翌日、放課後になってからの帰り際のことだった。

 フユは玄関で靴を変えようとしているところを、弓村真花に呼びとめられている。その時ようやく、フユは昨日、彼女の話が途中だったことを思い出していた。

「……志条さん、ちょっといいかな?」

 真花の態度は、あくまで遠慮がちだった。昨日はフユのほうが一方的に話を断ち切っていったのだから、彼女のほうには不服を言う権利があるはずだったが、そんな気配は微塵もうかがえない。たぶん、性格なのだろう。

「昨日のこと?」

 フユはそう思いながらも、普段と同じそっけない口調で言った。こちらも、性格なのだろう。

「それもちょっとあるんだけど、でも今日は別の話」

「……帰りながらでいいのかしら?」

「うん、私はバスだから途中までだけど」

 フユがうなずくと、二人は並んで玄関の外に出た。あたりには昨日と同じように、三年生の姿が多かった。フユは嫌な予感がしたが、さすがに今日は校門のところには誰の姿もない。

「昨日の人、いないみたいだね」

 隣で、真花はそんなフユの心を読んだかのような発言をする。といってその表情はごくまじめで、からかっているそぶりはない。

「――昨日、途中になった話をするんじゃないの?」

 その点については質問されたくないので、フユは自分から話題を振ってみた。けれど、

「ううん、それはまた今度で。今日は、実は志条さんに聞きたいことがあるんだ」

 フユはさっきとはまた別の、嫌な予感がした。

「昨日の人、志条さんの知りあいだよね?」

 と、真花は訊く。

「不本意ながら、ね」

 ああまでしたあとに、知らないとは言えない。

「親戚の人か何か?」

「私にもよくわからないわね、その辺のことは」

 真花はそんな答えにも、特に不満は持っていないようだった。人としての度量が広いのだろう。

「……実はね、昨日駅の近くで志条さんがあの人といっしょにいるところを見たんだ」

 フユは何も言わなかった。嫌な予感が、風船に空気でも入れるみたいに大きくなっただけである。

「それでね、悪いとは思ったんだけど気になってあとをつけさせてもらったんだ。けど最初からそのつもりだったんじゃなくて、駅に行ったのは先輩に呼ばれたからだったんだけど、でも何だかどうしても気になっちゃって、つい――」

 言い訳っぽく、真花は早口でまくしたてている。

「……それで?」

 半分諦めたように、フユは訊く。こうなった以上、話はすべて聞くしかなかった。ただごみ箱の蓋を閉じるだけ、というわけにはいかない。

「うん、見つけたのは駅の裏口で、あとをつけたのはそこからだったんだけど。坂道にさしかかったところで、見つからないように先まわりしようとしたの。えと、そこで」真花は言いよどんだように言葉を切った。「――変なものを見たんだけど」

「…………」

 フユは無言で歩き続けた。真花は叱られた子供みたいにその横をついていく。実際には、その立場は逆ではあったけれど。

「あのね、交差点にトラックが走ってきてね、その右の坂道から自転車が駆けおりてくるの。で、お互いに気づかないままもうすぐぶつかる――っていうところで、トラックのほうが急に見えない壁にでもぶつかったみたいに方向を変えて、自転車とは衝突せずにすんだの」

 交差点で二人は立ちどまった。信号は赤だった。

「それでね、そんなつもりはなかったんだけど、二人の話してるのを聞いちゃったんだ。ちょうど私のいる近くに来たもんだから。悪いことだとは思ったんだけど」

「…………」

「話してることはよくわからなかったんだけど、一つだけ気になることがあったんだ」

 弓村真花はそして、フユが感じた嫌な予感を正確に、適確に実現した。

「――魔法がどうとかって、二人とも言ってた」

 信号が青に変わる。けれど二人とも、その場から動こうとはしない。やがて光が点滅して、また赤に変わった。

「あの時、自動車をどうにかしたのって、やっぱり志条さんなの?」

 フユは観念したよな、居なおったような態度で口を開いた。

「だとしたら、どうなの?」

 真花はちょっと、珍しい星でも見るような目をしている。

「このことを言いふらされたら、志条さんは困るかな?」

「……脅すつもり?」

「ううん、これはだよ」

 弓村真花はそこでいつも通りの、けれどどこか底の知れない笑顔を浮かべた。いじわるな天使か何かが、人間の儚い願いを聞くときのように。

「私はこのことを誰にも言わない。その代わり、志条さんには――部活に入ってもらう」

「部活?」

 まるで聞きなれない単語か何かみたいに、フユは復唱した。

「そう、部活。私と同じね」

 真花はあくまで、無邪気に笑っている。

「……それで、昨日のことは黙っているの?」

「もちろん」

 そしてもちろん、フユに選択肢はない。

「わかった――」フユはそっと嘆息した。「あなたのほうが、それでいいのならね」

「よかった。志条さんが入部してくれて嬉しいな、私」

 どういう少女なのか、彼女は本気でそう思っているみたいだった。たった今、脅迫まがいの行為をしたばかりとはとても思えない態度である。

 信号が青に変わって、真花は歩いていこうとした。フユのほうは別に、横断歩道を渡る必要はない。二人が別れようとしたとき、真花はふと気づいたように振りかえって声をかけた。

「――あのね、志条さん」人目をはばかることもない大声だった。「私、志条さんのこと、フユって呼んでもいいかな?」

「……好きにすればいいわ」

 フユはもう、ため息をつく気にもなれなかった。ずっと昔に、ある少女から同じようなことを提案されたことを思い出しながら。

 弓村真花は大きく手を振ると、雲一つない空に輝く太陽みたいな笑顔を浮かべて、そのまま行ってしまった。フユは賭けに負けてしまった北風のような表情で、それを見送っている。

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