三つめの関係
1
その日の放課後、フユは一人で市民病院へと向かった。
もちろんその目的は、弓村桐絵に会いにいくことである。本来なら真花といっしょに来るべきだったのだが、彼女は風邪で休んでいた。学校でそのことを知ったとき、フユは予定を変えてもよかったのだが、結局は一人で病院を訪ねることにした。この前のことで、勝手はわかっている。
バスに乗って、病院前で降り、自動ドアを抜けて、ロビーを歩いていく。いくつかの目印をたどって階段を昇った。三階に着くと、桐絵のいる病室を目指す。
ドアをノックすると、桐絵の返事があった。「――入るわよ」と声をかけながら、フユはドアを開ける。
病室には桐絵が一人きりでいるだけだった。具合が悪いのか、この前のように体を起こして本を読んではいない。大人しく横になって、ベッドの脇にはこの前はなかった点滴が置かれていた。鼻には高濃度の酸素を送るためのカニューラが装着されている。
そうしてベッドに横たわる桐絵の姿は、どことなく死んで地面に落ちてしまった蝶でも思わせるようなところがあった。それは痛々しいというよりは、何か見てはいけないものを目にしてしまったような感じである。
「ああ、フユか……」
桐絵は寝たままで、首だけを動かしてフユのほうを見た。ゼンマイの切れかかったような、いかにも力のない動作だった。
「こんにちは。急で迷惑だったかもしれないけど、お見舞いに来たわ」
フユはその場に立ったまま、とりあえず様子をうかがうように言った。
「……それは嬉しいな。退屈してたところだからな。そろそろ体が
フユは以前、真花がしたのと同じようにイスを取りだすと、桐絵のそばに座った。
チアノーゼが出ているのか、血の気の引いた彼女の顔色は悪い。布団の下にあるせいでわからないが、指先や爪の色も変色していることだろう。この前調子がよいといったのは、本当のことのようだった。点滴と酸素吸入がなければ、こうして話すこともままならないのだろう。
「ちょっと前から症状が悪化してさ」
と、桐絵は力なく笑った。
「これでもましになったほうなんだ。一時は意識不明の重態になってたから」
「そう――」
フユは軽くうなずく。ほかにどうしていいのかはわからない。
「真花は風邪を引いてるって?」
と桐絵は訊く。気を使ったのかもしれなかった。
「そう聞いてるわ――」
「二人して具合が悪くなるなんて、やっぱり姉妹なのかね」桐絵はおかしそうに言った。「昔から、真花が見舞いに来たあとは、症状は軽くなってたんだけどな。今回はそうもいかなかったみたいだ」
「……一人で来たりして、邪魔じゃなかったかしら」
少しして、フユは訊いてみた。
「いいや、さっきも言ったけど、退屈してたところだから。話し相手がいるのはいいことだよ。それに――」
と、桐絵はつけくわえた。
「別に真花がいなくても、私とフユは友達でしょ? 似たもの同士なんだから」
フユはじっと、桐絵のことを見つめる。けれど、彼女と自分のどこが似ているのかは、やはりわからなかった。少なくともフユに、ベッドの上でこんなにも明るく笑うことはできそうにない。
「……邪魔じゃないなら、よかったわ」
何かをごまかすように、フユは言った。桐絵は気にした様子もなく話を続ける。
「でも、今日はどうかしたの。何か用事でもあったのか?」
「――実は、あなたに渡すものがあって」
そう言って、フユはカバンの中からある物を取りだした。手の平に乗るくらいのその小さな箱を、フユは桐絵のほうに差しだす。
「これって?」
言いながら、桐絵は身を起こそうとした。けれど衰弱した体には、布団の重みでさえずいぶんな障害であるらしい。フユは手を貸して、彼女の背中を起こしてやった。ようやく姿勢を維持すると、桐絵はあらためてフユに訊いた。
「開けてもいいの?」
フユは無言のまま、ただうなずく。
包装もリボンもしていないその無機質な箱を、桐絵は開ける。指先に力を入れることさえ、今の彼女には難事業らしかった。その手はかすかに震えている。
箱の中に入っていたのは、小さなガラスの塊だった。
一見したところ、それは人の姿のようにも見える。ただその背中には、羽のようなものがつけられていた。どこか、エル・グレコの絵でも思わせるような体のねじれかたをしている。表面を酸で腐食させたらしく、白濁した光に似た、柔らかな質感をしていた。
「ああ――」
桐絵は泣き顔によく似た、そんな微笑みを浮かべた。
「これ、天使だ」
フユは夕葵からは、何も聞いていない。実のところ、現物を見るのも今がはじめてだった。けれど桐絵の言うとおり、それは小さな天使の姿にも見える。
「もしかして、夕葵さんがこれを?」
桐絵はその像を見つめたままで訊く。まるで目を離した隙に、どこかへ消えてしまうみたいに。
「本人からは、そう聞いてるわ」
簡潔に、フユは事実関係だけを口にした。
「私のために?」
「ええ」
「――――」
桐絵はそっと、天から落ちてきた光でも受けとめるようにその天使像を両手の上に乗せた。そして静かに、はじめての挨拶でもするみたいにじっとそれを見つめる。
しばらくして、桐絵はようやくフユのほうに顔を向けた。
「ありがとう。すごく、嬉しい。本当に……」
そう言う桐絵の顔には、心なしか血の色が戻ってきているようでもある。
「別に私は何もしていないわ。お礼なら、志条夕葵のほうに言って」
「夕葵さんにも感謝はしてるけど、でもこれを持ってきてくれたのはフユだから」
桐絵は何かを抱きしめるように、体を少し丸くした。
「――フユが、これを私にくれたんだ。空から星の一欠片を取ってくるみたいに」
そんなたいしたことはしていない、とフユは言おうとした。が、結局はやめておいた。その代わりにというわけではないが、気づいたときにはフユはこんなことを訊いている。
「もしも、あなたの病気を治すことができるとしたら、どうする? 完全世界の名残りを、魔法を使ってそれができるとしたら」
「……?」
桐絵は戸惑った顔で、フユのことを見つめる。それは、そうだろう。彼女は魔法のことなど知らない。けれどフユは続けた。
「でも魔法でさえ、この世界ではもう完全ではいられない。それは代償を必要とする。吝嗇な神様が、憐れな人間に供物を求めるみたいに」
「…………」
「それでも、あなたは天使に祈る? 誰かを犠牲にしてでも、自分の病気を治して欲しい、と」
桐絵は黙って、何かを考えるようだった。もちろん彼女には、フユの言うことのすべてがわかったわけではないだろう。魔法と、この不完全な世界のことについて。けれどそれでも、彼女にはフユの言葉の意味はわかっていた。
その言葉でも聞こうとするように手の中の天使像を眺めてから、桐絵はフユに向かって言った。
「わからない、私には――」
「…………」
「もしもこの病気が治るなら、もちろんそれは治して欲しい。自分の体にうんざりしたり、夜中に怖い気持ちで目を覚ましたりはしたくない――でもそのために、ほかの誰かを傷つけたり、犠牲にしたいとは思わない。だってそれじゃあ、同じことだから。それじゃあ私の病気が治ったとは言えない。もう一人の私が増えるだけだ。そんなことに、意味があるとは思えない」
答えて、桐絵は自分が転がしたボールの行方でも確かめるようにフユのことを見た。
「何で、そんなことを?」
フユは少しのあいだ黙ってから、
「昔、そういうことをした人がいた、というだけの話」
と、ただそれだけを短く答えた。
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