予報通り、空からは雪が降っていた。

 フユはいつものように、通学路を一人で登校している。あたりに人影はなく、物音さえしない。

 鈍色の空からは、まるで離散者か何かのように大量の白い塊が落ちてきていた。その光景を眺めていると、ここが空の底なのだということがわかる。天上を追われたその小さな白い欠片は、もうそのままの姿で元の場所に戻ることはできない。

 歩いている途中で、フユの肩に完全な形をした雪の結晶が乗った。触れれば指先のぬくもりだけで壊れてしまうその塊が、どうして彼方の空から降ってきたりするのだろう。フユにはそれが不思議だった。あそこにいさえすれば、その形をずっと保っていられたはずなのに――

 やがて学校に到着すると、フユはいつものように教室へ向かう。人の声や物音が、普段よりはっきりとした輪郭で聞こえた。寒さのせいで、音の響きが小さく、固くなっているのかもしれない。

 教室に入って荷物を整理すると、フユはぼんやりと窓の外を眺めた。誰かがそっと手放したみたいに、雪は静かに降り続いている。空からその重みをすべて地上に降ろしてしまおうとするみたいに、いつまでも。

 フユの耳に、かすかな囁き声が聞こえた。例の三人か誰かが、自分のことをしゃべっているようだった。たぶん、ろくな内容ではないだろう。音声がはっきりしなくとも、そのことだけは確かだった。

 壁を作るように、フユは意識を自分の中に閉じてしまおうとする。

 と、その時、不意に声をかけられてフユは顔をあげた。

「――おはよう、フユ」

 そこには、真花がいた。彼女はこの暗い雪の日にも、いつもと同じ明るさをしている。

「ええ、おはよう」

 答えながら、フユはじっと真花のことを観察した。

 体調を崩していたというだけあって、彼女の顔には多少やつれたような感じが残っている。体の中の何か重要な部分がまだ欠けたままでいる、というふうでもあった。久しぶりの登校で、まだ現実に慣れていないだけなのかもしれないが。

「風邪はもういいのかしら?」

 と、フユは当然ながら訊いてみた。

「うん……まだちょっとふらふらするけど、大丈夫。熱もないし。それに、お姉ちゃんと比べると、ね」

 そう言う真花の唇は、心なしか姉の桐絵に似て青ざめているようだった。まるで彼女の病気の一部を、肩代わりでもしているみたいに。

「……相変わらずよくないの、桐絵は?」

 彼女とは四日前、ちょうど真花が風邪で休んだときに会ったきりだった。

「よいとはいえないけど、大丈夫――」

 そう言って笑う真花は、けれどどう大丈夫なのかは言わない。子供だけが三人、山の中で道に迷っても絶対に泣こうとはしなかった、という話をフユは思い出す。彼女はその頃から、変わっていないのかもしれない。

「――そう」

 フユもあえて、細かく追求したりはしなかった。主治医である宮良坂の話によれば、地球が誕生するほどではないにせよ、よほどの奇跡が起きないかぎり彼女の回復は難しいだろう。

「桐絵のことはともかくとして」

 と、真花は無理に明るく振るまうようにして言った。

「せっかくだから今日は、音楽部のみんなで集まれないかな? 久しぶりに学校に来たせいか、何だかみんなに会いたくって」

「真花がそれでいいなら、いいんじゃないかしら」

 フユは軽くうなずく。三人だけでなら、つい昨日に集まったばかりではあったけれど。

「――よかった、じゃあ放課後ね」

 無邪気に喜ぶ真花に向かって、フユはこんな言葉を口にした。自分でもそのセリフが、とは思いながら。

「真花がくれば、きっとあの二人も喜ぶと思うわ」


 誰かが音を持ち去ってしまったみたいに、廊下はしんとしていた。窓の外には空気を白く染めてしまおうとするみたいに、雪が降り続いている。床や壁は、その白い雪を踏み固めたかのように冷やりとしていた。

 放課後、フユと真花は誰もいない廊下を音楽室へ向かっていた。校庭のほうからは、賑やかな叫び声が聞こえている。生徒たちが雪合戦でもしているのかもしれない。

「二人とも、来るって言ってたから」

 と真花は途中、フユに言った。

「快気祝いだって。音楽部の四人がそろうのって、久しぶりだね」

「……確か、快気祝いっていうのは元気になったほうがするお礼だったはずだけど」

「そうなの?」

 真花が訊きかえしたところで、二人は音楽室の前に着いていた。

 その扉の前で、フユはふと足をとめる。部屋の中から音楽が聞こえた。ドアに遮られてはっきりとはわからないが、ギターのような音と人の歌声が響いている。この時期らしい、クリスマスソングだった。薪の燃える炉辺で団欒でもしているような雰囲気である。

 二人は顔を見あわせてから、真花のほうがドアを開けた。

 部屋の中には、沢谷ゆずきの姿がある。

 それから、渚と陽奈子の二人もいた。どうやらゆずきがギターを弾いて、二人がそれにあわせて歌っていたらしい。三人は真花に気づくと、歌をやめた。それでも、あたりには陽気な歌の残響のようなものが残っている。

「先輩、来てたんですか?」

 真花は意外そうな声で言った。

「そう、来てたんだな、これが――」

 いたずらっぽく笑って、ゆずきは学校の備品らしいギターを鳴らす。

「ちょっと用事があって、たまたま音楽室に来てたんだ。そしたら小嶋と芦川が来たもんで」

「でもいいんですか? 受験勉強とかで忙しいんじゃ……」

 真花は続けて訊いた。

「そりゃ忙しいよ」

「こんなところにいて大丈夫なんですか?」

「なはは、大丈夫なわけないじゃん」

 ゆずきは陽気に笑う。つられるように、真花も笑った。それから音楽室に入って、フユもあとに続く。ドアが閉まって密閉されると、部屋の中は急に静かになったようだった。

「――さっきは何を歌ってたんですか?」

 三人の輪の中に入って、真花はその辺のイスを引っぱりだして座った。

「アヴェ・マリアを少々……」

「絶対、違いますよね?」

「〝赤鼻のトナカイ〟だよ。もうすぐそんな時期だし」

 渚が教えてくれた。

「いいですね。小学校以来です、その曲聞くの」

 歌の好きな真花はにこにこした。

「それより弓村、風邪はもういいの?」

 ゆずきは、あまりよいとはいえない真花の顔色をのぞきこみながら言った。

「一応は大丈夫です。ご心配をおかけしました」

 真花はそう言って、ぺこりと頭を下げる。

「いや、実は特に心配はしてないんだけどね」

「……先輩、そこは黙ってあわせてあげてください」

 ため息まじりに陽奈子が注意すると、三人ともいっせいに笑った。

「じゃあまあ、そんな病みあがりの後輩のために、一曲歌ってやるかな。あたしの新曲を」

「この前の、犬が蹴とばされるやつじゃないですよね?」

 渚が思い出すのさえ忌まわしそうな顔で言う。

「違う。それにあれはサザエさん的な歌のパロディーを狙ったものであって……」

「パロディーでも何でもいいですけど、シュールすぎます」

 陽奈子がげんなりした顔で反論した。

「――そういえば先輩、この前受けたっていうオーディションはどうなったんですか?」

 不意に思い出したように、真花は言った。

「……そんなのあったっけ?」

「落ちたんですね、先輩」と、渚。

「いや、結果が来てないだけだよ、うん。発表は終わってるんだけど、あたしのところには何の連絡もないんだけど、落ちたとかそんなことはないよ、もちろん。きっと郵便がどっかで滞ってるか、手違いがあったんだな」

「いつだったんですか、発表は?」と、陽奈子が冷徹に追及する。

「……一週間前」

 もちろん、落ちたのだろう。

「ふん、まあぼんくら審査員では、あたしの曲の価値を理解するなんて無理なんだよ」

「泣きながら言わないでください、先輩――」

「これは涙じゃなくて目薬だよ、小嶋」

「そんな手のこんだ仕込みはいりませんて」

 四人は他愛のないやりとりをしながら、賑やかに笑っている。

「もう認める、確かに認めますよ。あたしの送ってデモテープは落選したし、どうせあたしの作った曲なんてたいしたことないよ。鼻にも引っかけられなければ、犬も食わない。だからせめてこの新曲は、あんたたちに聞かせてやる。というか、聞いてもらう」

 やけくそ気味に言うと、ゆずきは反論は許さないとばかりにギターを鳴らした。三人ともやれやれといった感じで顔を見あわせ、けれどきちんと聴く姿勢だけはとっている。

 それから、ゆずきは例の、世界を柔らかく切り裂くような声で歌いはじめた。ギターが哀感のあるメロディーを奏でる。それは、昔大切にしていたぬいぐるみが夢に出てくるという、ほのぼのとしながらもどこか悲しい歌だった。

 真花も渚も陽奈子も、何だかんだ言いつつも真剣にその歌に耳を傾けている。確かにそれだけのものが、沢谷ゆずきの演奏にはあった。あらゆる壁を越えて、心の中にある弦を共振させるような何かが――

「…………」

 フユは横から、そんな光景をただ黙って見ていた。

 別に、何かを期待していたわけではない。音楽部に入ったこと自体、不本意な、なしくずしの出来事にしかすぎなかった。厄介事を避けるための、仕方のない措置だったにすぎない。何かを願ったわけでも、何かを望んだわけでも。

 弓村真花とつながって、渚や陽奈子と知りあって、弓村桐絵に会ったりもした。

 けれど、それだけのことだ。

 それがどうだった、という話ではない。ただ何となく、そこにいられるかもしれないと、そんな気がしただけ。雪の下に一人でブランコに座っているようなあの場所とは違う、そんなところに――

 ただ、そんな気がしただけなのだ。

 フユはまるで、透明な壁の向こう側でも見ているような気持ちで、四人のことを見ていた。彼女には決して手の届かない、その場所のことを。

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