一つめの始まり

 四月の、ある日のことだった。

 何か上機嫌なことでもあったみたいに暖かく、気持ちのよい青空が広がっている。光を溶かしこんだような風が吹いて、息をするたびに体の中身が入れかわってしまいそうだった。

 県道にあるバス停の前に、赤と白のバスがやって来ている。ブザーが鳴ってドアが開くと、並んでいた人々が次々と乗車していった。大抵の人がそのバスに乗るらしく、誰もが羊の群れみたいな大人しさで車内へと消えていく。

 小さくクラクションを鳴らしてバスが出発すると、あとには二人の少年と少女だけが残っていた。

 放課後らしく、二人とも中学校の制服を着ている。デザインがかなり違っているのは、通っている学校が別々だからなのだろう。

「次のバスかな?」

 と、少女のほうが訊いた。

 さっぱりとした短めの髪をしていて、それが時々風に揺れる。発見されたばかりの鉱石みたいな、きらきらした目をしていた。動作の一つ一つに、その年齢の少女らしい健康で自然なのびやかさがあった。草原で花摘みをしているよりは、思いきり駆けまわっているほうが似あいそうな少女でもある。

「――いや、もう少し先みたいだ」

 時刻表を見ながら、少年が答えた。ややこみいった形の路線図が、そこには載っている。

 少年は、少女より少し身長が高い程度のごく平均的な背格好をしていた。やや大人びた、落ちついた雰囲気をしている。そこからは夜の星座にも似た、いつも正しい位置にある賢さと優しさが感じられた。その瞳は透明で明るい、青空みたいな場所につながっているようでもある。

 少年の名前は宮藤晴、少女は水奈瀬陽といった。

 かつて小学生だった頃に知りあった二人は、中学になってからある出来事をきっかけにして、あらためて交流を復活させていた。今はアキの用事にハルがつきあう格好で、このバス停で落ちあった、という状況である。

「ハル君、学校のほうはどう?」

 と、アキはバス停のベンチに腰かけながら言った。

「三年になったばかりだし、まだよくはわからないよ」

 ハルも同じように、ベンチに座る。人はいないので、二人のあいだには余裕があった。

「勉強は?」

「今のところ問題ない」

「――今年は受験の季節だね」

 アキはハルのほうをのぞきこんで、少しいじわるそうな笑顔を浮かべる。

「ぼくのほうはね」

 とハルは苦笑した。

「アキのほうは、何も心配しなくていいんでしょ?」

「そりゃあ、わたしはもうすませちゃってますから」

 県道にはまばらな量で車が走っていた。自動車も春の季節には気がゆるむのか、何となくのんびりした様子をしている。

「――でも、何だか変だね。もうすぐ十五歳になって、それから高校生になるなんて。そんなの、想像もしたことないのに」

 親しい人からの便りみたいな風が吹いて、アキはちょっとのびをした。そんなセリフを聞いていると、この少女もこの少女なりに大人になりつつあるのだとわかる。

「世界は必ずしも、永遠を必要とはしないから……」

 ハルは風の行方を目で追うみたいにして言った。かつての事件で出会った、ある人のことを思いだしながら。

 そう――

 世界は変わっていくのだ。

 それが、どれくらいの希望と残酷さを含んでいたとしても。

 しばらくすると、もう一台バスがやって来て停まった。二人が座ったままでいると、今度は扉も開けず、ただ落し物の確認でもするみたいに少しだけ停車して、そのまま出発する。あとには、サイズのあわない空白だけが残されていた。

「――今度の日曜日、いつも通りの集まりを開くって」

 その空白を埋めるみたいにして、ハルは言った。

「佐乃世さんの家?」

「うん」

「でもわたし、いまだにうまく使えないんだよね、魔法って……」

 軽くため息をついて、アキは言う。

「何かコツとかってあるのかな?」

「訓練あるのみ、かな」

 ハルはちょっと考えるようにして言った。

「ほかには?」

「たゆまぬ努力と練習」

「やっぱり、ハル君もそうだったの?」

「うん――母さんが死んでからは、ずっと」

「そっか」

 と、アキは透明なガラス玉を手の平の上で転がすようにして言った。

「なら、わたしもがんばらないとね」

 その時、不意に風が吹いてきて、桜の花びらが何枚か舞い落ちてきた。秒速五十センチほどで落下する白い花びらは、指先くらいの大きさしかないというのに、世界の色あいをすっかり変えてしまっているように見える。

「春だね――」

 その小さな花片に手をのばして、アキは言った。

「――うん、春だ」

 鈍い音の響きを乗せてバスがやって来たのは、それからほどなくのことだった。


 丘の上に続く急な坂道を、バスは苦労して登っていく。ほとんど乗客はいなかったけれど、それでも青息吐息という感じだった。一度でも止まってしまえば、それっきり動けなくなってしまいそうである。

 二人の目指す歴史博物館は、その坂道の上にあった。付近には美術館やミュージックホールもあって、ちょっとした文化スポットを形成している。市の中心部とはいえ緑が多く、あまり街中という感じはしない。

 いくつめかの停留所で、二人はバスを降りた。目的地までは、徒歩であと数分というところである。人通りはほとんどなく、春の空気はひどく長閑だった。

「じゃあ、行きますか」

 と言って、アキは歩きはじめた。遊歩道にはあちこちに緑陰が落ちて、誰かが窓でも開けたみたいに春の陽射しが注いでいる。

 しばらくすると、目指す建物が見えてきた。歴史博物館は赤レンガでできた古びた建物で、元は兵器廠として使われていたものだった。それだけに、余計な重りを一つ分足したような、重厚な外観をしている。窓はどれも小さく、頑丈そうな鉄格子と扉がつけられていた。その無骨な居ずまいには、今でも実用に耐えられるのだという威厳めいたものが漂っている。

 二人は小道を通って入口から中に入ると、受付けの前に立った。中学生以下は入場無料なので、学生証を見せるだけでよい。

「ようこそ、歴史博物館へ」

 受付けの若い女性が、にこやかに声をかけてきた。何となく微笑ましいものでも見るような目で、二人のことを眺めている。

「――あの、久良野さんは在館ですか?」

 そんな女性に向かって、ハルは訊いた。あまり中学生らしくはない礼儀正しさだった。

「あら、じゃああなたたちが宮藤くんと水奈瀬さん?」

 女性はちょっと慌てたように言う。

「そうです」

 アキが快活にうなずいた。

「そうか、考えたら気づきそうなものだったのにね――桐子さんから、話は聞いてます。今日は予定通りのはずだから、特別展示室のほうにいるはずよ。準備にもう少し時間がかかると思うけど」

「特別展示室は、向こうのほうですよね?」

 アキが指さすと、女性は丁寧にうなずいた。その動作も、展示品の一部みたいに。

「――ええ。よければ、それまでは館内のほかの場所もまわってみるといいんじゃないかしら?」

「ありがとうございます」

 二人はお礼を言って、受付けをあとにした。女性は二人の姿が見えなくなるまで、小さく手を振っている。

 勧められたとおり、ハルとアキの二人は館内を巡回することにした。平日の午後という時間のせいか、あたりにはまばらにしか人の姿はない。空気がしんとして、耳を澄ますと少し前くらいの時間の音なら聞こえてきそうだった。

「……わたし、博物館ってわりと好きだな。静かで,落ちついてて、正しいものが正しい場所にあるって感じがするから」

 木製の廊下を歩きながら、アキはちょっとした秘密でも囁くように言った。

 元々、この場所を訪れたのはアキの取材のためだった。歴史博物館では今、幕末から明治期にかけての地元での動向をテーマとした特別展を開催していて、アキは新聞部でのレポートとして、それを参考にするために足を運んだのである。

 その特別展の展示物を眺めながら、

「そろそろじゃないかな?」

 と、壁にかけられた時計を確認して、ハルは言った。約束の時間までは、あと少しである。

「うん、行ってみようか」

 アキもうなずいて、二人は別の部屋へと向かった。階段をのぼって、受付けで指示されたとおり北側二階の展示室へ移動する。

 その部屋には入ってすぐ、大きな写真パネルが飾られていた。その頃に交流のあった、地元出身の武士と外国人商人のものらしい。端正だがやや目つきの冷たい男と、口髭を生やした顔を真横に向けた、何となく愛嬌のある外国人の姿が、そこには写されている。

 やや広く空間をとった部屋の中央には、半円形になってイスが並べられ、その中心に机が一つ置かれていた。机の上には箱状のものが用意され、その傍らに目的の人物が立っていた。

「こんにちは、久良野さん」

 と、アキはごく明るい調子で声をかけた。

 何やら箱をいじっていた女性は、声に気づいて顔をあげた。しゃれた眼鏡に、シャツとジーンズという飾り気のない格好をしている。あくまで自然体な雰囲気だが、全体の動きはきびきびとしていた。胸元には、学芸員であることを示す身分証がつけられている。

「いらっしゃい、二人ともよく来たわね」

 彼女はどっちにめくっても表になりそうな笑顔で言った。

「はい、お言葉に甘えて失礼させてもらいました――」

 ぺこりと頭を下げて、アキは言う。

「いいのよ、遠慮なんかしなくて。うちのナツが、いつもお世話になってるんだから」

 彼女――久良野桐子は、二人の共通の知人である久良野奈津の母親だった。ナツと二人は、いろいろな必要もあって親しくしている。今回は、その縁故を利用しての訪問だった。

「どちらかというと、お世話をされてる気がしますけど……」

 桐子の言葉に、アキはあの人を食ったような少年のことを頭に思い浮かべながら答える。

「目に浮かぶような光景ね、それは」

 と、桐子は悪びれもせずに、にやっと笑ってみせた。子供に関しては自由放任が、彼女の基本方針である。

「あんまりひどいようだったら、何発か殴ってくれていいわよ。もちろん、グーでね」

「たぶん、その前に逃げられちゃいますよ」

 アキが言うと、桐子は軽くため息をついている。彼女にも彼女なりの、母親の悩みというのがあるようだった。

「……でしょうね。あの子にも博物館に来るよう言ってるんだけど、全然よりつかないのよね」

 親の職場を訪ねにくいのは、中学生くらいなら当然のことではあるだろう。

「フユちゃんのほうも機会をうかがってるんだけど、あの子はなかなか隙を見せないわね。下手に誘っても、簡単に断わられちゃうでしょうし。まあ、そこがあの子の魅力的なところなんだけど」

 そんなセリフを聞いて、アキは苦笑するしかない。この人にかかれば、壊れない壁もいつかは撤去されてしまいそうだった。

「……と、無駄話はこの辺にしとかないとね。そろそろ開演時間だから、準備しないと。二人とも席に座って、もちろん最前列で」

 桐子はひどく嬉しそうな顔で、二人に告げた。

「特等席でゆっくり鑑賞していってね。本当に、

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