼は室寺や千ヶ崎、殺された千條と同じで、委員会の執行者だった。元々、天橋市には千ヶ崎朝美が執行者として派遣されていたのだが、最近の動きを警戒して人員を増加されている。通常では、ありえないレベルの対応だった。
その矢先に、仲間である執行者の一人が殺されている。
千條静は、そう簡単にやられるような男ではなかった。冗談好きでふざけた性格だったが、頭は悪くない。それに〈精霊工房〉は、想像するよりもずっと厄介な魔法だった。それが、何もできずに殺されている。
だが、委員会の反応は魯鈍だった。人員の追加派遣も、具体的な行動指示もなく、ただ以前と同じ任務を継続するように、とだけ言ってきている。
(普通ならありえんことやけどな)
と、乾は思っていた。
今回の件に、鴻城という男が関わっていることはわかっている。そして、結社と呼ばれる組織とつながりのあるらしいことも。鴻城希槻の魔法にかけられた人間は、彼に逆らうことができなくなる。情報が極端に少ないのは、そのためだった。
それだけのことがわかったのさえ、つい半年ほど前のことである。ある協力者のおかげで得られた情報だったが、その協力者とはすでに連絡がつかなくなっていた。
全体として、後手にまわりすぎている状況だった。そもそも、六年前の爆発事故の件で何かが起きはじめているのはわかっていたのである。その時もやはり、執行者の一人が行方不明になっていた。経験も実力も十分だった男が、である。
とはいえ、委員会も完全に手をこまねいていたわけではない。結社の中には委員会側のスパイが存在した。元々は結社の人間として委員会への潜入調査を行っていたが、ある事件をきっかけに寝返った人物である。俗に言う、二重スパイというやつだった。
その人物自身には、鴻城の魔法はかけられていない。だからこその通敵行為だったが、同時に重要な情報は限られている、というのも事実だった。結局のところ、委員会はまだ結社の目的やその全貌をつかめずにいる。
現在必要とされるのは、何よりもまず情報の集積だった。敵情を正確に把握しなければならない。
市の中央に位置する城址からほど近いところに、武家屋敷地があった。入り組んだ小路に土塀が連なり、品のよい迷路といった風情を形作っている。塀のそばには融雪にも利用される水路があって、澄んだ水が流れていた。
乾はその付近に敵の拠点施設とでもいうべきものが存在するという情報を元に、探索を行っていた。ありていに言えばただ歩きまわっているのだが、〝感知魔法〟による揺らぎの調査を平行させている。
「…………」
あたりを見まわして、乾はふと塀の上に目をやった。上方からなら、何か違ったものが見えるかもしれない、と思ったのだ。
乾は小道の陰に入り、周囲に人影がないことを確認すると、魔法を使った。
――途端に、彼の姿は頭の部分から消えていく。まるで特殊な炎で燃焼させるみたいにして、その姿は完全に見えなくなっていた。
彼の魔法、〈
(よし――)
全身が透明化したことを確認すると、乾は適当な段差とでっぱりを利用して塀の上にのぼった。瓦を踏みながら、移動する。塀のすぐ下を観光客らしい数人が歩いていったが、乾の存在に気づいた様子はない。
無理もなかった。
乾は透明化するだけでなく、音の除去も行っていた。〝
塀の上から屋根へと移り、乾は周辺を見渡した。ちょうど、迷路を上から眺めるような具合である。どこかくすんだ感じのする、春の風が吹きぬけていった。乾はついで、〝感知魔法〟のペンダントを垂らしてみる。
どういうわけか、この近辺では魔法の揺らぎが錯綜していた。どうも、妨害用の魔法のようなものが使われているらしい。何らかの施設が存在することは確かなようだったが、これでは捜索はおぼつかなかった。
屋根の上をいくつか移動したのち、乾は地面へと飛びおりた。着地の物音は一切しない。近くに人がいたとしても、気づくことはできないだろう。
それから、乾は魔法を解こうとする。誰かに目撃されないようあたりを見まわすと、ちょうど一台の車がやって来るところだった。
透明化の不便、もしくは危険なところは、まさしく透明なところにあった。相手から見えないのだから、道の真ん中にでもいようものなら気づかずに轢き殺されてしまう恐れがある。おまけに〝消音魔法〟のおかげで周囲の物音が聞こえない。この魔術具は自分から出る音も、外部から入ってくる音も同様に消してしまうのだ。
(面倒なところやな――)
乾は細い小道で車と接触しないよう、脇によって注意した。実際にはエンジン音を響かせているのだろうが、車は無声映画でも見るように無音で近づいてくる。乾は何気なく、そばを通りすぎる自動車の車内をのぞきこんだ。
――そこに、鴻城希槻が乗っている。
春の陽気を楽しもうとでもいうのか、後部席の窓は開いていた。そこに、写真で見たのと同じ鴻城の姿がある。その不吉さ加減は見間違いそうもない。春の光を逆に浸潤しかねないほどの稠密な暗闇が、そこには存在していた。
むろん、鴻城が乾に気づくことはない。〈空想王国〉は魔法的にも透明化されるものだった。そうでなくとも、このあたりは魔法の揺らぎが混線状態にある。
車はゆっくりと乾の前を通りすぎていった。すれ違ったのはほんの一瞬で、もちろんどこへ向かうのかなどわかるはずもない。
乾は周囲の状況を確認することも忘れ、急いで走りだしていた。
透明化すること自体危険だが、おまけに自転車に乗るとなればなおさらだった。
乾重史はクロスバイクに乗って、車の追跡を行っている。魔法による透明化が可能で、かつできるかぎり危険を抑えた乗り物としては、それが最適だった。乾は普段から、これを移動手段として利用している。
(とはいえ、さすがに厳しいな――)
と、乾はいささか皮肉っぽい笑みを浮かべる。
追跡はすでに、数十分続いていた。鴻城の車は尾行を警戒しているらしく、不規則な動きを繰り返したり、同じ道を何度かまわったりしていた。乾は相当の注意を払いながら、周囲との不用意な接触は行わないように神経を使っている。
結局、車は元の地点からそう離れてはいない、市内にある山間部に向かった。旧時代には城址と対になって存在した小山で、現在では高級住宅街になっている。
情報にはなかったが、ここにも鴻城の拠点があるのかもしれなかった。あるいは、誰かに用事でもあるのかもしれない。
乾はつらつらとそんなことを考えながら、ペダルをこいでいた。周辺の障害物はほとんどなくなっていたが、坂道で車を追うのは骨だった。たらたらと汗が頬を伝う。透明なので、自分でもそれは見えなかったが。
やがて、車との距離が少し空く。追って道の角を曲がった乾は、けれどはたと足をとめた。
――車が見あたらない。
住宅地の、やや広い通りだった。道はまっすぐ続いているだけで、すぐに隠れられる場所などない。両側には塀や前庭があって、車を入れるようなスペースもなかった。
(見失ったか……?)
乾はすばやくあたりの様子をうかがった。が、どこにも変わった様子は見られない。これでは、車が突然消えさったとしか思えなかった。
透明化と〝消音魔法〟を解くと、乾はペンダントを取りだして周辺の魔法の揺らぎに集中した。かすかに、手ごたえがある。けれどその揺らぎはひどく複雑で、位置や強弱さえつかむのが難しかった。ちょうど、入り組んだ坑道で音が反響するみたいに。おそらく、ここにも魔法の感知を妨害する何らかの仕掛けが施されているのだろう。
鴻城の車を突然見失ったのは、魔法によるものと考えてよさそうだった。
乾は携帯端末を取りだすと、電話をかけた。相手はそれを待っていたような早さで呼びかけに応じる。
「――室寺か?」乾は訊いた。
もちろん相手は、同じ執行者の一人である室寺
〝そうだ、何かあったな?〟
室寺は簡潔に訊いた。さすがに、これがただの電話でないことを理解しているらしい。
「ああ、鴻城希槻を見かけたわ」
乾がその名前を口にすると、電話の向こうで沈黙が聞こえた。
〝……本当か?〟
「車に乗っとるのを偶然見かけた。一瞬やったけど、間違いないな。写真通りの恐ろしく不吉な顔やったから、すぐにわかったわ」
〝それで、どうした?〟
「追ったわ、そりゃな。途中で三度ほどは死にそうになった」
〝死なれちゃ困る〟
「そう思って、立派に生きとるわ」
乾が鼻を鳴らすと、そいつはよかった、と室寺は小さく笑った。
「だが結局、見失った。どうやら魔法で隠蔽されとるらしい。急にいなくなったのはそうとしか考えられんな。〝感知魔法〟でもようわからん。ジャミングみたいなものがかけられとる感じで、手が出んな」
〝そうか――〟
室寺が口を閉ざすと、乾はすかさず言った。
「やけど、妙なことがある」
〝何だ?〟
「距離や。俺が最初にやつを発見したのは、所在候補地の一つやった。そこからここまでは、位置的にそれほど離れとらんな。何故、そんな近くに二つも拠点を作る必要がある?」
〝何かある、と?〟
「わからんが、可能性はあるな。ここはやつにとって、何か重要な場所なのかもしれん。あとで詳しい場所のGPSデータも送っとく」
〝了解した。今後の調査はそのあたりを中心に行うことにしよう――よくやったな〟
「お前に誉められても嬉しくはねえな」
乾はからかうような感じで、少し笑う。
それだけのやりとりを終えると、乾は電話を切った。
(さて――)
乾は再び〈空想王国〉による透明化を行った。いくらか下調べを進めておく必要がある。場合によってはここが敵の「本陣」ということもありえた。
そうしてあたりを調べようとしたとき、突然携帯が鳴っている。もちろん音は聞こえないので、バイブレーションだった。乾は画面部分だけ透明化を解除し、誰からの電話なのかを確認する。
途端に、その表情はコップの水に墨汁をたらすみたいにして曇った。
乾は通話ボタンを押す。〝消音魔法〟も解除していた。
「――もしもし?」
〝あ、先輩ですか。今、どこにいます?〟
「誰や、お前」
いかにも友好そうな相手の調子を無視して、乾は言った。
〝ひどいな、先輩〟相手は笑った。確かに、その男にそっくりな声で。〝僕のこと、忘れたんですか? 僕ですよ、千條静です〟
そう――
着信画面に示されたのは、確かに千條静の名前だった。だがもちろん、その男はすでに死んでいるのだ。遺体は司法解剖にまわされていた。
電話については、盗まれた携帯からだろう。だが、この声は――?
「お前が、千條を殺した魔法使いか?」
〝さあ、どうでしょう?〟
とぼけた口調だった。が、それは死んだ本人にそっくりなもので、つい苦笑せざるをえない。乾は言ってやった。
「忘れとるみたいやけど、お前は死んどるんやぞ」
〝いえいえ、人の魂は不滅ですから、いくらでもリサイクル可能です。僕は魔法で生き返らせてもらったんですよ。完全世界さえ実現すれば、簡単なことです。先輩も、もう死にそうになる心配なんてしなくていいんですよ〟
乾はちょっと黙った。相手の今の言葉には、さっきまでの室寺との会話を聞いていた、という含みがある。
「……お前、本当に何者なんや?」
〝嫌だな、だから言ってるじゃないですか――〟
「まあいいわ、この際お前が誰だろうと構わん」乾は相手の言葉を遮って続けた。「いったい、俺に何の用がある。目的は何や?」
電話の向こうで、かすかな間があった。客に注文をつける怪しげなレストランで、舌なめずりの音が聞こえてくるみたいに。やがて、相手は言った。
〝僕に会いたくありませんか、先輩?〟
「――何やと?」
〝もしも今すぐこっちに来てくれるなら、お会いしてもいいですよ。僕としては、先輩に会いたいですからね。こんなチャンス、なかなかないと思いますよ。あ、もちろん来るならお一人でお願いします。室寺さんなんかが来たんじゃ、めちゃくちゃにされかねないですからね。力加減てものを知らないんだから、あの人は〟
乾は再び、黙らざるをえない。
どう考えても、これは罠だった。相手の意図が不明確すぎる。ただ会って話をするだけ、などということになるはずはなかった。
けれど――
「まあいい、その話受けてやるわ」
と、乾は言った。
〝さすが先輩、肝が据わってますね〟
相手は誉めたが、乾としては、そんな言葉は室寺のそれと同じくらいに嬉しくはない。
〝では、待ちあわせの場所を送ります。念ために言っておきますが、くれぐれもお一人で。なるべく早めにお願いします。あまりぐずぐずしているようなら、約束はご破算になりますから――〟
そう言って電話は切れ、続いてすぐに指定場所を示した地図が送られてきた。
乾はそれを確認して、自転車に乗る。
どうせ罠には違いないが、敵の正体を確かめる絶好の機会でもあった。今のやりとりからわかったこともある。多少の危険を冒してでも、ここはコールすべきだった。
それにたった一つ、乾重史には絶対に自信のあることがあった。それだけなら、世界中の誰にも負けないと豪語しうるものが。
――それは、逃げ足の速さだった。
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