渋河弘章しぶかわひろあきは、政治家だった。

 やや太鼓腹で頬のたるんだ、あまり健康的とはいえない風貌をしている。歳は六十近く。髪はすでに薄くなりはじめていた。地方議員を十五年ほど務めたのち、国会議員として当選。現在、三期を順調に重ね、近々行われるはずの解散総選挙においても、当選確実と言われていた。いわゆる、中堅議員というやつである。

 多くの議員と同じで、渋河弘章は政治的理想など持ちあわせていなかった。国家機構は理想論では動かない、ということを知っていたからである。政治に必要なのはあくまで、実利と安定だった。

 あくまで現実的なその彼は現在、来期に向けて忙しいはずの地方遊説を放りだして、ある屋敷を訪ねようとしている。

 その人物の屋敷を訪れるときは、必ず相手の用意した車に乗せられることになっていた。車を運転するのは、秋原尚典あきはらひさのりといういかにも執事然とした初老の男である。ボンネットには、特徴的なマスコットが飾られていた。その車はあまりに静かで振動の少ないため、まわりの景色のほうだけが移動して、自分は少しも移動していないような錯覚に陥るくらいだった。

 渋河はその人物の屋敷を何度か訪れたことはあったが、そのたびごとに案内される道順が違っているようだった。どうやら、そうした場所をいくつも持っているらしい。屋敷はどれも似たような造りで、人里からは離れていた。ローマ皇帝の別荘地でも思わせるような閑雅さである。あるいは、渋河の知らない屋敷がまだほかにもあるのかもしれなかったが、それをわざわざ知りたいとも思わなかった。

 渋河を乗せてきた車は、やがて森に囲まれた屋敷の玄関でとまった。運転席の秋原が、わざわざ席から降りてドアを開けてくれる。渋河が車から降りると、その老人は車に戻ってそのままどこかへ行ってしまった。

 一人残された渋河が屋敷の玄関に向かうと、そこにはある青年が待っていた。

 大学生、というところだろう。この場にはちょっと不釣りあいな若さだった。そのくせ、かけ違えたボタンみたいな、浮ついた感じのするところはない。雰囲気や格好からして、使用人という感じではなく、古い言葉での書生というところだった。

「お待ちしてました。ここからは僕が案内します」

 と青年は慇懃な態度で言う。けれどそこには、どこか相手の存在を軽視するところがあった。星々の距離や地質年代に比べれば、人間などたいしたものではない、というふうに。

 渋河は青年に案内されて、屋敷の中を歩いていった。館内は恐ろしく静かで、まるでその静寂を作るためにこの屋敷があるかのようだった。たいそうなものだ、と渋河はこうした屋敷を訪問するたびに同じ感想を抱いた。

 ほどなく、渋河は一室に通されている。青年はノックをしてから、返事も待たずに扉を開けた。そういうふうに指示されていたのだろうが、いかにも平然としすぎている。まるで禅の境地だな、と渋河は内心で青年のことを皮肉っぽく笑った。

 彼のような人間に言わせれば、この場所はあまりに現実離れしすぎていた。芸術家気どりの連中がいくら真善美を主張したところで、世界の実勢はあくまで現実によって支配されているのだ。歴史がそれを証明している。世界は恐ろしく頑丈なのだ、と。

(……ふん、まあいい)

 青年に続いて、渋河も室内に足を入れた。

 執務室、とでもいうところだろう。飾り気のない部屋には、重厚な机だけが威圧的ともいえる質量で構えていた。調度品の類はほとんどなく、窓からの光だけが唯一の装飾とでもいうようである。明かりはつけられていなかったが、そのせいだけとは思えない、奇妙な種類の暗闇がその部屋にはあった。

「連れてきました、鴻城さん」

 と、青年は告げた。まるで罪人を連行してきたような口ぶりである。書生にしても、こんなひどい口上はしないだろう。

「――ああ、ご苦労だったな」

 机の向こうに座った人物は、それを咎めもせずに軽く手を振る。青年はうなずくと、部屋の隅へと下がっていった。

 渋河は一瞬だけ、自分の気持ちを整理しなおした。そうしないと、この人物の前では何をされるかわかったものではなかったからである。まるで、悪魔とでも取り引きを交わすみたいに。

 その男は悠然とした態度で、渋河のほうに目をやった。路傍の石を見るほどの好意さえ、そこからはうかがえない。その顔には冷笑という言葉さえ生ぬるいほどの、氷点以下の温度しか持たない笑みが浮かんでいる。

 ――鴻城希槻。

 それが、男の名前だった。

 外見的には渋河と比べてまだ若い、四十にもなっていない年齢に見える。オールバック風の髪型に、ほとんど隙のない服装をしていた。その右手の人さし指には、特異な意匠の指輪がはめられている。心身ともに鋼か何かで鍛造されたような雰囲気で、恐れや反抗心を抱くまえに、それを諦めてしまいそうだった。もしも途方もない時間をかけて暗闇の一番深いところが結晶化すれば、こんな男ができあがるのかもしれない。

「久しぶりだな、渋河さん」

 イスに座ったまま、鴻城は言った。渋河はもちろん立ったままである。位置的には見おろしているはずだったが、渋河には少しもそんな気はしなかった。

「ええ、半年ぶりほどになりますかね」

 渋河はかみ終わったガムみたいに強ばりそうになる顔を、無理に微笑ませて言った。

 およそ十年ほど前――それが渋河と鴻城が初めて対面したときである。その際、渋河は選挙戦に関するいくつかの援助を受けとっていた。主に、資金と人脈についてである。当選するのは当たり前の話だった。ダーツの矢を的まで歩いていって刺したようなものだ。

 とはいえ、その援助がどこから湧いてでたのかは、渋河は知らない。打ちでの小槌か、例の触ったものが黄金になる王様の手でも持っているのかもしれない。渋河にとって、それは今もって謎でしかなかった。

 そして何より、鴻城希槻というこの男は、その頃から少しも歳をとっていないように見える。まるで時間が停止して、十年という歳月など存在しなかったかのように。

(俺はやはり、悪魔とでも取り引きしようとしてるんじゃなかろうか)

 と、渋河は思う。だがそんな内心の疑懼を、彼は飲みくだした。ここが現実であることは間違いない。そして現実は決して崩れさることはない。

 この世界に、魔法でも存在しないかぎりは――

「今日お伺いしたのは、折りいってお頼みしたいことがありまして」

 渋河は平身低頭の態度で言った。

「だろうな」

 それに対して、鴻城はあくまで悠然としている。

「でなけりゃ、多忙な国会議員がわざわざこんな僻地にまで足を運んでくるわけがない」

 鴻城の言葉に、渋河は眉一つ動かさない。この程度のことを気にする必要はなかった。

「……ところで、ここから先は内密の話をお願いしたいのですが」

 そう言って、渋河は部屋の隅にいる青年のほうに目をやった。が、鴻城はにべもない。

「いや、そいつのことをあんたが気にする必要はない。というより、あんたのとやらにはおそらく、そいつが必要になるだろうからな」

 渋河はやや不審そうな顔をしたが、もちろん文句を言える立場ではない。不承不承、そのことを受けいれた。

 それから渋河は、一枚の封筒を取りだす。ごく一般的な、事務用のものである。彼はそこから、一枚の便箋を抜きだして机の上に進めた。

 鴻城は面白くもなさそうな顔で、その便箋を手にする。

の遺書だろう」

 と、それが何なのか、この男はすでに予見していたらしい。

「おわかりなら、話は早い」渋河は言って、一挙にまくしたてた。「そいつは確かに、です。本来なら持ちだせる物ではないんですが、まあ特例というやつです。ところが、その遺書の内容というのが話にならないんですな。生前持っていた財産はすべて破棄、もしくは慈善団体へ寄附しろ、というんです。家族やお袋にも何も残さずに、です。どうやらあの男は、天国か地獄へでも財産を持っていけると勘違いしたらしいですな。ふざけた話だが、遺書は法的に正式なもので、私には手の出しようがないんですよ」

 鴻城はやはり興味のなさそうな顔で、指に挟んだ紙をひらひらさせている。

「それで、俺にどうにかして欲しい、と」

「聞いていますよ」

 と渋河は急にずるそうな顔つきをした。「あなたには、そういう力があると。それが何のことなのかは、私には見当もつきませんがね」

「…………」

 鴻城は少し、黙っていた。秤に載せれば重さが量れそうな沈黙である。

「――あんたは、祖父江周作そぶえしゅうさくという男を知っているな」

「祖父江?」

 知っているも何も、大学の同期で渋河にとっては一種の子分だった男である。何かと世話をしてやったことがあり、国家試験に合格して官僚になった今でもつきあいがあった。

「ああ、そうだ、その祖父江だ。あんたからそいつに、あまりはするな、と伝えてくれ」

「派手な動き?」

 反問は、しかし鴻城によって拒否されている。

「あんたがそのことを知る必要はない。あんたはただ、伝えてくれればいいんだ。俺のことを口にする必要もない――それが、あんたの頼みとの交換条件だ」

「……たった、それだけのことが?」

 渋河は戸惑った。しかし、

「不満か?」

 と訊かれて、壊れた人形みたいに大慌てで首を振る。そんな条件でいいのなら、渋河としてはこちらからお願いしたいくらいのものだった。

「もちろん、構いませんよ。これでも私は、あの男とは懇意ですからな」

 まるで恩を着せるような口ぶりで、渋河は言った。

 それはけっこう――と、鴻城はかすかな笑みを浮かべる。相変わらず温度というものを持たない、そんな笑顔を。


「――あれで、魔法委員会への牽制になるんですか?」

 秋原に案内されて渋河が部屋から去ったあと、青年は訊いた。

「なるのさ」

 鴻城は見慣れた文字の並んだ便箋を眺めながら言った。人生の最後に残すものとしては、頼りないほどの薄さである。

「俺は委員会という組織をよく知っているんだよ。何しろ、

 青年はその言葉に、返事をするのは控えておいた。魔法委員会が正式に発足したのがいつにせよ、相当の昔であることは間違いない。いったいそれに、どう鴻城が関わったというのか。

「それはともかくとして、だ」

 と、鴻城はその紙を青年のほうに差しむけた。

「こいつはお前の仕事だ、清織。お前の〈神聖筆記ヘヴン・デバイス〉のな――」

 〈神聖筆記〉

 それは、〝記された文字を自由に編集する〟魔法だった。それが文字でさえあれば、肉筆、印字、刻字、いずれの種類も問わず、材質にも左右されない。古代の石版であろうと、電子書籍であろうと、完璧な改竄が可能だった。

「あの人とは、どういう知りあいなんです?」

 清織は文章にざっと目を通すと、書き換えるべき文章のあたりで魔法の揺らぎを作った。ワープロでの編集作業でも行うように、何の痕跡もなく既存の文字列が変更されていく。

「やつとはじいさんの頃からのつきあいだ」

 と、鴻城はこともなげにそんなセリフを口にした。

「三代そろってろくでなしだが、まあ俺にとってはどうでもいいことだ。実に現実的な連中だよ。反吐が出るくらいにな」

「父親のことを、憎んでいたようですね」

「ああ、無理もないな。憎まれて当然だろう。息子に輪をかけた、エゴの塊みたいな男だったからな。一種の精神異常というところだ。だが遺書に関しては、やつは読み違いをしている」

「読み違い、ですか?」

「あれはやつが突然、慈悲の心に目覚めたなんてものじゃない。おそらく、嫌になったんだろうよ。実業家として散々稼いできたが、虚しくなったのさ。気づくのが少々遅かったがな。やつにすれば、もう天国にも地獄にも持っていきたくなかったんだろう」

「何をです?」

「俺と関わったことを、だよ」

 鴻城は即答した。

「…………」

 清織は無言のまま、便箋を差しだす。鴻城は黙読でそれをチェックした。文言は、「遺産は法の定めたるところに従って分配されるべし」という毒にも薬にもならないものに変わっている。もちろん、改変の痕跡はどこにもない。いくら調べたところで、そんなものが見つかることはないだろう。

 それから文章の末尾に、こんな一言が加えられていた。「本当の財産は、我が胸のうちに眠る――」

「何だ、この最後の一文は」

 と、鴻城は吹きだして言った。

「少し花を添えておこうかと思ったんです」

 清織はごくまじめな顔で、笑いもしない。

 ふん、と鴻城は鼻を鳴らし、「――まあいいだろう」と便箋を机の上に放りだした。あの男がそんなことをいちいち気にするとは思えなかった。それどころか、最初からそう書いてあったのだと思うかもしれない。

「ところで、お前が結社に来てどれくらいになる?」

 不意に、鴻城は話題を変えた。

「……七年ほど、ですね。懐かしいというような時間でもありませんが」

 新月みたいな表情のない憎まれ口を、けれど鴻城はあっさりと無視した。

「何故、俺がお前を重用するかわかるか――?」

「便利だから、でしょう」

 清織はしれっと、自らそんなことを口にする。

「そうだな、暇なときにはつまらん憎まれ口も聞ける」鴻城はにやっと笑った。「だが本当の理由は、わかってはいないだろう」

「何ですか、それは?」

「……聞きたいか?」

 猫が鼠をいたぶるような鴻城の表情に、清織は軽く肩をすくめた。時計を見てどこかへ急ぐ兎を追いかけるような趣味を、清織は持っていない。

「どうせ教えてはくれないんでしょう?」

 鴻城はその通りだというふうに、ふっと笑った。

「だがそうだな、これは言っておいてやろう。。心の芯から凍りついているところがな。それはいくら季節が巡っても、決して融けることのない氷だ。永遠と絶対の名においてな。そしてもう一つ、

「ずいぶんな言われようですね」

 と清織はとぼけた。が、鴻城は言う。

「奈義真太郎のこと、俺が気づかないとでも思ったのか?」

「…………」

「まあいい」鴻城は何故か、それ以上詰問はしなかった。「お前は俺のいい退屈しのぎになる。お前はほかの連中とは違った形で〝完全世界〟を求めているようだからな」

 清織はやはり、返事をしなかった。井戸に放りこんだはずの石が、いつまでたっても何の音も立てないように。

 紙を手に取って立ちあがり、鴻城は部屋を出ていこうとした。けれどその途中、ふと気づいたみたいにして口を開く。

「委員会の執行者として、室寺のやつが来ているらしい。俺が言うのもなんだが、あの男の〈英雄礼讃モンスター・スペック〉は少々厄介だ。委員会本部のほうには釘を刺しておいたが、場合によっては全面戦争になりかねん。その辺のことは、お前も覚悟しておくんだな――」

 それだけのことを告げると、鴻城は今度こそ部屋から出ていった。

 小さな音を立ててドアが閉まると、あとには清織と、いくらか密度の薄くなった暗闇だけが残されている。

 清織はふと、窓の外に目を凝らした。春の陽射しは、こんな場所でも祝福するように輝いている。

「――覚悟なら、もうできている」

 清織は誰に向かってでもなく、つぶやいた。

 そう――

 そんなものは、とっくの昔にできあがっているのだ。あの日の夜から、すでに。

 永遠と絶対の名において。

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