10

 深夜のコンビニエンスストアだった。

 沢谷ゆずきは飲料コーナーの前にたたずんでいた。ほかに客はいない。店の外には黒々とした闇が横たわり、まるで壁面のような質感さえ持っていた。そのせいで店内は光が押しこめられたように不自然に明るく、妙に息苦しくさえある。

 ガラス戸を開けて炭酸飲料を手に取ると、ゆずきはそれをカバンにしまいこんだ。ついで、パンと菓子のいくつかも同じようにしてカバンに入れる。店員がレジでそれを見ているが、咎めたりはしない。ゆずきが〈孤独証明〉を使って、すでに店と商品の関係を断っていたからだ。それらはすでに、誰のものでもなくなっていた。

 レジの横を素通りして、ゆずきは店の外に出る。コンビニの光が誘蛾灯のようにあたりを照らしていた。息を吐くと白く濁り、ゆずきは肩をすぼめて寒さをやりすごそうとする。

 彼女は現在、友達の家を転々としながら厄介になっていた。三日前から自分の家には戻っていない。最初の追跡にあってしばらくしたあと、自分のことが露見していると判断したほうがよさそうだったからである。そのため、家との関係は魔法を使って切っていた。失踪届けなど出されて家族に騒がれては困るからだ。もちろんそれは、彼女が自分の家族を失い、一人ぼっちになることも意味していた。

(――別に、あんな家族)

 ゆずきはけれど、そう思っている。口うるさい母親に、無神経な弟、黙ったまま何を考えているのかもわからない父親。それだけの人間が何の因果もなくいっしょに暮らしている。あれはただ、それだけの集団にすぎない。

 この魔法があるかぎり、食っていくことには困らないだろう。追跡者がいるため使用には注意が必要だったが、たいした心配はしていなかった。いつでも逃げきれる自信があったからである。場合によっては志条芙夕にしたように、多少乱暴な手を使っても構わない。

 そんなことを考えていたゆずきは、歩道の途中でふと足をとめた。

 一人の男が、自分を待っていたかのようにそこに立っている。もう切れかけた街灯が、くたびれた光で男を照らしていた。光量が不足しているせいで、この距離からは男の顔を確認することはできない。

 近づいて、ゆずきは顔をしかめた。

「あんたは――」

「君のことを、これ以上放置しておくわけにはいかなくなった」

 その男は静かに、死神のような冷たい声で告げた。ゆずきは軽く身構えながら訊ねる。

「どうやってあたしの居場所を?」

 あの時、男に見つけられたはずのものとはもう関係を断っているはずだった。あれを使って自分を追うことはできない。

「――確かに、君は自分の家族とのつながりさえ非情にも消してしまうことができる。いとも簡単に。でもこのギターとのつながりだけは、消去してしまうことはできなかったらしいな」

 そう言って、男は肩に担いでいたものを示してみせた。それはケースに収められた、沢谷ゆずきの相棒であるギターだった。

「……なるほど、そういうことね」

 ゆずきは複雑な感じの笑みを浮かべる。例え世界のすべてと関係を断ったとしても、自分には確かにそれを捨てることだけはできないだろう。

 つまりそれは、この男から行方をくらますことは絶対に不可能、ということだ。

「いったいあたしを捕まえて、どうするつもりなわけ?」

 と、ゆずきは質問した。

「手荒なことをするつもりはない。君が大人しくしてさえいれば、危害は加えない」

「……よく言うわね」

 ゆずきは嘲笑めいた表情を浮かべた。

「あんたは志条に私のことを教えてなかったんでしょ? それに、本当はあたしの居場所を簡単に見つけることができたくせに、それをしなかった。自分の仲間にさえそんな人間を、信用できると思う?」

「彼女のことはできるだけ巻きこみたくなかった。俺が君を追う本当の理由を知られるようなことは。それにこのギターは最後の手段だった。もしも君がこのギターとのつながりも断っていたとしたら、もう打つ手が残っていないことになる」

「ずいぶん殊勝に聞こえるけど」

 ゆずきはふんと、鼻を鳴らした。

「でもあんただって、どうせこの魔法の力とかいうのをろくなことに使ってないんでしょ。そんな人間に捕まるのなんてごめんよ。それにこの力はあたしに必要なの。この世界であたしが特別でいられるために」

「どうしても抵抗するのか?」

 男はあくまで、できるなら闘争は避けたいという口調で言った。

「当然でしょ」

 言って、ゆずきは続ける。「思えば、おかしなことがはじまってたのよ」

「…………」

 男は黙って、あらためてゆずきと向きあう。交渉は決裂したのだ。

 対峙する二人のあいだに、緊張が走った。ゆずきは男のことを知らない。だが志条芙夕と同じように、それがどんな魔法であれ消去する自信はあった。優位は自分のほうにある。そして、ゆずきは考えていた。

(――一瞬、手を触れるだけでいい。それだけのことができれば、こいつを無力化することは可能だ。あの時、酔っ払いの男にからまれたときと同じに)

 沢谷ゆずきはチャンスをうかがい、そしてそれはやって来た。

 自動車が彼女の後方から現れ、ヘッドライトの光が男の視界を奪った。その瞬間に、ゆずきはすばやく走りよって、男の頭に手をかざす。

「ばいばい」

 つぶやくと同時に、魔法を発動した。世界の揺らぎが収束し、男とその記憶との関係を抹殺する。

 ――する、はずだった。

「……?」

 妙な手ごたえに、ゆずきはうろたえた。確かに魔法は発動している。はじめはストレスに従って自分でも気づかないうちに使用していたが、今では完全にコントロールすることができた。だから、間違えるはずはない。魔法は有効に作用し、記憶との関係を断たれた男は廃人同然に変わってしまうはずだった。

 けれど――

 男にはまったく何の変化もない。まるっきり平気な様子で、そこに立っている。

「何で……?」

「悪いな」

 呆然とするゆずきに向かって、男は言った。本心から、そう思っているかのように。

 男はそして、ゆずきの額に軽く手を当てた。途端に、彼女は自分の中から〈孤独証明〉の魔法が消えていくことに気づく。

「そんな、どうして……」

「君には代わりにこれを渡しておくよ」

 言って、男はギターを地面に置いた。それが本来、沢谷ゆずきの持っているべきものだったのだから。

「――そして君は、これまでのこと、魔法のことについて忘れる。今まで通りの生活に戻り、自分のしたことも覚えていない。ずっと夢でも見ていたみたいに」

 魔法の揺らぎが起こり、ゆずきは記憶の一部とその関係を断たれていた。

「……あれ?」

 もう魔法のことも、男のことも、ゆずきの記憶にはない。彼女は急に我に返ったような顔で、目の前の見知らぬ男をぼんやりと眺めていた。

「大丈夫――」

 訳のわからないような顔のゆずきにむかって、奈義真太郎は言った。

「君が完全世界の夢を見ることはないんだから」

 街灯の明かりは何かを感じたように二、三度明滅し、それからまた元のようにくたびれた光であたりを照らし続けていた。

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