5
「具合はどうかしら?」
と、フユは訊いた。
場所は弓村桐絵の病室である。室内にはほかに誰もいない。ドアの向こうからは、カートを押す音や、人の足音が聞こえた。面会謝絶の札は、もうなくなっている。
桐絵はまだ起きあがるほどの力はないものの、意識のほうははっきりとしていた。鼻にカニューラをつけ、点滴も外れていないが、生命に別状はない。じき元のように戻れるだろう、ということだった。心疾患そのものは、やはりどうにもならなかったが――
「調子は悪くないな」
砂に書いた文字のような弱々しさで、桐絵は言った。ちょっと風が吹けばすぐに形を失ってしまいそうな、そんなふうに。
「……今は全力で休むことね。そうすれば、これからよくなっていくだろうから」
「全力で休む、ね」
桐絵は蜉蝣のような、儚い笑みを浮かべる。そのあいだにも時計の針が、知らないうちにいくらか動いていた。
「――ところで、真花のこと聞いたよ」
「ええ」とフユはうなずく。
「死んだって、言ってた」
「…………」
「本当に?」
――ええ、本当に。
フユはそう言った。
ベッドに横たわったまま、桐絵は天井を見あげる。まるでそこから何かが降ってくるのを待つみたいに。
「……夢をさ」
と、桐絵は言った。
「夢を見てたんだ、たぶん。どこか暗いところに向かってる夢。そこがどこなのかは、すぐにわかった。何しろ毎晩毎夜、私はそこを見てたんだから。すぐ近くまで行って、手で触れたこともある。怖いくらいに冷たくて、空っぽな場所。だからすぐに、そのことはわかった――」
水泳をはじめたばかりの人間が必死に息継ぎでもするように、桐絵はしゃべり続けた。本来ならとめるべきだったが、フユはそれをしない。それをするわけにはいかなかった。
「ああ、とうとうあそこに行くのか、と思ったよ。いつもあんなに怖かったのに、自分でも驚くほど冷静だった。きっと怖いのは一瞬だって、わかってたんだ。そこを通りこしてしまえば、あとはただ落っこちていくだけ。もう自分ではどうしようもない――」
「…………」
「覚悟を決めて、私はただ待ってたんだ。掃除機か何かにでも吸いこまれる瞬間を待つみたいに。でも気づいたとき、そこには何か別のものが吸いこまれてた。それが何なのかはわからなかったけど、暗闇はそれでもう満足したみたいに、私を食べようとするのをやめてしまった。私はそこからどんどん遠ざかっていって、気づいたら左手に羽根みたいなものを握ってた――そして、目が覚めた」
いつのまにか、あたりは静まりかえっていた。ドアの向こうにあったはずのわずかな物音も聞こえない。病室全体が、見えない透明な壁にでも包まれているかのようだった。
「……たぶんそれが、真花だったのよ」
フユは言った。かすかにうつむいて、どこも見ようとしないまま。
「暗闇に吸いこまれたのが?」
「ええ、彼女は自分の生命を代価にして、あなたを救うという願いを叶えた。彼女の魔法〈天使契約〉は、そういうものだった」
桐絵は自分の左手をそっと掲げて、それを見つめた。天使の羽が、まだそこに残っているかのように。
「そっか、真花は私の代わりに死んだんだ」
ぼんやりと、桐絵はただそれが事実であることだけを確認するように言った。
フユはそんな桐絵に向かって告げる。
「愛しすぎたからだ、と真花は言ってた」
「――――」
「あなたを失うことに耐えられないからだ、と真花は言ってた」
「――――」
「私にとってはそれで十分にお釣りが来るんだ、と真花は言ってた」
桐絵は何の感情もない様子で、自分の左手を不思議そうに眺めていた。
その表情に、フユは見覚えがあった。
ずっと昔、一人ぼっちの少女がブランコの上で浮かべていた――
「――昔々、こんな話があったそうよ」
気づいたとき、フユはそんなことをしゃべりだしていた。自分でも、そのことにうろたえながら。
「……どんな話?」
桐絵は先をうながす。フユは少しだけ逡巡して、けれど続けた。
「昔あるところに、二人の姉妹がいたの。一人は暗くて醜い、いじけた森のシダ植物のような妹、もう一人は――」
それは、志条夕葵と朝香の話だった。
フユは同じような運命をたどった二つの物語を、交差させる。妹のためにその手を捨てた姉、姉のためにその生命を捧げた妹。その二つの別々の物語が、フユを通して関係を結ぶ。
「――わかっていると思うけど」
と、フユはすべてを語り終えてから言った。
「これは志条夕葵と、その姉の話。あの人は言ってる。私は呪いをかけられたんだって。その手を見るたびに、あの人は自分の醜さを思い出す。それは決して、消えることはない」
桐絵は黙って、その話を聞いていた。彼女が心の中で何を思っているのか、フユにはわからなかった。敬愛する作家に対する幻滅だろうか。それとも、共感、憐憫、憎悪、絶望――
「――私はね、フユ、これが呪いだなんて思ってないよ」
桐絵は静かな、ガラスにでも閉じこめられたような声で言った。
「そりゃ真花がいなくなって、それが自分のためだなんていうのは悲しい。怒りたくも、恨みたくもなる。しかも当の本人は勝手にいなくなって、もうどこにもいないんだから」
そこまで言って、桐絵は少し笑う。
「でもね、私はそのことを思い出すたびに自分のことを嫌ったり、憎んだり、蔑んだりなんてことはしない」
「けど、あなたは彼女を失ったんでしょ?」
ううん違う、と桐絵は首を振った。
「私は失ったんじゃなくて、もらったんだから――」
病室をあとにして階段に向かっていると、後ろから声をかけられた。独特な、金属を鍛造したような声である。振りむくと、宮良坂医師がそこに立っていた。
「少し話をしたいんだが、構わんかな?」
近づいてくると、宮良坂は言った。ここのところ桐絵のことで忙しかったのか、この医師はどこか憔悴した様子をしている。
「構いませんけど」
そう言うと、宮良坂は廊下の隅へと移動した。その先には事務室か医師の控え室があるらしく、人の通りはない。がらんとして、病棟の物音も分厚いカーテンで遮られたよかのようだった。
「弓村桐絵のところに行ってたんだな、君は?」
訊かれて、フユはうなずく。
「例の……魔法のことについて話したのかい?」
「ええ、話しました」
フユが無表情にうなずくと、宮良坂はひどく厄介なことに思い悩むような顔をした。成功率のわずかな難手術を前にしても、おそらくこの医師がこんな表情をすることはないだろう。
「結城先生から、大体のことは聞いている」
宮良坂は心情を吐露するような疲れた声で言った。
「私にはなんとも言いがたいことだ。信じにくいことだし、信じられんことだ。だが弓村桐絵は現実に回復しつつあるし、弓村真花は確かに亡くなった。とりあえず信じないわけにはいかないだろう」
「今回のこと、先生は事前に聞かされていたんですか?」
「ああ、聞かされていた」
宮良坂は冷静で断固とした口調で言った。そこにはごまかしも、後ろめたさもない。
「結城先生から一通りのことは、な。弓村真花のやろうとしていることと、その結果に起こるであろうことについて」
「反対しなかったんですか?」
別に非難しているというわけではなく、フユは訊いた。
「正直なところ、信じにくかったというのはある。何しろ、俺は魔法使いではないんでな」
宮良坂は軽くため息をつくように言った。
「だがそのうえで、もしも弓村桐絵が助かるなら、と思っていたところがないわけでもない。俺の中では魔法云々よりも、そちらのほうが厳然とした事実性を持っていたんだろうな。見えないものを秤に載せるのは難しい。そのために一人の人間が死ぬというのは、とても許容できる話ではないのだが……それでも、な」
「…………」
「賛成はしなかった。だが反対した、というわけでもない。俺には手の出せる話じゃない、と思っただけだ。俺にできるのはせいぜいが、弓村桐絵に万全の対応をしてやることだけだった」
「……桐絵は助かるんですか?」
「すでに小康状態に入っている。各種数値も正常範囲に戻りつつあるし、驚異的な回復を見せている。魔法、としか言いようがないな。このまま順調にいけば、じきに退院することができるだろう」
天使は約束を守ったらしい――
これでもう話は終わりかと思ったら、宮良坂は続けてこんなことを言っている。
「それで君に話があるというのは、別のことだ」
「……?」
フユは不思議そうに宮良坂のことを見る。宮良坂統と自分との関係は、弓村桐絵にしかないはずだった。
「本人が何と言うかはわからないが、君には伝えておくべきだと思ってな」
「何のことです?」
「奈義真太郎のことだ」
何故、宮良坂が奈義のことを知っているのか。
「彼のことを、私は知っているんだ。そしてその関係は、奈義真太郎、君、弓村姉妹、私、というふうにループさせることができる。まったく、妙な因縁だとしか思えんよ」
「どうして先生が、奈義のことを?」
訊くと、宮良坂は答えた。
「伊沢政志のことを覚えているかね?」
確かそれは、デパートでの爆発事故の際、子供をかばって亡くなった男性のことだった。
「彼の甥が、奈義真太郎なんだよ」
フユは顔をしかめる。
「まったく、妙なものだと思うだろう? 伊沢政志のことで、彼は時々私を訪ねてくるんだ。五年前、彼が中学生だった頃からのつきあいだよ。その彼と君が知りあいなんだから、人の縁(えにし)というのは不可思議なものだ――」
宮良坂はそれだけのことを話してしまうと、病棟へと戻っていった。
一人その場に残されたフユは、けれどどこにも歩きだすことができずにいる。蜘蛛の巣のように複雑にからみあった糸の中に、自分がひっかかっていた。奈義、真花、桐絵、宮良坂、季早、ゆずき――
その糸をたぐれば、誰にでも手をのばすことができる。
すべてのことは、関係しあっている。
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