2
話しかけられたのは、検査室の並ぶ細い廊下を歩いているときのことだった。
「――君、真花ちゃんといっしょに見舞いに来てた娘だな?」
フユが振りむくと、そこには医者が立っている。無精髭に大雑把そうな身ぶりだが、動作そのものには機械時計みたいな正確さがあった。弓村桐絵の主治医、宮良坂統である。
「そうですけど」フユはいつもの無表情さで言った。「何か?」
「ちょっと話がしたくてね、君と。構わんかな?」
宮良坂はなめし革のような鈍い表情で言った。笑顔を浮かべているのかもしれないが、それは奥のほうに埋もれてわからなくなっている。
「構いませんけど……」
「なら、食堂のほうに行こう。今ならほとんど人もいないのでな」
そう言うと、宮良坂は先に立ってさっさと歩きはじめた。歩幅が大きいのか、動作そのものはゆったりとしているのに、進むスピードは速い。常に時間を無駄にしないよう習慣づけられた人間の歩きかただった。
ロビーまで戻ると、エントランスの横を通ってさらに奥へ向かう。オープンスペースに簡単な仕切りを施しただけの空間があって、そこが宮良坂の言う食堂のようだった。入口脇にあるガラスケースには、いくつかの食品サンプルが置かれている。場所柄のせいか、それは食品というよりは、診察での説明に使われる臓器標本に近いものに見えた。
宮良坂の言ったとおり、食堂に人の姿はほとんどない。ゆるやかにカーブしたガラスの壁面からは明るい光が注ぎ、それにそってテーブルが並んでいた。時間帯のせいかもしれないが、普段からこんなものなのかもしれない。
「ちょっと失礼するよ」
壁際に席を確保してから、宮良坂はフユに断わってカウンターのほうへ歩いていった。戻ってくると、トレイの上にサンドイッチとジュースが二つ乗せられていた。宮良坂はジュースの一つをフユの前に置くと、
「ここで唯一、まともな代物だ」
と、にこりともせずに説明した。インフォームドコンセントの一種なのかもしれない。
「そのサンドイッチはまともじゃないんですか?」
よくわからないまま、フユは訊いてみた。
「客観的に見て、まともとは評価しがたい」
さっそく頬ばりながら、宮良坂は言った。
「だが食い物であることと、栄養素であることに間違いはない。すまんね、昼からまだ何も食ってないんで、こんなものでも腹に入れておかなきゃならんのだよ」
言葉通り、宮良坂の様子に食事をとっているという雰囲気はない。ただガソリンスタンドで燃料の補給をしている、という感じだった。
「――それで、私に何の話があったんですか?」
フユが訊くと、宮良坂はもぐもぐと口を動かしながら、「弓村桐絵のことだよ」と言った。食べながらでも言葉が明瞭なのは、特殊な口蓋をしているのか、そういう訓練を受けているからかもしれない。
「彼女のことで、何か?」
「君は弓村桐絵がどのくらい悪いか、知っているかね?」
もちろん、フユに専門的なことなどわからない。心臓に穴が空いていることも、肺の血管が目詰まりを起こしていることも。けれど今日の様子を見たかぎりでは、かなりひどい状態であることだけは明確だった。
「相当、悪いみたいですが」
「あと一週間の命だよ」
ロビーから、患者の呼びだしを告げる放送が聞こえた。雲で遮られたのか、陽射しが少し翳る。宮良坂は、口の中で相変わらず咀嚼を続けていた。
「……というのは、俺の勘も含まれるがな」
トレイの上にあった、宮良坂の言うまともでないサンドイッチは、すでにそのほとんどが片づけられていた。ろくに噛んでいないせいだろう。
「それは、どの程度の勘なんですか?」
フユは言いながら、口の中が変に乾いていることに気づいた。目の前の、宮良坂が置いたジュースを口にする。まともだというその味のほうについては、フユにはよくわからなかった。
「データ的に言えば、どの数値も最悪だ。心臓の負荷を見るBNP、酸素飽和度、尿酸、血中ヘモグロビン、どれも待ったなし。いつ、急性の心不全を起こしてもおかしくない。コールドゲームの決まった野球で、さらに大量の追加点を取られるようなもんだ。人倫とルールに反している。俺の経験的には、今生きていることのほうが奇跡に近いな。神様の気まぐれみたいなものかもしれん」
宮良坂はしゃべりながら、サンドイッチの最後の一欠片を口に放りこんだ。そんな話をしながら、この医者の瞳にほとんど動揺らしいものは映らない。何度も塗り重ねた色が、最後にはすべての色を通さなくなってしまうみたいに。
「その話、真花にはしたんですか?」
「ああ、もちろん。君たち二人が見舞に来た日のことだよ。あの時に、彼女には話しておいた」
「弓村桐絵は助からない?」
フユは無表情に訊いた。
「彼女自身には生きる意志も、ガッツもあるが、もう心臓のほうが持たん。エンジンが壊れてしまえば、いくらバッテリーやガソリンが十分でも、車は動かんからな」
そう言って、宮良坂はジュースの入ったコップを手にとって、一息で半分ほど飲みほしてしまう。
「――何故、私にそんな話を?」
「友達だろう。それに君は……」
と、何かを言おうとして、宮良坂は急に口を閉ざした。トカゲの尻尾だけがうねうねと動いているような、妙な間があく。
「何ですか?」
「いや――」と宮良坂は言葉をにごした。「何でもない、忘れてくれ。歳をとると、余計な世話を焼きたくなるようになってな」
そう言って、初老の医師はネジをゆるめるようにして笑顔を作った。そういう表情もできるらしい。
「自分のことを振りかえると、ふと若者にはできるだけ後悔して欲しくないと思ってしまうのさ。痴愚というべきだな。まるで若者が何も知らないかのような態度をとってしまう」
「…………」
「人が死ぬというのは、あくまで孤独なことだ。それは我々がまったくの他人であるという事実を、あらためて突きつける。死を分かちあうことはできん」
「例え姉妹だったとしても?」
「原則的には、そういうことだな」
何か、引っかかるもの言いだった。
「あなたは、例外があると?」
フユが訊くと、宮良坂は少し間をとってから答えた。
「ああ、ある。俺はそれを知っているんだよ。目の前で見たんだ、それを」
宮良坂はそう言うと、コップに残った半分の液体を飲みほした。
「五年ほど前のことだ。あるデパートで、爆発事故が起きた。改装中の店舗から可燃性のガスが何らかの原因で漏れだした、ということだった。かなりの犠牲者が出た。覚えているか?」
フユはうなずいた。当時、まだこの町には来ていなかったが、事故のことはニュースで報道されていた。一時はテロ行為かと騒然とした状況だったのだ。
「ひどい事故だった。子供が大勢やられてな。玩具売り場が爆発の中心だった。現場にいたほとんどの人間は助からなかった。肺が焼かれて、半日ほど苦しみぬいたすえに亡くなった子供もいた。うちの病院でも何人かを担当した」
宮良坂は手を組んでテーブルに肘を乗せると、独り言のように話を続ける。
「その中に、男が一人いた。
「…………」
「子供は助かったが、男は死んだ。男の治療にあたったのが、俺だった。手の施しようがなかった。比喩でなく、体の半分ほどが吹っ飛んでいてな。結局、俺にできたのはその男の話を最後まで聞いてやることくらいだった。男は死ぬ間際まで、子供が助かったかどうか気にしていた。立派な人だったよ。子供の無事がわかると、心から安心しきっていた――」
宮良坂の話は、それでおしまいのようだった。
「……それが、孤独でない死だと?」
「誰かのために死ぬというのは、そういうことだ」
宮良坂は姿勢を直すと、眠りから覚めたような声で言った。
「それだけがおそらく、死の孤独から逃れることができる。ただ死んでいくだけより、それは数倍まともなことなのかもしれん。少なくとも伊沢政志という男の死から、俺はそんなふうに思うことができるんだよ」
※
志条芙夕が食堂から去っていくのを、宮良坂はその場に座ったまま眺めていた。
妙な娘だ、と宮良坂は思う。どんな検査をしても、彼女の内面を審らかにすることはできないだろう。透明だが、その向こう側が見えることはない。まるで永久に融けることのない氷にでも触れているような感じだった。
食堂からはいつのまにか誰もいなくなって、何か巨大な生き物の胃袋みたいにがらんとしていた。いびきのような、柔らかなエコーのかかった院内放送が聞こえる。宮良坂は肩をほぐすために首をまわした。
「宮良坂先生――」
呼びかけられ、見るとそこには結城季早が立っていた。昔、弓村桐絵の担当をしていたこともある。だけでなく、宮良坂と季早には個人的な関わりもあった。
「さっき、志条芙夕と話をしていましたね」
季早は宮良坂の隣に座ると、そう訊いた。
「何だ、見てたのか」
「いっしょに座っているところだけ。もう話は終わって、彼女は帰るところでした」
「ちょっとした老婆心、というやつだな。余計なお世話ともいうが」
宮良坂は軽く苦笑するように言った。
「――彼女には、いくつかのことを知る権利があるかと思ってな」
「何を話したんですか?」
「たいしたことではない。弓村桐絵の病状、五年前の事故、そんなところだ」
「伊沢政志のこと、ですか……」
季早自身はその男と直接は関わっていない。ただ、宮良坂から詳しい話は聞いていた。
「まったく、妙な因縁だと思わんか?」
宮良坂は片肘をついて、まるで空中の見えないダイヤルでもいじるように指を動かしている。
「彼の担当だった俺が弓村桐絵の主治医になり、その弓村の妹が志条芙夕を連れてきた。そしてかつての主治医だった君と、彼女は直接の知りあいでもある」
「ええ――」
確かにそれは、奇妙な関係性だった。そもそも何の関わりも持っていなかったはずの志条芙夕が、その中で複雑にからみあっている。
「彼女のこと、君はよく知っているのか?」
と、宮良坂は訊いた。
「……一通りのことは。しかし彼女の胸の奥に何があるのかは、僕にもわかりません。その壁の向こう側に、どんなものを抱えているのかは」
「開胸するまでは、心臓の様子はわからんからな」
つぶやくように言って、宮良坂は続けた。
「魔法だとか結社だとか、俺にはよくわからん。そいつが存在するのは認めるが、何を目的としているのかは理解のしようがない。完全世界なんてものの存在もな」
「…………」
「しかし、それを求める気持ちはわからんでもない。人にはそういうこともあるだろう。大切なものを失くしたり、壊されたりしてしまえばな」
「奈義真太郎のように、ですか――?」
その言葉に、宮良坂は無言のままうなずいた。
「妙なものだ。奈義と、あの少女が知りあいだというのはな。不可思議な関係性というしかない。偶然のいたずらか、神様の気まぐれか、魔法使いでない俺にはどうにもわかりようのない話だ」
嘆息するように言って、宮良坂は大きく首を曲げて天井を仰いだ。もちろんそれは、魔法使いである結城季早にとっても、わからないことではあったのだけれど。
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