7
河川敷には、ほとんど満開の桜が咲き誇っていた。その桜色は、風景そのものに色をにじませるような色調をしている。風が吹くと、まるであたりを彩色するみたいにして花片が散っていった。すべてのものを淡く、白く、世界の成り立ちそのものを柔らかく揺らしながら。
「…………」
牧葉清織はそんな土手ぞいの道を、ゆっくりと歩いていた。
春の世界とは対照的に、この男の周囲だけがどこか暗かった。まるで夜の一部が、そこにだけ残っているかのように。
華奢というよりは、普通の人間なら必要とするものを身につけなかった、という体つき。月の光で描いたかのような、怜悧な面立ち。どこといった変わったところがないにもかかわらず、その存在は零と一のあいだほども世界と隔たっている。その顔には笑顔を作っただけでも壊れてしまいそうな、そんな表情が浮かんでいた。
土が剥きだしになった道を、清織は歩いていく。両側の桜の木から影が落ちて、空気は少しひんやりとしていた。春の陽気は、その向こう側にある。
しばらくすると、そこにはベンチが置かれていた。誰かが忘れていったような、くすんだ色をしたプラスチック製のベンチである。
そこに、少女が一人座っていた。
「――遅いよ、お兄ちゃん」
彼女――牧葉澄花は、口調だけは怒ったようにして、けれどその表情は間違って崩してしまったドミノみたいに、どうしようもなく笑っていた。
「秋原さんに近くまで送ってもらったんだ。でも確かに、ちょっと遅れたね」
清織は時計を確認しながら言った。
「いつから〝一時間〟のことを〝ちょっと〟って言うようになったのかしら?」
そう言われて、清織は苦笑するしかない。
「だから、たぶん時間通りには来れないって言ったのに」
「でも遅刻は遅刻だからね」
澄花は容赦しなかった。
「ごめん、謝るよ」
素直にそう言って、清織は澄花と同じベンチに座った。そこからは、一段下がった河川敷と、天橋市の中心を流れる
「あんまり遅いから、お団子全部食べちゃおうかと思ってたところだよ」
澄花は言って、持っていたプラスチック容器を清織のほうに差しだした。
容器の中にはちょうど半分だけ、和菓子が残っている。澄花らしいと思って、清織にはおかしかった。例え飛行機が砂漠に墜落して死にそうになったときでも、彼女はやはり、持っている水をみんなで分けるのだろう。
「どう、美味しい?」
清織が串団子を食べるのを見て、澄花は訊く。
「……まずくはないよ」
けれど返ってきた感想は、ひどくそっけなかった。大体においてこの青年は味音痴で、食べものの味にはまるでこだわらなかった。一種の健啖家だったが、料理人としてはもっとも腕の振るいがいのない相手でもある。
それでも澄花は、飽きもせずにいつも感想を求めた。
「――総志じいちゃんがいたら、喜んだだろうな」
清織は河川敷を眺めながら、ぽつりとつぶやくように言った。
「うん、そうだね。おじいちゃん、こういうのが好きだったもんね」
澄花もどこか遠い目をして、それに答える。
二人のあいだを、古くて懐かしい時間が流れていた。河川敷では兄妹なのか、二人の子供が走って遊んでいる。そんなすべてを、春が桜色に包んでいた。
「……そういえば、宮藤くんに会ったよ」
と、澄花は不意に言った。
「ああ、どうだった?」
清織は桜餅を葉っぱごと頬ばりながら訊いた。その様子は、裁断機が紙を細かくしているのにどこか似ている。澄花はちょっと笑いながら言った。
「いい子だったよ。強くて、素直で――私たちとは違ってる」
「そうか――」
河川敷では二人の子供が、舞い散る桜の花びらに手をのばしていた。まるで、幸福の欠片でも摑もうとするみたいに。一人の指先が、その小さな花片を手にする。けれどそれはやっぱり、ただの何の変哲もない白い花びらであるにすぎない――
それから少しだけ、時間が流れた。世界がより桜色に染まるだけの時間が。
「――もうそろそろ、終わりかもしれない」
清織はそっと、もう壊れてしまった玩具でも手渡すように言った。
それに対して澄花は何の迷いもなく、北極星が今もそこにあるのと同じくらいの確かさで答えている。
「清織といっしょなら、私は何も怖くなんてないんだよ――」
はじまったばかりの季節の中で、桜は確かに散っていく。
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