病室には『面会謝絶』の札がかかっていた。

 真花はその扉を、そっと音の立たないように開ける。壊れかけた積み木の城から、何とかそれ以上原型を崩さないようにブロックだけを取りのぞこうとするみたいに。

 部屋の中では桐絵が横になっていた。酸素マスクをつけ、点滴をされ、生命をカウントダウンするみたいに心電計の音が小さく響いている。その姿は、水面上に危ういところで浮かんでいるように頼りなかった。

 ベッドのそば、窓際のところに結城季早の姿があった。白衣を着ているが、診察時間は終わっているのだろう。もちろん季早は、これからのためにこの場所にいた。

 フユと真花はベッドの傍らの、すでに用意してあったイスに座る。近くで見ると、桐絵の顔はすでに死人のように蒼ざめていた。蝋人形のほうが、まだ人間らしく見えそうだった。火をつければ、その体はあっというまに燃えつきてしまいそうに思える。

「――どういう状態なの?」

 誰も何も言おうとしないせいで、フユは訊いた。病室は雪の下に埋もれたように静かである。

「感染症を併発している」

 と、ベッドの向こうから季早が言った。医師らしい、時間を正確に読みあげるような淡々とした口調である。

「心疾患では、もっとも危惧すべき状態だ。すでに心臓も肺も、限界に来ている。これ以上の負荷には体が耐えられない。許容範囲を超える電圧をかけるようなものだ。そうなったら、いつヒューズが飛んでもおかしくない」

 フユは桐絵を見た。心電計が弱々しい脈を伝えていた。彼女はどこか暗い場所――かつて本人が言っていたどこか暗い場所へ、消えていってしまいそうに見える。

 けれど――

 この不完全な世界では、それをどうすることもできない。

「……ねえ、フユ」

 と、フユの隣で真花が言った。桐絵のことを、この神様から欠陥品の体を与えられた姉のことを、じっと見つめたままで。

「私ね、お姉ちゃんを助けてみようかと思うんだ」

「…………」

 その言葉の意味を、フユは知っていた。だから、言った。

「もしかしてそれは、〝集めた幸福を使って願いを叶える〟ような方法で、ということかしら?」

「うん、そうだよ」

 真花は驚きもせずに、フユのほうを見て笑った。

「もうわかってるみたいだけど、私は魔法使いなんだ」


「――私の魔法〈天使契約クローバー・ポケット〉は、フユの言ったように幸福を使って願いを叶える魔法。簡単に言うと、貯金箱みたいなものかな。ちょっとずつお金を貯めて、必要な額になったら欲しいものを買う」

 真花はそう、自分の魔法について説明した。

「子供の頃から、私はこの魔法が使えた。もちろん最初は、魔法だなんて気づかなかった。どう使えばいいのかはわかっていたけど、それが特別なことだとは思わなかった。でもそれが魔法なんだって教えてくれたのが、結城先生だった」

 真花が視線を向けると、季早はうなずいていくつかの言葉を引きとった。

「確かに、彼女にそのことを教えたのは僕だ。姉の症状を軽くするためにその魔法を使っているところを見たんだ。僕は魔法のことについて説明して、あまり不用意には使わないよう忠告した。けど彼女にとってそれは、当たり前のことにすぎなかった。この世界の不完全さを、まだ知らなかったから」

「とはいえ、私にできることはそんなに多くはなかった」

 再び、真花が話しはじめる。

「お姉ちゃんのために幸福をたくさん集めても、せいぜい痛みを和らげる程度だった。それを治してあげるだけの幸福を集めるのは、とても無理だった。きっと塀が高すぎたし、王様の兵隊は少なすぎたんだと思う」

 この世界ではそこらじゅうに幸福が転がっている、というわけにはいかなかったのだろう。

「私は穴の空いたボートから水を掻きだすみたいに、ちょっと幸福が貯まっては桐絵のために使ってた。それでもとりあえずは、桐絵の役に立っていたから」

「あなたが魔法使いだったってことは――」と、フユはだいぶ昔のことを思い出しながら言った。「はじめにをしたとき、あなたはもう魔法のことについて本当は知っていたってことよね」

 言われて、真花はいたずらを見つけられた子供みたいにばつの悪そうな顔をした。

「あの時はああでも言わないと、フユは承知してくれそうになかったから」

 確かに、それはそうだった。

「それに私も訊くけど、フユはどうして私が魔法使いだってわかったの?」

「渚と陽奈子の二人から、昔のことについて聞いたわ」

 真花から逆に質問されて、フユは答える。

「だけじゃなくて、真花自身が言っていたいくつかの言葉にもヒントがあった。それに長いこと風邪を引いてるというのを聞いて、思いあたるところがあったから」

 それは志条夕葵のために犠牲になった、姉の朝香を連想させる。

 ――ひとしきりの話が終わったところで、会話の流れは本題に戻った。

「それで、桐絵を助けると言ったけど、いったいどうするつもり? 十分な幸福を集めることができたということなの」

「ううん、それはやっぱり無理だった――」

 真花はそう言って、静かに首を振る。

「今までと同じで、私の魔法にはそこまでの力はない。でも少し前に、私の魔法にはちょっとした変化が現れたの」

「変化?」

「簡単に言うとね、〝前借り〟ができるようになったんだ」

 真花はごく何気ない調子でそのことを口にした。けれどフユはその言葉に、どこか不吉な予感を拭うことができない。

「どういうことなの、〝前借り〟って?」

「つまりね、今までは持っていたお金のぶんでしか欲しいものが買えなかった。でも今は、欲しいものを手に入れて、あとからその代価を支払うことができるんだ」

 つまり、それは――

「本来なら高価すぎて手の届かなかったものでも、今なら自由に手に入れることができる、ということ?」

「――うん、そういうこと」

「じゃあ体調を崩していたのも……?」

「ちょっとした実験だった。それでも、お姉ちゃんの容態を万全にすることはできなかったし、長続きもしなかった。どうも叶えられる願いに比べると、代価のほうが割高になるみたい」

「…………」

 フユは一瞬、開きかけた口を閉ざした。それを問うことは、嫉妬深い神様の名前を口にするみたいに、やってはいけないことのような気がした。

 けれど――

 フユは、真花のことを見た。

 まるで月の裏側にでも置き去りにされたみたいに、彼女はそこにいた。天使も罰を受ける。必要以上のものを救おうとしてはいけないのだ。もしもそんな願いを抱いてしまえば――

「どうして?」

 と、フユは訊いた。あの日、ブランコに座ったまま、去っていく大切な人を見送ったときのように。

「どうしてあなたは、そんなことを願ったの?」

 真花は何の迷いもなく、答えている。

「それが、私の完全世界だから」

 フユは子供が嫌がりでもするように首を振った。

「……そんなもの、この世界にはどこにもないわ」

「ううん、それはあるんだよ、ちゃんと」

「桐絵を助けるために必要な代価は多すぎるし、どんなことをしたってそれを払えるとは思えない」

「確かに、そうだと思う。例えそれをしても、せいぜい桐絵の生命を長らえさせることができるだけ。病気そのものを完全に治療することはできない」

「――それなら、そんな代価に何の意味もないわ。だって、そうでしょ? 生きられる年数を考えれば、そのほうがよほど選択としては正しい」

「違うよ、フユ」

 真花は言った。風の音にそっと耳を澄ますみたいに。

「私の収支勘定では、それで十分お釣りが来るの。代価をすべて支払ってでも桐絵が生きていくのなら。私にとっては、それが正しい選択だから」

「……おかしいわよ、そんなの」

「ううん、おかしくない」

「だってどうして真花が」フユはまるで、怒っているかのように拳を握った。「どうして……」

 真花はそっと、その拳を解きほぐすように言った。積もった雪を、柔らかく融かすみたいに。

「たぶん、愛しすぎたからだと思う」

「…………」

「そんなふうにしなければ、耐えられないくらい。私にとってはこの世界から桐絵を失ってしまうことより、私自身を犠牲にしてでも桐絵を生かすことのほうが、大切なんだと思う。どちらにせよ片方しか生きられないなら、私はそうすることを選ぶ」

 フユは怒りの矛先を無理にぶつけるようにして、季早のほうを見た。

「医者のあなたなら、そんなこと認めるはずないわよね。どうして真花に何も言わないの?」

「……それが彼女の意志なら、僕にはどうすることもできない。それに誰より僕に、そのことを言う資格はないんだ」

 もちろんフユには、季早の言うことの意味がわかった。かつて何を犠牲にしても、自分の娘を蘇らせようとしたのだから――

「……何故、そんなことを私に話したの?」

 もはや聞くべきことを失くしてしまって、フユは訊ねた。

「フユには知っておいてもらいたかったから」

 真花は何の屈託もない顔で言った。一番仲のよい友達に、また会う約束をするみたいに。

「前にも言ったでしょ? フユは桐絵によく似てるって」

「…………」

「だから桐絵がもしも私のことを知りたがったら、今の話をみんな伝えて欲しい。迷惑かもしれないけど、世界中の誰よりも、私はフユにそれをして欲しいんだ」

 わかった、とはフユは言えなかった。

 けれどそれを拒絶することも、フユにはできないでいる。例えどんなに強くて固い、魔法の壁があったとしても――

「じゃあそろそろ、時間もないから準備するね。これでも桐絵の容態は一刻を争うし、少しでも早いほうが、それだけ代価の効果も高くなるかもしれない」

 真花はそう言うと、布団の下から桐絵の手を掴みだして、優しくそれを握った。死人のように蒼ざめた、桐絵の手。何かを手渡そうとするように、真花はその左手を両手で包んでいる。

「真花――」

 フユは何か、言おうとした。けれど言葉が、出てこない。それはずっと昔に、どこかの暗い場所に置いてきてしまっていた。

「大丈夫」

 真花はにこりとして、そんなフユに言う。

「言葉にしなくたって、フユの言いたいことはわかるよ。私たち、魔法使いなんだから――」

 それが、彼女の最期の言葉だった。

 世界を組み変える揺らぎが、真花の手から伝わる。

 大きな、けれど穏やかな揺らぎ。雪が降るように、それは世界を変える。すべてを白く染め、すべてを埋めつくす。けれどそれは優しい。たくさんの天使が舞い降りてきたみたいに――

 〈天使契約〉の魔法は、行われた。

 気づいたとき、真花は眠るように桐絵のそばに倒れている。

 まだ温かな手で、死人はその手を握っていた。でもその温もりは、すぐに失われる。弓村桐絵がそれに気づくまもなく、あっというまに。ここは、不完全な世界だから。

 季早が心電計をのぞきこみ、桐絵の状態を確認した。

 でも、そんなことをする必要はないのだ。

 魔法は確かに行われた。弓村真花の生命を代償にして。その姉を救う魔法は、確かに実行された。天使はその契約を、残酷なほど正確にはたした。

「弓村桐絵の容態は安定してきている」

 と、季早は静かに告げた。

「検査をすれば、その辺のことはもっとはっきりわかるだろう。何にせよ、これで彼女の願ったとおりになった」

「……これが正しいことだというの?」

「少なくとも彼女にとっては、ね」

 フユはもうじっとして、少しも動くことのない真花を見た。その顔は死んでいてさえ、孤独に侵されることはない。

「私に何かできることはないの――?」

「今はない。あとのことは僕が処理しておくから、君は家に帰るんだ。ご家族への説明も僕が行う」

 フユはらしくない、木偶のような動作で立ちあがった。そんなフユに向かって、季早は言う。

「だが弓村桐絵にこのことを伝えるのは、君の役目だ。弓村真花は何よりそれを、望んでいた。君にはまだ、やるべきことがある」

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