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予定時間がやって来ると、席のほとんどは埋まっていた。どうやら、そのためにわざわざ来館した人もいるらしい。部屋の密度が急に変わって、元々そこにあったはずのものがいくつか、外に押しだされたようでもある。
座席の中心にある机の上には、一つの箱が置かれていた。ちょうど両手に抱えられるくらいの大きさで、表面には精緻な象嵌細工が施されている。そこには抽象的な二本の樹と、鮮やかな草花が図案化されていた。
久良野桐子は全員の着席を確認するために、あたりを見まわす。一瞬遠くのほうに視線をとめてから、けれどまた元の場所に向きなおった。それから書類の端を揃えるような咳払いを一つすると、口を開く。
「――このたびは、当歴史博物館の特別企画展にご来場いただき、まことにありがとうございます。歴史の主筋からは外れるとはいえ、巨大な転換期にあたって地元地域でいかなる動きがあったかを知ることは、新たな知見ともなりうるかと思われます。この部屋では幕末における東西交流と銘打って、ある人物へと焦点が当てられています。その一人は藩の下級武士であった
例えば、柏崎とヘルンはしばしば手紙や贈り物のやりとりをしています。手紙には現在から見るとやや不分明な箇所もありますが、非常に友誼に富んだ、濃やかなものといっていいでしょう。その交流は維新後にも継続され、結果としてこの地で客死することになったヘルンの墓が、柏崎によって建てられたりもしています」
桐子はそこまで言うと、いったん手元の箱に視線を動かし、それからまた話を続けた。
「ここにある箱は、当時の主流であったシリンダータイプのオルゴールです。これは柏崎の結婚を機に、ヘルンからその妻である
……では、口上はこの辺で終了として、あとはオルゴールの実演に移りたいと思います。言うまでもありませんが、史料保存という観点からすれば、このような機会はめったに訪れるものではありません。みなさん、どうか耳を澄ませて、百数十年前という時代の音をお聞きください」
桐子は箱の蓋を開くと、ラチェットレバーを何度か回して、さらにいくつかの操作を行った。それから最後にスイッチを入れると、自身は少し下がって用意してあったイスに腰を下ろす。
――一瞬、どこか遠くで生命の回路がつながるような、そんな気配があった。
それからオルゴールは、静かに音を鳴らしはじめる。ゼンマイが定められたピッチでシリンダーを回し、打ちつけられたピンがコームと呼ばれる櫛歯を弾いていった。音楽がそのままの形で保存された箱の中からは、誰かが望んだとおりの変わらないメロディーが流れていく。
オルゴールの曲はやや異国的な、聞き覚えのないものだった。そこにはかすかな、石と土と風の気配があった。星の光をそっと並べたような、オルゴール特有の響きが世界を満たしてく。
眠りを集めるような――
夢をろ過するような――
そんな、響きが。
結局、演奏は十五分ほどで終了した。最後の音が響き終わったとき、世界は少しだけきれいになっていたようでもある。
オルゴールがその短い目覚めを終えると、小さな夜空の下で眠るようだった人々は、席から立ちあがってそれぞれ散っていった。さきほどまでそこにあったはずの時間は、すでに跡形もなく消えてしまっている。
「わたしはちょっと、桐子さんと話があるから」
ということで、アキは演奏後もその場に残ることになった。もちろん、新聞部での仕事のためだろう。
アキの用事が終わるまではすることもないので、ハルはさっきの展示室に戻ることにした。歴史の勉強をするにはいい機会なのは間違いない。
廊下に出て、階段のほうに向かう。緋毛氈の敷かれた階段を降りていると、ハルは不意に声をかけられていた。
「――宮藤くん、だよね?」
ハルが振り向くと、そこには知らない少女が立っていた。
きれいな、たぶんそうとしか形容のしようがない少女だった。けれどそれは、しばらく眺めてみてようやくそうだとわかるような、ごく静かで控えめな種類のものである。何かを主張するのではなく、そっと手渡すような。年齢はおそらく高校生くらいで、長い髪は邪魔にならないようにまとめられていた。柔らかな若草みたいな表情をして、光でもすくいとれそうな、そんな感じの手をしている。ハードカバーくらいの大きさをした本を脇に抱えていた。
彼女はちょうど、踊り場にある窓の下に立っている。そこには、春の光がかすかな音を立てて注いでいた。
「そうですけど……あなたは、どなたですか?」
ハルは首を傾げるようにして訊いた。とりあえず、相手の様子に怪しげなところはない。
「ごめんなさい、やっぱり、こっちから名のるべきだったよね」
と、彼女は他意のない笑顔を浮かべて言った。ふわふわとした、たんぽぽの綿毛でも飛ばすような笑顔である。
「私は、牧葉澄花といいます。水奈瀬さんの先輩にあたる、衣織学園の高等部二年よ」
そう言われてよく見ると、彼女はアキとよく似た感じの制服を着ていた。
「えっと、牧葉さん――」
「澄花さん、でいいわよ」
ハルが口を開こうとすると、彼女はちょっと隙のないにこやかさで言った。どこかの赤い頭巾をかぶった少女なら、簡単におばあさんだと信じてしまいそうでもある。
「――それで、ぼくに何か用ですか、澄花さん?」
とハルは、少し戸惑いつつも訊いた。もしかしたら、手か口でも見せてもらったほうがいいのかもしれない。
「実は、ちょっと君と話をしてみたくて」
澄花は何の屈託もなさそうな顔で言っている。
「でも、ぼくは――」
ハルがなおもためらっていると、澄花は穏やかにそれを制した。
「でも私は、君のことを知っているんだよ。多少はね。例えば、宮藤晴くんが魔法使いだということも――」
「…………」
言われて、ハルは口を噤んだ。もしかしたら彼女は狼ではなくて、毒リンゴでも売りにきた魔女なのかもしれない。
「心配しなくても、私が君に危害を加えることはないよ」
澄花はそう、まるで変わりのない口調で言った。
「――というより、そんな力を私は持っていない、といったほうが近いかな」
澄花はごく自然な様子で、持っていた本を開いた。古い装丁本のような、少し重みのある本だった。持ち歩くのには、あまり便利とはいえない。凝った装飾が施されていたが、題名らしきものは見られなかった。もしかしたら、それは本ではないのかもしれない。
「私の魔法〈
澄花はそう言って、本のページをハルのほうに示した。
何も書かれていなかった真っ白なページには、浮かびあがるようにして文字が刻まれていく。そこからはかすかな魔法の揺らぎが感じられた。鉛筆のたてる小さな音を聞くような、かすかな揺らぎが。
「ちなみにこの本自体も魔術具よ。無限にページが続く〝
にこっとして、澄花は本を戻した。そして陽射しがほんの少し翳るような調子で、彼女は言った。
「私にできるのは、そんなことだけ。こんな力しか、私にはない。それでも、少しでも彼の役に立てれば……」
館内は、誰もいなくなったように静かだった。耳を澄ませば、光の粒が窓ガラスを叩く音さえ聞こえてきそうである。
「あなたは、いったい――?」
ハルは彼女のまっすぐな目を見返しながら、けれど何を訊いていいのかわからなかった。彼女が何か、大切なことを伝えようとしていることはわかる。
でもそれは――
文字の薄れて消えてしまった本を読むみたいに、判然としないものだった。
「――あなたにとっての〝完全世界〟は何?」
不意に、澄花は言った。手の平にすくったものを、そっと零すみたいに。
「ぼくは……」ハルは小さく首を振って、それに答えている。「ぼくにとってそれは、もう失われてしまったものです。そしてそれが失われたことの意味を、ぼくは知っています。それは、ぼくが受けとったものでもあるんです」
その答えを聞いて、澄花はにっこりと笑って言った。
「君は強い子だね、宮藤くん」
そして、そのままの笑顔で続ける。
「私にとっての完全世界は、とてもシンプルなもの。そして、とても大切なもの。それがあるかぎり、私は幸せでしかいられない――もしも君にそれがわかれば、あの人に勝てるかもしれない」
どこかで物音がして、人のやって来る気配があった。急に時間が動きだしたみたいに、光の音も消えてしまう。
「オルゴール、素敵だったね」
澄花はまるで、さっきまでの会話などなかったかのように言った。
「水奈瀬さんには、君のほうからよろしく言っておいてくれるかな。私は後ろのちょっと離れたところにいたから、彼女は気づいてないと思うけど」
そう言って階段を降りると、彼女はハルの脇を通っていってしまった。柔らかな春の風が静かに消えていくみたいな、そんな気配だけを残して。
――もちろん、この時のハルには彼女の言っていることの意味などわかるはずはなかった。まだ何も書かれていない、白紙のページを眺めるのと同じで。そこからはどんな言葉も、読みとることはできない。
それがわかるのはずっと先の、もう物語が終わりを迎える頃のことだったのである。
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