9
フユとゆずきは、道路の真ん中で向かいあっている。
まだ踏み荒らされていない雪があたりには積もっていた。もの言わぬ月を思わせる眼で、街灯がそれを見ている。その光のほかには何も存在しないみたいに、あたりは暗い。まるでそこが、世界のすべてから見捨てられてしまった孤島であるかのように。
沢谷ゆずきはしばらくのあいだ様子を探ってから、
「追ってきたのはあんた一人なの、志条?」
と、訊いた。
「――ええ、そうです」
フユは正直に答えた。ここまできて、つまらない嘘はつきたくない。
「あんたたちは何なの?」ゆずきはわずかに顔をしかめるようにした。「何かのエージェントとか、政府の秘密調査員?」
「ある私的な組織に関わるものです」
「ふうん」
言って、ゆずきは懐疑的な目をフユに向ける。もちろん、彼女にはその真実をはかる方法はない。
「もう一人のほうも?」
「ええ……」
「組織って、何の組織なわけ?」
「この世界に、完全世界を実現しようとする人間たちの集まりです」
「完全世界――? 何それ?」
ゆずきはきょとんとした。その表情に偽りはありそうにない。
「かつてあったはずの、本当は誰もがそこにいた場所のことです。そこではすべてのものが壊れることも、欠けることもなかった。すべては完全だった」
「何かのお伽話、それ?」
からかわれているとでも思ったのか、ゆずきはかすかに不快そうな顔をする。
フユは一瞬考えてから、こう訊いた。
「先輩が魔法の力に目覚めたのはいつ頃のことですか?」
「魔法……?」
「私の〈断絶領域〉も、先輩のその力も、かつての完全世界にあったものです。その世界が失われたとき、魔法も同時に失われてしまった。人が言葉を得て、忘れてしまった力――」
ゆずきは何かを確認するように、自分の両手を見た。そこに、カインにつけられたという刻印でも見つけたみたいに。
「……この力を手に入れたのは、あんたと会う少し前のことよ」
と、ゆずきは話しはじめた。
「最初はあたしも気づかなかった。ただむしゃくしゃしたときに、何か妙な感じがしただけ。いろんな噂話を聞いたときも、自分に関わりのあることだとは思わなかった。そうだと気づきはじめたのは……そうね、あんたの相棒にいろいろ質問された頃ね。例の自販機のことも、考えてみればあたしがやったことだったんだ。あたしが、〝つながりを断った〟」
「…………」
「そう、あんたの言いかたに従えば、私の魔法〈孤独証明〉は〝すべての関係を自由に切断する〟魔法よ。恋人というつながり、通信というつながり、記憶という自分とのつながり、魔法と世界のつながり、それを好きに切ってしまうことができる。もっとも、切ったあとのことは知らないけど」
確かに、それならすべての現象を説明することができた。そして世界は結局、関係性で成りたっている。どこかの哲学者に言わせれば、自分ですら、自分に対する自分との関係なのだ。それを自由にできることは、何よりも強い力を手にしたということでもあった。
「――で、あんたたちはあたしをどうするつもりなの?」
ゆずきは訊いた。
「秘密組織だか黒服の怪しい連中だか知らないけど、あたしを追ってたんでしょ? 不当に力を使ったから逮捕する? それとも、仲間になれとか? もしくは実験動物みたいに、どこかに監禁して自由を奪うとか?」
「私に出された指示は、あなたを捕まえることだけです」フユは軽く首を振りながら言った。「そのあとのことについては、認知していません。あるいは、先輩の言ったとおりになる可能性もあります」
「どの道、あたしの自由はなくなるわけだ」
「…………」
結社が沢谷ゆずきをどう処理するかは、フユは本当に知らなかった。知っているのは、彼らが何かを求めようとすれば必ずそれをする、ということだけである。そして完全世界を理解しないというこの少女を結社がどう扱うのかは、フユの想像の埒外にあることだった。
あるいは、ゆずきの言うようにモルモットと同様の扱いを受ける可能性もあった。
「今後、二度と魔法を使いさえしなければ、先輩が捕まることはないと思います。そう約束するなら、この場は見逃します」
フユはむしろ、そうあって欲しいという口調で忠告した。それは彼女に下された任務に、違反することではあったけれど。
その提言に、ゆずきは冷笑を浮かべている。
「やっぱりあんた、何もわかってないみたいね」
「……?」
「何にせよ、あたしはこの力を手放すつもりはない。この力を二度と使わないなんていうことはありえないね」
「どうしてです?」
「何故なら、あたしはこの世界が大嫌いだから」
ゆずきはそう言って、にこりとした。まるで、そのことに無自覚な人間すべてを馬鹿にし、憐れむように。
「本当に、ここはろくでもない世界よ。何もかも思いどおりにはいかないし、思いどおりにいったところで何の救いにもなりはしない。仕方ないと諦めれば努力が足りないと罵られ、がむしゃらになってがんばろうとすれば、それじゃダメだって冷や水を浴びせてくる。誰も理解しようとしない、誰も気にしようとしない。道の上に転がるゴミくらいにさえ、注意を払おうとしない」
沢谷ゆずきは今にも世界を壊しかねない勢いで、そう言った。
「――でも、あなたには友達がいた。歌を聴いてくれる人たちだっていた」
「だから?」
ゆずきの顔に浮かんだのは、蔑笑だった。
「それで、あたしが喜ぶとでも?」
「……私は、あなたのことを少しうらやましいと思った。まわりを人に囲まれているあなたを」
「あんたもそんなこと言うんだ! あたしのこと、何も知りもしないくせに!」
ゆずきは激昂したように叫んだ。そしてすべての暗い夜がつまった眼で、フユのことを見る。
「誰も、あたしに本当に必要なものをくれたりはしなかった。どれだけ歌っても、どれだけ呼びかけても、誰も応えたりなんてしなかった。せいぜいが、がんばれよって言うくらい――あたしは何かになりたかった。特別な何かに。そうでなければ、この世界に押しつぶされてしまうから。この世界の重みに耐えられなくなってしまうから。なのに、誰もあたしを特別にしてくれない。あたしの存在なんて問題ないみたいに、みんなが目の前を通りすぎていく」
「…………」
「でもね、この力があればあたしは特別でいられるの」
そう言って、ゆずきは手をかざして笑った。そこには確かに、その印があるというふうに。誰も彼女を傷つけられない、その印が。
「あたしが特別になることを世界が否定するというなら、あたしはそんな世界を否定する。そうすれば、あたしは特別になれる。一人でいれば、あたしは王様にだってなれる。あたしがあたしでいるためには、すべてのつながりを断たなくちゃならない」
そう――
フユにも、沢谷ゆずきの言うことがわかった。
世界に否定されてしまったとき、世界から捨てられてしまったとき。
人は、そうするしかなくなる。自分を守るために、ほかのものとの関係を断つことしか。誰にも壊せない、誰にも触れられない、そんな壁を築くことしか。でなければ、自分はいつか世界を傷つけ、そしてそのことで自分を傷つけてしまうだろう。
この不完全世界で許された、それが唯一の方法だった。
「……魔法を捨てる気はない、ということですか?」
フユは静かに、月の光がそっと音でも立てるように訊いた。
「もちろん、あたしは絶対に逃げきってみせる」
「――なら私は、あなたを捕まえなくちゃならない」
言ったのと、ほぼ同時だった。
ゆずきはふっと笑ったかと思うと、脱兎のごとく駆けだしている。魔法を使う暇もない。フユは急いであとを追った。
数分ほど走ったところで、ゆずきの姿は建設工事中らしいビルの中へと消えた。まだ外壁もなく、鉄骨しか建っていない。地面は土がむき出しの状態だった。
わずかな明かりだけを頼りにフユが中に入ると、どこからかゆずきの声が聞こえている。
〝志条、あんたに一つだけ忠告しといてあげるわ〟
声は微妙に反響して、出所を探ることはできない。
〝あの男には気をつけなさい〟
「――?」
〝もっとも、それは生きてここを出られたら、だけど――〟
その言葉が終わると同時に、怪獣のうめき声のような正体不明の物音が聞こえている。
「…………」
フユが頭上を見あげると、そこからは子供が積み木でも崩すみたいに、大量の鉄骨が降りかかってこようとしていた。
※
「――!」
すさまじい轟音が響くのを聞いて、奈義は現場へと急いだ。
建設工事中とおぼしきその場所では、建物の一部が崩れ、鉄骨や鉛管といった資材が乱雑に折りかさなっている。巨人が宙から無造作にそれを落としたような、ひどいありさまだった。
「フユ、無事か!?」
奈義が駆けつけようとすると、鉄骨の一部が音を立てて崩れている。例えフユがその中にいたとしても、簡単には救出できない状態だった。
その時――
鉄骨の狭い隙間から、這い出るようにしてフユが姿を現した。衣服の乱れも、体に怪我を負った様子もない。フユが完全に鉄骨の山から抜けだすと同時に、中心近くにあった積み重なりが派手な音を立てながら崩れていった。〈断絶領域〉で支えていた力が消滅したためである。
「どこも怪我はないのか?」
さすがに心配そうに、奈義は訊いた。
「ええ、鉄骨のあいだを抜けるとき、でっぱりに少し引っかけた程度ね」
右手の擦り傷を確認しながら、フユは言った。
「……例の魔法使いには逃げられたわ」
奈義はそれを聞くと、首を振ってため息をついた。
「いや、それはいい。どうやら俺の見立てが甘かったみたいだ。ここまでのことをやってくるとは思っていなかった。お前を危険な目にあわせちまったな」
「知ってるでしょ?」
そんな奈義に向かって、フユはほんの少しだけ微笑んでみせる。
「誰にも、私を傷つけることはできないのよ」
「そうだな」
奈義も、少しだけ笑う。そして独り言のようにこうつぶやいていた。
「これでもう、猶予はなくなったわけだ――」
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