講義が終わると、学生たちは三々五々部屋をあとにしていった。合同講義室に残ったのは、友達と昼の相談をする学生や、一人でノートの整理をする学生などである。すり鉢状になった講義室は、無用の長物めいた空虚さで建物の一角を占拠していた。昼休憩のため、次回の講義まではかなりの時間がある。

「…………」

 窓際の席、長机の端っこに座って、奈義はぼんやりと窓の外を眺めていた。周囲には誰もいない。人を待っていた。

 眼下に見える並木道を、大学の学生たちが行き来していた。寒さに身を震わせながら、急ぎ足に歩いている。冬に押さえつけられたような窮屈な格好だったが、どの人間も表情は明るい。平和そのもの、といった光景だった。

 奈義が飲み物でも買ってこようかと思ったその時、男は現れた。待ちあわせの相手である。

 東の空にかかる月を思わせるような、静謐で澄明そうな雰囲気をした男だった。多少華奢ではあったが、どこといって変わったところのないごく普通の容姿や格好をしている。けれどそこには、鏡の向こう側にでも存在しているような、変に世界から隔絶したところがあった。そのくせその瞳の奥には、厳重な金庫にでもしまってあるような強い光の気配がうかがわれる。

「ちょっと待たせたかな?」

 如才のなさそうな笑顔を浮かべて、男は言った。相手がどれだけ怒っていたとしてもそれを忘れてしまいそうな、ひどく柔らかな物腰である。

「いや、どうせ暇だったんでな」

 奈義が答えると、男は隣の席に着座した。そんな動作の一つ一つにも、どこか優雅で洗練されたところがある。

 男の名前は、牧葉清織といった。奈義と同じ年齢だが、結社の中では上部のほうに位置している。

「――講義のほうは順調かい?」

 場を和ませようとしてか、清織は話を急ごうとせずに訊いた。

「そういうあんたはどうなんだ?」

 対して奈義は、どちらかというとぶっきらぼうに訊きかえしている。いつものような、おどけたところはない。

「確か、さっきの一般教養は必須科目だったはずだが」

 二人は同じ大学に通う学生でもあった。専攻は違うが、学部は一致している。講義のうちのいくつかは重複していた。

「一般教養ならもう備わっているから、単位だけで十分だよ」

「……なるほどな」

 にこりとする清織に対して、奈義は軽く苦笑している。いつだったか、自分もフユに同じようなことを口にしたのを思い出しながら。

「お互いの学生生活に問題がないことを確認したところで、本題に入りたい。昨日、例の魔法使いと接触した」

「へえ――」

 と、清織は感心した。茶席の作法にでも倣ったような、ずいぶんと抑制されたものだったが。

「直接会って話がしたいというのは、そのことだったんだね。ずいぶんな成果だ」

「どういたしまして」

 奈義は答えながら、清織の表情をうかがう。けれどその言葉が本心からなのか、それともある種の偽装にすぎないのかはわからなかった。

「それで、魔法使いを確保することはできたのかな?」

「いや」一瞬、言葉に迷ってから、「……逃がした」

「どうして? 何か事故が起きたか、邪魔でも入ったとか」

 訊かれて、奈義は首を振って答える。

「追いつめそこねただけだ。作戦が甘かったらしくてな」

 嘘はついていない。あくまで、それは事実だった。

 清織は柔らかな仮面でもかぶったような顔で、奈義のことをうかがっている。風のない、鏡のように凪いだ水面を思わせるような態度で、その下で何を考えているのかはまったくわからなかった。

「仕方ないね。何しろ相手はの魔法使いなんだから」

 やがて、清織は言った。言葉だけなら、叱責を免除してやったととれなくもない。

「君たちのほうで何か被害を受けたりしたことはないのかい?」

「いや、特に問題はない」

「そう――」

 二人のあいだに、短い沈黙が流れた。遠くのテーブルでまだ残っていた女子学生たちが笑い声をあげる。ノートの整理が終わったらしい学生は、一人で静かに講義室を出ていった。

「一つ、頼みがある」

 と、奈義は言った。

「何だい?」

「例の、〝共鳴魔法レゾネーター〟――〝ヘイムダルの角笛〟を使いたい」

「…………」

 清織はちょっと黙ってから、言った。

「それで問題の魔法使いを捕まえられる、ということだね?」

「勝算はある。今度はうまくやるつもりだ」

「大がかりな魔法を使えば、魔法委員会に目をつけられる可能性が高い。特に君のやろうとしていることでは、その公算が大きくなる」

「それは十分、理解している」

「危険を冒してでも魔法使いの捕獲を優先すべき、というんだね?」

 奈義は黙ったままうなずいた。少し考えてから、清織は顔をあげる。

「――いいだろう。魔術具の使用を許可する」

「それはあんたの一存で、ということか……?」

「僕にはそれだけの権限が与えられてるんだよ」

 笑顔を浮かべる清織に対して、まあいいけどな、という感じで奈義は肩をすくめた。牧葉清織というこの男には、確かにそれくらいのことは許されているのだろう。子供の頃から結社で働いてきたぶん、それだけの信頼が置かれている。

「話はこれでおしまいかな? なら、僕はそろそろ行かせてもらうよ。今度は吉報を待ってる」

「――もう一つ、聞きたい」

 立ちあがりかけた清織を、奈義はそう言って制した。半分ほど浮かせた腰を戻して、清織はもう一度イスに座る。

「……何故、あんたは俺に協力する?」

 奈義は鏡の向こう側まで突きぬけてしまいそうな視線で、清織のことを見た。

「協力?」

「とぼけるのはよせ。今回のことを、は知らないんだろう? 知っていたとしても、それはあんたが都合よく取りつくろった事実でしかないはずだ」

「何のことだかわからないな」

 あくまで穏やかな態度を崩そうとしない清織に向かって、奈義は鋭い語調で言った。

「俺が気づかないとでも思ったのか? あんたが何かたくらんでいることはわかってるんだ」

「…………」

「どうして、志条芙夕を俺にあてがった?」

「――彼女は優秀な魔法使いだ。それに今回の件には適任だよ」

「ああ、確かにな。それは認める。だが本当の理由はそうじゃないはずだ。あいつが選ばれたのは、今回のことにと踏んだからだろう」

「何故、そう思う?」

 問いかえされて、奈義はふと表情をゆるめた。まるで、温かな雪にでも触れたみたいに。

「あいつには決して、完全世界は似あわない」

「…………」

「もう一度、訊く」

 と、奈義は言った。

「どうして俺に協力する?」

 訊かれて、清織は今度はまっすぐに奈義のことを見かえした。鏡の反射が、そこにあるかのように。

 静かに、月の光のような穏やかな声で言った。その光は迂遠な反射作用にすぎないにせよ、わずかにでも牧葉清織の本心をのぞかせていた。

「君は僕とよく似ている。だから君がどんな気持ちでいるかは、よくわかるんだ。完全世界を取りもどす方法は一つじゃない。そのことも、僕は知っている――ただ、それだけのことだよ。協力なんて、大げさなものじゃない」

「……邪魔するつもりはない、ということか?」

「それ以上の発言は〈悪魔試験グレイト・アビス〉に抵触するから、僕には答えられない」

 二人はまた、しばらくのあいだ黙っていた。いつのまにか、講義室からは誰もいなくなっていた。世界の片隅からさえ切り離されたような沈黙が、あたりを覆っている。

「――あんたのこと、信用するよ。例え、何をにせよ」

 辛辣さを含んだ奈義の言葉を、清織は優美な一笑で受けとめた。

「そうしてもらえると、僕も助かるよ」

 立ちあがった清織に向かって、奈義は最後に訊いた。

「もう一つ、あんたに質問がある」

「……?」

 立ったまま、清織は視線だけを奈義に向ける。

「あんたは、完全世界を望むのか?」

 奈義のその問いに、清織はしばらく沈黙を続けた。ずっと昔に書かれた、古い手紙でも読みかえすみたいに。そして、清織は答えた。

「もちろん、僕は完全世界を望んでいるよ」

 その言葉だけを残して、牧葉清織はその場から去っていった。

「…………」

 奈義は背板にもたれて、首を大きくそらせて天井を見あげる。もちろん、何の変哲もない講義室の天井には何も書かれてはいなかった。神様の言葉も、天使の伝言も。

 きっとそれを見つけるには、鏡の向こう側でも探さなければならないのだろう。

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