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弓村真花が出した条件というのは、フユが音楽部に入るというものだった。
とはいえ、フユに音楽的な趣味や素養などありはしない。そもそも、この学校に音楽部なるものが存在すること自体、フユはその時まで知らなかった。
真花に向かってそう言うと、けれど彼女は首を振って答えている。
「別にそれでいいんだ」
詳しい説明を聞くと、音楽部といってもほとんど名ばかりで、実質的な活動はしていないのだという。部員は全部で四人しかおらず、そのうちの一人は三年生で卒業が近い。残る二人は他の部との掛け持ちだった。部そのものが幽霊みたいなものに近い。
「なら、私が入っても仕方ないんじゃないの?」
フユは当然ながら、そう質問した。一抹の期待を抱きながら。もちろんそれが、花占いをする程度に儚い希望であることはわかっていたが。
「――フユが入ってくれれば、私が嬉しい。それはすごく仕方のあることだよ」
予想通りに、真花はそんなことを言った。
この少女がどうしてそれほど熱心に入部を推奨するのかはわからなかったが、いずれにせよフユに選択肢はなかった。妙な噂を立てられるくらいなら、こちらのほうがましなのは間違いない。
そんなわけで、フユと真花は放課後の音楽室にいる。今は、他の二人が来るのを待っている状態だった。三年生のほうはうまくつかまえることができなかったらしい。
「本当はそもそも、その人が作った部活なんだけどね」
と真花は言った。二人ともベランダから教室に戻って、勝手な場所でくつろいでいる。暖房がつけられているので、室内は地球の反対側みたいに暖かかった。
「
「どうしてまた、部を作ろうなんて思ったの?」
フユの口調にはどこか、それを責めているかのような響きがあった。
「何でも、思いきり音を出せる場所が欲しかったからとかで」
「……すごく私的な理由に聞こえるんだけど」
「けっこう強引な人だから、勢いと口八丁で押しきっちゃったんじゃないかな? 私とほかの二人が入るまでは、部員もいなくて一人で活動してたみたいだし」
それを活動といっていいのかどうか、疑問なところではある。
「弓村さんは、どうしてこの部活に?」
フユが訊くと、「真花でいいよ」と軽く手を振りながら、
「実のところ、私も音楽に興味があったっていうわけじゃないんだ。ただ、先輩に誘われたとき、それもいいかなと思って。楽器はともかく、歌うのは好きだったし。だから演奏のほうは今でも全然――」
その時、音楽室の扉が派手な音を立てながら勢いよく開かれ、生徒が二人姿を現していた。どちらも女子である。おそらくそれが、真花の言うほかの二年生部員なのだろう。
「ちぃっす、少し遅れたかな?」
先に入ってきたほうが、蕪雑な言葉使いで言った。
「――途中で顔をあわせたからいっしょに来たけど、遅れたのは渚のせいだから」
後ろから現れたもう一人が、丁寧に扉を閉めながら言う。叱責するような言葉のわりに、その口調には親しみのようなものがこもっていた。仲がよいのだろう。
フユはちょっと姿勢を直して、二人のことを観察する。その二人が事前に聞いていた、
乱暴に音を立ててドアを開いたほう――小嶋渚は、花びらをくしゃくしゃにまとめたような癖のある髪で、それをさっぱりと短く切っていた。いかにもざっくばらんといった感じで、ここまでの言動を見るかぎりでも、それは裏打ちされている。
そのあとから静かにドアを閉めた芦川陽奈子のほうは、渚とは対照的なたたずまいをしていた。額が広く、髪は長く、やや太めのフレームをした眼鏡をかけている。何かを思考するにしても、必ずどこか別の場所を慎重に一周してから、というタイプのようだった。
二人のうち、芦川陽奈子のほうはフユと同じくらいの背丈だが、小嶋渚のほうはそれより指三本ぶんほど背が低い。真花の話によれば、渚はバスケ部、陽奈子のほうは英語部に所属しているということだった。
「急に大事な用があるって言うから、部活休んできたけど……何、その子が新入部員さん?」
小嶋渚はまるで遠慮というもののない態度で訊いた。
「うん、そうだよ」
と、真花はいつもの調子で答える。
「この時期に入部するなんて、何か事情でもあるんじゃないの?」
特に意図してではなさそうだったが、芦川陽奈子はなかなか鋭いところを突いてきた。
「それは――」
真花が言葉につまると、
「いいじゃん、そんなの」
と渚がうるさそうに手を振っている。
「細かいことなんて気にしなくったってさ。部員が増えたほうが活動は楽しいんだし、せっかく入ってくれたんだし、歓迎しなくちゃ」
「そういうあんたは、この前部活に来たのはいつだっけ?」
陽奈子は詰問するようにしながら、どこかからかっている様子で訊いた。
「ええと……」渚は指折り数えている。「二週間くらい前?」
「十六日前だよ、正確には」
「だから陽奈子は細かいんだって。そのうち禿げるよ。それにそっちだって似たようなもんでしょ?」
「私は十日前にも来たわよ」
「そういうの、何て言うか知ってる?」
「五十歩百歩」
どうやらこの二人の仲がいいのは確かなようだった。
「――えっと、二人ともいいかな? そろそろ紹介したいんだけど」
真花は保育園児でもあやすような調子で声をかける。陽奈子の質問がうやむやにされたことには、もちろん言及しなかった。
言われて、二人はあらためてフユのほうを見る。真花は一度咳払いをしてから、
「彼女が今度新しく音楽部に入ることになった、私と同じクラスの志条さんです」
とフユのほうを手で示した。
「……志条芙夕です、よろしく」
博物館に陳列された石ころほどの愛想もなく、フユは軽く頭を下げた。
「こっちの二人は小嶋渚と芦川陽奈子。みんなクラスは別だけど、小学校時代からの友達なんだ」
「よろしく――」
と、渚と陽奈子の二人もそれぞれ頭を下げる。それから渚は教室を見渡すと、
「沢谷先輩は?」
と訊いた。
「来てない。学校でも見つけられなくて……」
真花は首を振る。
「あの人も、もうずいぶん部活に顔を出していない気がするけど?」
陽奈子は曇り空でも気にするような顔で眉をひそめた。どうせそのうち雨が降るのだろうけど、というふうに。
「そうでもないよ。この前この教室で会って、ライブするから見に来いって言われたから」
「部活じゃないじゃん」
「一応、その時に歌う予定の新曲も歌ってくれた」
「めちゃくちゃ私用じゃん」
渚がつっこむのを聞きながら、フユにはよくわからない。
「ライブって、どういうこと?」
「――ああ、そうだ。まだ言ってなかったけ」うっかりしていた、というふうに真花は言う。「ゆずき先輩は路上ライブをやってるんだ」
「路上ライブ……?」
テレビか何かでしか聞いたことのない言葉だった。天橋市のような地方都市で、しかも中学生ミュージシャンということになれば、その数はあまり多いとは思えない。
「元々、そのための練習に使いたいからって音楽部を作ったらしいんだよね」
「歌手になるのが夢だって、常々主張してる人だから」
渚と陽奈子がお互いにそんなことを言った。
(……歌、か)
フユには理解しにくい話だった。彼女には、何かになりたいという願望はない。何かになるということは、何かにさせられるということと同義だった。自分ではない誰かによって、ある種の型に矯正され、変形させられる。そんなことを、フユは望んだりはしない。
もしも志条芙夕に望みがあるとすれば、それは何にもならないことかもしれなかった。
ただ、ずっと孤独であり続けること――
「それじゃあ、ここらでちょっと音楽部的な活動でもしてみようか」
不意に渚が手を叩きながら言った。何かにつけて、音を出すのが好きな少女らしい。
「音楽部的な活動って」陽奈子は初めて聞く単語でも耳にするみたいに訊きかえした。「何それ?」
「――うん、いいんじゃないかな」
真花は同じ言葉から、陽奈子とは違った連想を得たようだった。
「そうしよう」
「……どうしよう?」
「そりゃ演奏でしょ、音楽部なんだから」
小嶋渚はそう言って、得意気に胸をはる。その様子を、おそらくは今までに何度もしたのであろう呆れ顔を浮かべて、芦川陽奈子が見ていた。真花はその横で、そんな二人をいたって平和そうに眺めている。
(――変な連中)
フユはどこか釈然としないものを覚えつつも、そんな三人の前に座っていた。
楽器の準備にはしばらく時間がかかっている。用具室からドラムセット、ベースにキーボードを引っぱりだして、アンプも用意する。それぞれ配線をつなげると、音を確かめた。
フユは机をどかして作った空間に、一人だけ観客として座っている。その前に、渚がドラム、真花がベース、陽奈子がキーボードという配置だった。ギターがいないのは、例の先輩がそのポジションであるためらしい。
「――というか、私たちはゆずき先輩に言われて無理やりはじめさせられたみたいなものなんだけどね」
指で試すように金属弦を弾きながら、真花は言う。
「この楽器も、先輩が相当がんばって予算をもらったらしくて」
「脅しでしょ、ありゃ」ドラムの位置を調整しながら、渚が言った。「二時間もねばられたんじゃ、誰でも嫌になるよ」
「それでも購入したのは全部、中古品というのがあの人らしいけど」
キーを叩きながら、陽奈子はため息らしきものをついた。
やがて準備が終わったらしく、三人が目をあわせる。陽奈子がまず和音を奏で、渚が静かにシンバルを鳴らした。真花のベースはそれにあわせて、音楽に厚みを加えていく。
ボーカルはいなかったが、それが何の曲かはすぐにわかった。誰もが知っているような、有名な洋楽曲である。単純だが印象的なメロディーが、眠っているあいだにどこかから聞こえてくるみたいに、ゆっくりと何度も繰りかえされる。いくらかアレンジはされているが、もちろん原曲のイメージはそのままだった。
丁寧に幕を下ろすみたいに最後の音が奏でられると、曲は終わりだった。室内はふと我に返ったみたいに静かになっている。三人とも、演奏にはそれなりに満足そうな様子だった。
「どうだった、今の?」
と、真花は明らかな期待をこめて訊いた。
「……よかったんじゃないかしら」
どうと訊かれても、フユには特に感想らしきものはない。少なくとも何の曲かはわかったし、演奏がたどたどしいわけでもなかった。けれど、それだけである。
「やっぱり、先輩がいないとダメなんじゃないの?」
渚がスティックをゆらゆらさせながら言う。まだ叩きたりない、という感じだった。
「……まあ、私らがまともに演奏できるのはこれだけなんだけど」
それから楽器を片づけてしまうと、四人は丸くイスを並べて座った。話によると、音楽部の活動は普段からこんなものらしい。気が向いたら楽器の演奏をして、あとは適当に雑談をしている。まじめに練習をしたのは、先輩に叱咤されて今の曲を覚えたときくらいだという。
「何せ、肝心の先輩がなかなかよりつかないんだからさ」
と渚は磊落そうに笑った。
空気をくすぐるような暖房機の音が響くなかで、四人は話をした。三人の会話での役割というのは大体決まっていて、陽奈子は間違いを指摘したり、辛辣に注意したりし、渚はまぜっかえしたり、からかったりする。真花がそんな二人をなだめたり、たしなめたりする、という感じだった。
フユはとりあえず、訊かれたことには答えるが、それ以外は概ね黙って話を聞いている、という態度で過ごした。
話ははじめ、つい最近の期末テストや、渚と陽奈子の部活でのことについてだったが、そのうち話題は不意に、フユの母親である志条夕葵のことに移っている。
「有名なガラス造形作家なんだよ」
と真花が紹介すると、渚は首を傾げた。
「それって、コップとかお皿とか作ってるってこと?」
「あの人が作るのは、そういう日用品よりは芸術作品みたいなものが多いと思う」
フユは母親のことを「あの人」と呼んだが、三人は特に疑問には思わないようだった。
「そういえばこの前、テレビで小さな虫をガラスで作ってる人とかがいたけど……」
陽奈子がうろ覚えな様子で言うと、
「たぶんそれは、バーナーワークというやつだと思う」
と、フユは指摘した。
「ガラス管をバーナーであぶって溶かすものだけど、あの人が主にやっているのはキルンキャストというやつね」
「きるんきゃすと?」
渚は話しについていきかねるような顔をした。
「ガラスを成形するときの、いくつかの技法のうちの一つ。キルンというのは、電気炉のこと。この場合は、まず石膏やロウで型を作って、それを利用してガラスを電気炉で溶かし、型にはめる。ガラス工芸で一番よく知られているのは、宙吹きというやつでしょうね。例の、筒の先にガラスの塊をくっつけて息を吹きこむ方法のことよ」
「さすがに詳しいのね」
陽奈子が素直に感心した。
「……別に。ただ時々仕事をしているのを見るから、それで覚えただけ」
言いながら、フユはかすかな戸惑いを覚えていた。
どうしてわざわざ、自分はこんなことをしゃべっているのか。ここにはただ、弓村真花の取り引きのためだけにいるはずだった。無理にこの三人と会話をする必要はない。いつものように、適当な無関心さで受け答えをしていればいいだけなのだ。
けれど――
それにもかかわらず、フユは何故だか話を続けている。訊かれた以上のことを、いつのまにか口にしていた。
フユはそのことに、自分でもよくわからない苛立ちを覚えている。ジグソーパズルのピースに一欠片だけ別のものが混じってしまったような、そんな。
窓の外にはいつもよりずっと早い、冬の夕暮れが迫りつつあった。
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