プロローグ

プロローグ

 ――彼女は暗い夜の森を走っていた。

 目の前を、一人の男の子が同じように走っている。彼女と彼は、その小さな手をつないでいた。二人はまるで、何かから逃げるように足を動かしている。

 ごく幼い子供たちだった。どちらもまだ、小学生くらいだろう。男の子のほうがやや年齢が上だったが、もちろんその幼さには何の足しにもならなかった。

 時刻は、春の宵といったところ。月の光は厚い葉の重なりに遮られて、地面にまではほとんど届いていない。湿り気を帯びた空気は不自然に冷たく、まるでそこにだけ冬がまだ残っているかのようだった。

 森には鬱蒼と木々が茂り、藪のせいで足元もおぼつかない。風に揺れる梢は、ざわざわと盗賊の足音みたいに響いた。幾層にも重なった暗闇からは、今にも腹を空かせた狼や、首のない血塗れの幽霊が姿を現しそうである。

 彼はその右手に、カンテラ型の電灯を掲げていた。その光は、森の暗闇を弱々しい魂みたいに照らしている。彼女のほうは左手に、絵本を抱えていた。二人の持ち物は、どうやらそれだけらしい。

「――!」

 不意に、彼女は木の根につまずいて転びそうになる。けれどその手を、彼がしっかりと支えていた。彼女は少しよろめいただけで、倒れてしまうようなことはない。

「――大丈夫?」

 と、彼は心配そうに訊いた。

「うん――」

 彼女はその手を強く握りかえしながら答える。

 何だかそれは、ヘンゼルとグレーテルに似ていた。いじわるな継母のせいで、深い森の奥に置き去りにされてしまった二人の子供たちに。

 けれど――

 それはあながち、間違いとはいえなかった。どちらも、この世界から放りだされてしまった、という点では。

 もしも二人に例の童話と違うところがあるとすれば、それは彼らが、という点だった。帰る場所さえ、この二人は失ってしまっている。

 二人はつい今しがた、ある施設から脱けだしてきたばかりだった。

 そこはある宗教法人によって作られた、特殊な施設だった。そこに住む大人たちは、世界の美しさしか語らなかった。ただ、きれいなだけの物語を。子供たちは大きな鳥籠にでも入れられるようにして、そこで暮らしていた。不完全な外の世界とは、一切の関わりを持たないまま――

 そこは一種の、歪んだ形をしたエデンだった。知恵の樹のない楽園。

 けれどそんな場所でさえ、世界は不完全だった。

 正しい時計を持っている人間がいなければ、時間のずれが修正されることはない。それは時がたつほど、解離していく。小さな世界ほど、その狂いは大きくなった。

 そして誰かが、犠牲になる。

 彼女には、何の落ち度もなかった。この世界がどんなに不完全な場所なのか、彼女は知らなかったのだから。それを知るには幼すぎたし、それを教えてくれる人間も存在しなかった。

 そしてある時、彼女は傷を負うことになる。それは魂に致命傷を与えるような出来事だった。心の原型が崩れ、精神にひび割れが生じるような。頭のまだ白紙だった部分が乱暴に塗りつぶされ、心の大切な部分に汚い黴の根がはるような。

 もしもそのことが今も続いていたら、彼女は完全に壊れてしまっていただろう。それが二度と回復されることはない。例えどんな魔法を使ったとしても。

 その夜も、彼女の部屋には顔のない黒い影がやって来た。鍵をかけても、扉をふさいでも無駄だった。それは形を持たない存在みたいに、どんな場所にでも侵入してくる。

 けれど――

 気づいたとき、その影はいなくなっていた。代わりに、彼の姿がそこにあった。

 そこには英雄のための祝典も、賢者による称賛も、詩人の作った頌歌も存在しない。

 あるのはただ、いつもと同じ暗い夜の闇だけ。

 彼女に何とか理解できたのは、もう怖いものはいなくなった、ということだけだった。絵本の中の怪物が、必ず最後にはいなくなってしまうみたいに。

 だから彼にそう訊かれたとき、彼女の答えはもう決まっていたのだ。

「いっしょに行こう、ぼくと」

「――うん」

 そして彼女は、その手をつかんだ。

 二人の子供はそうして、施設をあとにした。外の世界のことなど何も知らず、身を守る術さえ持たないまま。一冊の絵本と頼りない明かりのほかには、ポケットに入れるための小さなパンさえもなく。

 それは、何の用意もなく星空を目指すような、無謀で無意味な行為だったのだろうか?

 常に暗闇しか存在しないその場所で、人は生きていくことはできない。そこには空気も水もなく、あるのは仮借ない炎熱と酷薄な冷気だけでしかない。足場すらないそこでは、人はどこにも導かれず、どこにも到達しない。

 どれだけ不完全でも、人はその場所で生きていくしかない。例え魂を凍らせ、心を傷つかせても。世界はそこにしか、存在していないのだから。

 けれど、それでも――

 二人はやがて、疲れて足をとめた。森の木が一時的に途切れ、あたりには洞窟の底を照らすように月明かりが射しこんでいる。二人の手はつながれたままだった。

「――かみさまはやっぱり、いないのかな?」

 と、彼女はその幼い声で、とても静かに訊いた。誰にも聞かれることのない独り言でもつぶやくみたいに。

 けれどその問いに、彼は何のためらいもなく答えている。

 そうだ――

 彼女は思った。

 怖いことなんて、何もない。

 永遠に、この暗い森は続いていくのかもしれない――

 運命は、少しも助けてはくれないのかもしれない――

 幸福は、いつまでも手に入らないのかもしれない――

 孤独は、消えもせずに続いていくのかもしれない――

 でも、大丈夫。

 ――彼女は知っていたから。


 この世界で彼の手が離されることは二度とないのだ、と。


 彼女はそれを、知っていたから――



 完全世界は失われてしまった。

 それが戻ってくることは、もう二度とない。人はあまりに多くのものを捨ててしまったし、あまりに多くのものを手に入れてしまった。それらを拾いなおすことも、放りなげてしまうことも、もう不可能なことでしかない。

 世界そのものの重さが不変であったとしても、その均衡は崩れてしまう。例え魔法を使ったとしても、それを防ぐことはできない。

 永遠を閉じこめ、運命を手なずけ、幸福を作りだし、孤独を支配したとしても――

 世界はやはり、不完全なままだ。

 終わりは何かの始まりにすぎず、始まりは何かの終わりでしかない。

 けれどただ一つ、死だけが終わることはない。生の終わりが、死の始まりでしかないのとは違って。

 なら、誰かがだと思ったとしても、不思議ではないだろう。

 ――物語を、より完全なものにするために。

 この世界では、どんなものでも失われてしまう。どんな大切な、かけがえのないものだったとしても。流れ星が消えるよりも早く。桜が散るのより簡単に。

 けれどだからといって、それが許されていいというわけではない。

 世界の片隅にようやく残されたような場所。ささやかな、どこまでも他愛のない時間。

 それが壊されるというなら――

 この不完全な世界がそれを許すというなら――

 もはや、世界そのものを書き換えてしまうしかないのかもしれない。


 いずれにせよ、この物語はここで終わる。

 完全世界を求めた人々と、そのを巡る物語は。

 四季は繰り返され、再び春がやって来た。すべてが新しく生まれ、作り変えられる季節。

 終わりは終わり、始まりが始まる――

 この世界に不完全でいられるのは、子供たちだけだ。彼らだけが、〝完全な魔法〟を持っているのだから。

 もはや〝不完全な魔法〟しか持たない人々は、この世界に耐えることはできない。彼らはどうしても、完全世界を求めずにいられない。

 それがどれほど残酷で、不条理で、間違ったことだとしても。転がり落ちるとわかっている岩を、それでも頂上へと運ばずにはいられないように。


 ――では、始まりと終わりを語るとしよう。

 この「不完全世界と魔法使いたち」を巡る、最後の物語のことを。

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