第七話 寄り道の終わり
買い物、買い食い、ぶらぶら街歩き。
念願が叶い、エナは幸せの絶頂だった。
夢にまでみた光景。エナはふわふわと、自分の身体が軽くなってふんわりと飛んでいきそうな心地に包まれていた。
もう、死んでも良いとさえ思う。
やりたい事は、できた。
やりたくない事をしなければならない場所には、もう二度と戻りたくない。
「さあ、帰りますよ」
楽しい時間はあっという間。
オープンテラスのカフェでシュークリームとコーヒーを食べ、クリームの甘さにひたっていたエナは、ノインの冷淡な声で冷たい神殿を思い出した。
「……い・や」
半分くらい残ったコーヒーカップを両手で持ち上げ、俯いたまま口をつけながら、エナは小さく言った。
シュークリームはもう食べてしまった。残ったのは、苦いコーヒー。お砂糖もミルクも入っていない、真っ黒な液体。
ごくりと飲むと、くるくるさっきまでの甘い気持ちと、この黒い液体が混ざっていくようで、楽しい。わくわくする。黒が勝てば、それはやはり絶望なのか。苦いのが絶望ならば、お腹の底に残った甘い感覚は、なんだろう。希望? 希望とは、どういう状態か。
ここから一人行くあてなど、どこにも、何もないのに。
「無駄です、私はあなたを絶対に連れて帰ります」
そもそも、いくら口で反抗したって、物理的にエナはノインに敵わない。
「……」
ごくごくと、残ったコーヒーを飲み干す。
黒が甘い感じを覆う。
甘い感じ。色を付けるなら、白っぽい黄色だろうか。さっき食べたシュークリームのクリームの色。甘すぎず、こってりもしてなくて、ちょうど良い感じ。
混ざり合えば、それは絶望と希望が混ざったものになるのだろうか。
真っ黒な絶望ではなく、柔らかな希望でもなく。
そのどちらでもないもの。
絶望と希望の間。
普通、日常。
しかし、エナにとっての日常はいつも仄暗い。このクリームのような甘さを、ほとんど感じた事がなかった。
ならば、混ざりあう必要はない。
希望は希望、絶望は絶望。
真っ黒な絶望の中でも希望があると知れば、希望を信じて耐えられる。
「無駄じゃないですよ、お嬢さん。帰りたくないのなら、私とお喋りしていきませんか? 多分、話が合うと思うんですよねー」
女が唐突に、馴れ馴れしく話しかけてきた。
へらへらと、軽薄な笑みの似合う旅装束の女だ。
巡礼者だろうか、勧められてもいないのに空いた椅子に座った。そしてテーブルの上に手を組んで顎を載せ、にこにこと満面の笑みで、エナに向かって言った。
「可愛い巫女様ですね、そんなに急いで帰らなくても大丈夫ですよ。ね、痛いのにも慣れたでしょう? 痛みに慣れる事は無いって言いますが、痛いのは変わらなくても、我慢できるようになりますよねー、終わりが見えれば、更に頑張れますし!」
「……貴様、」
エナが答える前に、かたんと、小さく音を立ててノインが立ち上がった。手は腰の剣に添えられている。
「おっと、物騒なのは人気のない場所でお願いしますよ。神官騎士と斬り合いを演じたら、次の日から街を歩けませんから♪」
驚いて目を丸くするエナに対して、女は笑みを崩さない。
「無用な心配だ」
「私に明日は無いですか、酷い子だなぁ、たった一人の血を分けた姉妹なのに」
「……そうなの?」
ノインと女を、交互にエナは眺めた。
二人とも茶色の髪に、蜂蜜色の瞳。珍しい色ではない。
瞳はノインが切れ長で、女はへらへらしているためか、垂れ目。髪はノインの方が短くて、真っすぐさらさら。女はふわふわとしていて、緩く括っている。
「あんまり似てないでしょ? 一応双子なんですけどね、私の家系は似てない双子で有名なんです」
「??」
「まあ、こうして会うのも初めてですし、本当なら会う必要もないんですがね、なんだろうな……うん。会えて良かったですよ」
女は一人、納得して肯いている。
エナにはさっぱり話が見えない。ノインならば、この女の人が言っている事が分かるのだろうか。
腰の剣に手をかけたまま動かないノインを見ると、ノインはいつもの無表情で女を見つめている。
「……貴方は、どうして笑っていられる」
やっと口を開けば、それはかすれ声。
「私はとても笑えない。面白いとも楽しいとも嬉しいとも思えない」
「馬鹿だなぁ、妹よ!」
「私達は、双子、」
ノインの言葉を遮り、女は肩を竦め、組んでいた腕を崩してやれやれといった調子で言い始めた。
「私の方がなんか人として成熟してるっぽいので、私が今からお姉ちゃんです! 敬いなさい、妹よ! 姉からありがたい言葉を授けましょう。よく聞きなさい、身体と心はつながっています。笑ってれば、楽しくなくても楽しい気分になるんですよ。笑いは力になります、だから、悲しい時もむかつく時も、笑いなさい――笑えば、楽しいですよ」
最初、女は芝居かかった調子で大げさに大声で、笑顔で言った。しかし最後の一言は、言葉に出来ない薄気味悪い迫力がある。ぞわりと、エナは初めてこの女を怖いと、思った。それまでは強引で図々しいだけの、陽気な人だと思っていたけれど。
「笑った所で、痛みが消える訳じゃない。憎しみが消える訳じゃない。けれど、楽しいですよ。だから妹よ、笑いなさい。折角生まれてきたんです、楽しまないと損ですよ」
「……私は、」
「そこまでだ!!」
野太い男の声が、姉妹の会話を邪魔する。
「巫女から離れろ、異教の者よ! 神官騎士よ、何をぼんやり突っ立って居る!? そやつを早くひっ捕らえよ!!!」
わらわら。
神殿の兵たちが集まってきた。
流石に長居しすぎたようだ。辺りからは悲鳴が上がり、人々はその場から離れ、エナとノインと女の周りには、誰も居なくなった。
寄り道は、これで終わり。
「無粋ですねぇ、子供の道草ぐらい、可愛いもんじゃないですか。ちゃんと待っててあげたら良いと思いますよ。ほら、やれって言われたら誰だってやりたくないでしょ? まあ言われる前にしろよって話かもしれませんが、でもね、そこをあえて見守ってやるのが大人の役目と言いますか、」
女はよっこらせ、と、席を立ちながら、べらべらしゃべる。
「おまけに一応感動の姉妹の対面なのに……本当に無粋ですねぇ、教会の人間は」
人ならざる者の威圧感。
女はエナの方を向いていない。兵達の方を見ている。なのに、エナは怖くなった。女は怒っている。女の怒りは、大気を震わせた。
「やれっ!」
兵士の掛け声と同時に、ノインは女に切りかかった。しかし見えない壁に阻まれ、振り上げた剣は不自然な場所で止まり、女はその隙に易々とエナを担ぎあげた。
「っ、」
「大人しくしてて下さいね、巫女様。ちゃんと良い所連れて行ってあげますから」
女に担ぎ上げられた瞬間。
不思議と、嫌な感じはしなかった。怒りの空気はふんわりと消え、柔らかな暖かさに包まれた。女の服からも、干したてのお日様の匂いがして――エナの目から涙が零れた。胸が締め付けられて、心臓が痛い。懐かしいような、寂しいような……この感情を、人は郷愁と呼ぶのだろう。
女は跳躍する。
とーんと跳ねて、屋根から屋根へと、まるで本で読んだ怪盗のように。
「今日は、」
女はぽつりと言った。
「死ぬには良い日ですね。良い天気だし妹にも会えたし、引き継ぎもやったし……」
しんみりとした声で、エナに言うというよりは、自分自身に確認してるようだ。
今日死ぬには良い日。
どこかで聞いた言葉だ。
物語の中で、勇ましい戦士たちが上げる雄々しい言葉。生きる為に全力を尽くすための言葉。
「……神殿は、やっぱり綺麗ですね。見えますか?」
やがて、女はひときわ高い建物の上で足を止めた。
よっこらせ。
担ぎ上げらていたのが、女は器用にエナの身体をずらして、お姫様抱っこの状態に。
夕日に染められて、白い神殿は赤くなっていた。いつも、中から見ていた
「……なんか、腹立ちますね。あーやだやだ、妬みって嫌ですねー」
女は独り言が多い。
「隣の芝生は青いってねー、昔の人は上手い事を言うもんですわ。本当、他人は無い物全部持ってるように見えて……あー眩しい」
女はエナを下して、神殿をまじまじと見据えた。
手で右手で庇を作って、左手は腰に。
「……私を離して、良いの?」
そろりそろりと、女から距離を取りながら、エナは尋ねた。
ここは高い建物の屋根の上で、エナ一人では降りれそうはない。しかし、降りれはしなくても大声を出して助けを求める事ぐらいはできる。
「言ったでしょう、良い所に連れて行ってあげるって。私の行きたい所と、貴方の行きたい所は多分、一緒ですよ」
「……わたしは、」
「私はね、この世界から別の所に行きたいんです……こんな場所、大嫌い」
女は神殿に目を向けたまま、独り言のように言った。
言葉は嫌悪に満ちていても、女の表情はひどく穏やかだ。優しげでもある。
「ね、一緒に行きませんか?」
振り向き、差し出された手。
夕日の陰になって女の表情はよく分からないが、口元が微笑んでいるのは良く分かった。その微笑みは優し気で、初めて会った時の軽薄な笑みとは違った。
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