二つめの関係

 コンクリートのベランダには、一匹の猫がいた。

 白地に黒の斑紋の入った猫である。首輪はしていない。少しやせて、毛並みも全体に健康的とはいえなかった。野良猫なのだろう。

 そのせいか、その猫はひどく険のある目つきをしていて、お世辞にも可愛らしいとはいえなかった。月の裏側にでも放擲されて、凍えるような孤独を一人で生きてきた、という感じでもある。

「可愛いでしょ?」

 どこをどう引っくりかえしたのか、弓村真花はそんな野性味あふれる猫に向かって、にっこりと笑顔を浮かべて言う。

 音楽教室の外にあるベランダには、フユと真花の二人しかいなかった。時刻は放課後で、授業はもうとっくに終了している。校舎の向こうにある運動場から、遠い喚声の気配が伝わっていた。飛行機が低空を飛ぶ、空を壊すような音が聞こえる。

 真花はベランダの敷居のところに腰かけて、フユは隣に立ってそれを見おろしていた。開いたガラス戸からは、誰かが直接息を吹きかけているみたいな冷たい風が入りこんでいる。

「ここ、この子の散歩コースになってるみたいで、時々見かけるんだ」

 猫はよほど真花のことに馴れているらしく、手で触れられても逃げようとしない。彼女が首の下をさすってやると、気持ちよさそうにのどを鳴らした。甘えているわりに、何故かそこには愛嬌といえるほどのものは存在しない。

「……どんなふうに生きてきたか、目に見えるようね」

 そんな感想を、フユはもらした。試しに手をのばしてみると、猫は鋭い目つきで睨めつけてきている。そういえば昔、こんな猫を何匹も捕まえたことがあったっけ、とフユは思い出していた。

 峻厳な世界に生きてきただけあって、誰を信用すべきがわかるのだろう。猫は真花の膝の上にのぼると、そこで丸くなって目をつむった。真花は嫌な顔一つせず、その体を優しくなでてやる。ペットというよりは、母親が子供にするみたいに。

「この子の名前、プドレンカっていうんだ」

 と、彼女はフユのほうを見て言った。

「プドレンカ?」

 妙な名前だ。どちらかというと、シャチとか青ひげとかのほうがこの猫には似あいそうな気がする。

「この子はね、永遠に死なないんだ。この子がいなくなっても、次のプドレンカが必ず生き残る。そして世界に復讐でもするみたいに、その一族を増やしていくの」

「何だか変な話ね」

 フユは顔をしかめた。

「うん――チェコでは、猫がのどを鳴らすのを〝糸車を回してる〟っていうんだって」

「チェコ?」

 けれど真花はにっこり笑ってみせるだけで、その話はもうおしまいのようだった。

 猫は相変わらず、彼女の膝の上で幸福そうに丸くなっている。白と黒でできたその柔らかな塊は、孵ることもなく永遠の眠りにつく卵か何かみたいにも見えた。

「――私ね、昔猫に助けられたことがあるんだよ」

 真花は急に、そんなことを言った。

「いつのこと?」

「小学生くらいの時。山の中で道に迷って、どこを歩いてるのかわからなくって。すごく心細くて、怖かった」

 その時のことを思い出すように、真花は声を低く沈ませた。

「みんなとはぐれて、誰の声も聞こえない。まわりは耳が痛いくらいしんとして、空だけが時々梢の向こうに見えた。草むらの陰に何が潜んでるのかわからなくて、風で木が揺れるたびに体がびくって震えた。もうみんなのところに戻れないんじゃないかって、何度も思った」

 猫がその三角の耳をぴくぴくと動かす。けれどあたりに不審な気配はなかった。もうとっくに消えてしまった物音にでも耳を澄ましているのかもしれない。

「その時にね、猫が一匹現れて道案内してくれたんだ。嘘みたいだけど、本当にそうだったの。前を歩きながら、時々振りかえってついてきてるのを確かめたり。みんなのところに戻ったら、猫はもういなくなってた。まるで最初から、どこにもいなかったみたいに」

 真花はそっと猫を抱き起こして、膝の上から降ろしてやった。猫は挨拶でもするみたいに一声鳴くと、質量を持った白い影みたいな足どりで去っていく。

「だから今でも、猫を見るとあの時の猫かもしれないって思うんだ。私を助けてくれた、永遠の猫」

 にっこり笑うと、真花は言った。

「――寒いから、そろそろ中に入ろうか」

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