外章 大切な思い出
第二章外伝 大切な思い出
思い出/0
なんで、泣いているの。僕は大丈夫だよ。お願い……泣かないで。
僕は、君と一緒にいられただけで、幸せだったのに。
泣かないで……僕のために。僕なんかのために、君は泣かないで。
「辛いのですね?」
辛くないわけないじゃないか。僕の、大切な人が泣いているんだよ。
「でも、
君にはわからないのかい?
彼女は泣いているよ。心が、泣いているんだ。ほら見てごらん。
「……?」
まだ彼女は……僕を忘れてくれていないんだ。
「どういう意味ですか?」
ドアを見ると、彼女は半開きにして外に出て行った。
「わかりません」
いいんだ。
君にわかるわけがないんだよ。でも、でもね。僕のことを癒してくれるというのなら、どうかわかっておくれ。
「……?」
あはは。君は、可愛いね。なんとなく僕に似ているよ。僕の性格とかじゃなくて、種族的にね。
「種族、ですか?」
そう、種族だ。
ごめんね。君にこんなこと言うのは、失礼かな? 君は……。
「そんな……あなた様と私如きが同じなどと……」
自分のことを、〝如き〟なんていう言い方、僕は嫌いだ。
君は君だよ。僕と比べたらいけない。僕は……。
「あなた様は……」
たった千数年生きただけの、猫という生き物なんだよ。
思い出/1
癒し神が樹の家に来たのは、この〝猫〟に呼ばれたからだ。白と茶の毛色、尻尾はすらっとしていた。
「君が癒し神? へぇ……なんか頼りないね」
その猫は開口一番そう述べた。
彼は千数年……いや、彼が覚えているだけで千数年なだけで、本当はもっと長く生きていたのかもしれない。
「まぁ……僕は〝君じゃなくてもいいよ〟。例えば、そうだね。君のことを〝親〟のように見つめているちゃんとした〝女神〟でもいいんだけど?」
彼は笑っているように見える。
まるで、この癒し神を名乗る少女をからかうように……試すように。
「私に、あなたの心を癒させてください」
少女は迷わす彼の言葉に応えた。
満足したように彼は頷くと、「じゃあ、これからお願いね」と言って、ベッドの上で丸くなった。
「とりあえず、彼女が帰ってくるまで僕は寝るよ。おやすみ、癒し神」
くぁっと大きくあくびを彼はすぐに眠りについた。
思い出/2
「あんた……どこから入ったの?」
樹の言葉に、癒し神は大層驚いた。
朝に自分の姿は見えていないはずだったのに、今は自分の姿が見えているのだ。しかし、癒し神は理解していた。〝何か〟があったのだろうと。僅かな間で、癒しを求めるほどの何かが。
「私は癒し神です。あなたの心を、癒させてください」
「私を?」
癒し神は首肯した。
「んー……」
どのような心持ちかはわからないが、彼女は癒し神の頭を優しく撫でる。
「あぅ」
わしゃわしゃと彼女は更に頭を撫でた。
「触れる……へぇ、幻とか見間違いとか、そういうのじゃないんだ」
しばらくそのようなことをされた。
「あはは、可愛いじゃんあんた」
そして彼女は癒し神を抱きしめた。
「あぅ」
「あぁ、ごめんごめん。で、なんだっけ?」
癒し神を腕から解放すると、癒し神は頭をぷるぷると振った。その行動を見て、彼女はくすりと笑った。しかし、すぐにその笑みは消えてしまった。
「あ……」
癒し神の瞳には、少女の悲しみが映っていた。それは彼女の胸の前でぼんやりと青く渦巻いていた。
「あなたの心を、癒させてください」
癒し神の一言に、彼女は一笑する。
「何それ、変なの。私は大丈夫だよ」
癒し神の頭を、再度撫でながら彼女は言った。
そんな彼女を見て、足元にいる猫は彼女にすり寄って顔をじっと見た。
「あなたは、泣いていますよ」
猫が癒し神を見た。癒し神は彼女をじっと見つめていた。その瞳はまっすぐに向けられている。その視線に彼女の体は僅かに強張っていた。
彼女は自分の頬に手をやると、苦笑した。
「もう、何言ってるのさ?」
そんな彼女の言葉に、癒し神は首を傾げた。先程ま渦巻いていた悲しみはいつの間にか消えていた。それが不思議なのか、少女はほぼ無意識に彼女の頬へと手を伸ばした。
「手、冷たいね……」
彼女は癒し神の手を握る。その時の彼女の顔は、どこか物悲しそうであった。しかし、それでもあの悲しみは現れることはない。
「あなたは本当に、神様なの?」
その言葉に癒し神ははっとする。
「私は、神でも人でもありません。私は、ただ〝神〟という名前があるだけです」
「えーっと……とりあえず、不思議な存在なのね?」
「……はい」
よくはわかっていないが、癒し神は頷いた。
「はは! やっぱりあんた面白いね!」
彼女は笑って立ち上がる。
「まぁ私はあんたが言う癒しは必要ないよ」
そのまま衣服を脱ぎ、彼女は着替えを始めた。それを黙って、癒し神は見つめる。
「ご飯用意してくる。あんたも食べるでしょ?」
癒し神は頷いた。彼女はそれに返事はせずに、微笑みを向けただけだった。
そしてそのまま部屋を出て行った。完全に閉められていないドアを見つめ、癒し神は僅かに目を伏せた。
――樹はね、僕がここに暮らしていたときからあんな風にしてるんだ。
彼はドアに体を擦り付けた。
「何故このようなことをあの方はするのですか?」
――僕が通るために開けてくれているんだ。もう僕はいないのにね。
そう言うと、彼はベッドの上へとひらりと乗った。
――僕は少し寝させてもらうよ。
――あぁ、それとね。樹はきっと、自分の傷に気付いていると思うよ。彼女は賢い子だからね。
「……そうだったら、いいですね」
半開きのドアが開いた。
手に盆を持ち、彼女はテーブルの上にその盆を置いた。
癒し神は彼女を見つめた。本当に彼女は自分の傷に……癒しに気付いているのだろうか。
彼女のその笑みは、どこかあの〝女神〟のように見えた。何故似ていると思ったのだろう。彼女と〝女神〟とでは何もかも違うというのに。
「どうしたの?」
「いえ、何でもありません」
彼女は癒し神の返答に首を傾げた。
「ま、いいか。ほら、食べよ」
彼女は少女に箸を渡すと、夕食を食べ始めた。癒し神は彼女の真似をして手を合わせると、少しずつ夕食に手を付けていった。
やがて器が全て空になると、彼女は部屋を出るとすぐに自室へと戻ってきて、机へと向かい本を広げ、何かを書き始めた。
癒し神はじっと彼女の背中を眺めた。
ベッドの上では猫が静かに眠り、かりかりという彼女が何かに鉛筆を走らせる音のみがする。それが、癒し神にとっては心地よかった。穏やかなその時間に彼女はいつしか眠気を覚え、微睡み始めていた。
「寝よ」
ふと気付くと、頭に誰かの手の感触があった。それが自分の頭を撫でているということに、癒し神は少しして気付く。重い瞼をゆっくりと開く。
優しい微笑みを浮かべている誰かがいた。その微笑みは驚くほどこちらに安心感を与えていた。まるで〝母〟と呼ばれる存在の笑みのようで、癒し神は安心してまた瞼を閉じる。
「可愛いやつ」
ふわりと自分の体が浮いた。体全体に他人の体温が伝わる。すぐに、柔らかいどこかに体を下ろされる。
「おやすみ、癒し神さん……」
瞼の裏から見える、明かりが消える。
「お……かあ……さ」
癒し神の呟きは、誰にも届くことはなかった。
思い出/3
――ねぇ、樹。泣かないで。
猫の声で、癒し神は目を覚ました。
――泣かないで……。
「どうしたのですか?」
癒し神は体を起こした。
――僕のために、泣かないで。
猫は泣いている。
猫は彼女の顔を悲しそうに見つめいてた。
――僕は君のことが……
猫は癒し神に気付かない。
瞳には僅かに涙が溜まっていた。
――樹。君にはきっと、僕の声も想いも届かないけれど。
――僕は、君のことが……。
そこまで話すと、ようやく猫は癒し神へと振り向いた。
――ごめんね。ちょっと、樹と話をしていたんだ。
軽い身のこなしで、彼は窓の前へと移動した。
――おいでよ、癒し神。
癒し神は頷いて、ゆっくりとベッドから抜け出す。
カーテンは閉まっておらず、月光が二人を優しく照らした。
「あなた様は、何故〝命〟を選んだのですか?」
数千年生き続けた猫。〝神〟へと昇華されることを許された誇り高い〝命〟。それを彼は捨てた。選択を迫れたときに彼は、このまま〝生物〟として死ぬことを選んだ。
それがどれだけ愚かなことか。彼は生物が望む死の超越をあっさりと捨てたのだ。
――その話、どうして知ってるんだい?
黄色い瞳が鋭く癒し神を睨むように瞬いた。
「女神様からお聞きしました」
彼を癒してくださいますか? 〝神〟として生きることを望まず、〝生物〟として死を選んだ誇り高い彼を。
女神はそう言って、癒し神をここに遣わした。
――あの子も……あの女神も、余計なことを言うものだね。
彼は瞳を月へと向けた。
「私には、わかりません。死なないことは良いことではないのですか?」
――どうしてそう思うのさ、君は。
彼は変わらず月を見つめていた。それが、どうしてだろうか。彼の優しさだと癒し神は思った。
そして決心して、癒し神は全てを彼へと話した。
自分が人間であり女神に拾われたこと。自分がどれだけ無為な生を過ごしていたかを。どれだけの人を殺め、無様に生き延びたかを。
――そっか。君は、人でも神でもないんだ。
「はい」
――ははは。面白い。あの女神はだから君を僕のところに寄越したんだ。ははは。なるほど、確かに。
「何が面白いのですか?」
彼は癒し神に顔を向ける。
――それは秘密。でも一つ教えてあげるよ。僕が生物を選んだ理由。
癒し神は彼と向き直る。
――僕はね、彼女と同じでありたかった。樹と同じく生きたかった。ただそれだけだよ。神になって彼女と別れない選択もあったのだろう。でもね、それじゃあ僕と彼女は違う存在になってしまうんだ。彼女と同じく……彼女がいずれ辿る〝死〟を知らないといけないと思ったんだ。僕は、彼女と一緒が良い。生きるのも、死ぬのも。
彼は泣いた。それを隠すように、月を見た。
癒し神も、月を見た。大きな満月だ。
「同じく……ありたい」
そう癒し神は呟いた。
「嫌……ゆ……め」
彼女が、ぼそりと何かを呟いた。それでも二人は月を眺めていた。
「も……い……寝……」
その呟きは徐々にはっきりとしていく。
やがて少女はベッドから体を起こした。
「あんた、何してんの?」
ゆっくりと、癒し神は彼女へと顔を向ける。
「月を……見ていました」
癒し神は答える前に僅かに彼へと視線を落としたが、すぐに彼女へと向け直す。
「あ、カーテン閉めてなかったっけ」
彼女はベッドから降りて癒し神の左隣へと腰を下ろした。
「あ……」
今まで右隣にいた彼が、ふわりと彼女の膝へと乗って体を丸めた。
「ん? 何?」
「いえ」
少しの間、二人は月を眺めていた。相変わらず綺麗な満月であった。周りには星がちらほらと見える。
「私、さ。猫を飼ってたんだ」
ぽつりと、彼女は語り始めた。
「ニャーって名前なの。私が産まれてこの家に来たときに、玄関先で寝てたんだって。その子とずっと、ずっと一緒だったんだ」
癒し神と彼は何も答えずに、彼女の言葉を聞いていた。
「ニャー君って、いつも呼んでたの。なんかさ、私にすっごい懐いててね。いつもぴったりくっついてくるの。あ、白と茶の毛色でさ、尻尾はすらっとしてて長いの」
彼女は細く息を吐いた。
「先週にね、死んじゃったんだ。あのベッドの上で。凄い悲しいのに、私泣かなかったの。大好きで、大切な友達だったのに。だから、ね。私って、もしかしたらあの子のこと好きじゃなかったのかなって。大切じゃ……なかったのかなって」
彼女は月から目を逸らし、自分の膝へと視線を落とした。彼女と彼の視線が交差する。
「私、後悔してるんだ。ニャー君が死ぬ一週間前までさ、文化祭の準備で忙しくて、あんまりかまってあげられなかったの。帰ってくるのも遅くて、すぐに寝ちゃって。ニャー君と満足に話すこともできなかったんだ」
そこまで話すと、癒し神は彼女の頭を撫でる。
「慰めてくれるの?」
「その……すみません、わかりません。でも、辛いときに頭を撫でられると、私は安心します」
彼女の膝にいる彼が、微笑んだ。
「あんたのお母さんが、そうしてくれたの?」
「私は親の顔を知りません。教えてくれたのは、女神様です」
「女神様?」
「私の人生に意味をくださった方です」
「あんたの大切な人?」
「そう……かもしれません」
「大切な人だよ、絶対。あんたにとってはさ」
彼女の笑みには力がなかった。そして、お返しとでも言うように、彼女は癒し神の頭を撫でた。
「いつまでもあんたじゃ失礼だよね。癒し神って呼んでもいい?」
「はい」
「ありがと。あ、私のことは樹でいいからね。じゃ、寝よっか、癒し神ちゃん。明日は金曜日だし、学校から帰ってきたら、目一杯遊んであげる」
樹が立ち上がる直前に、彼はひらりと膝から降りる。そして、彼女はベッドに横になった。
「ほら、あんたもおいでよ」
「私は……もう少し話したいことがあるので」
「あはは。お月様とでもお話しするの?」
「……そう、です」
ちらりと彼を見て、癒し神はそう答えた。
「そっか。早めに寝なよ。あ、それとさ。癒し神って、パパとママには見えるの?」
「私は、癒しを求めている者にしか見えません。ですので、きっとあなたのご両親には見えないはずです」
「それなら安心かな。ゆっくりしていきなよ、癒し神。じゃ、おやすみ……」
大きくあくびをして、樹は瞼を閉じた。やがて樹は静かな寝息を立て始めた。
癒し神はまた月へと顔を向けた。
――僕とまだ話したいのかい?
「はい」
――何を話したい?
「樹さんのこと、教えてくれますか?」
――いいよ。そうだね、まずは彼女との出会いから話そうかな?
彼と癒し神は、穏やかな月光の中静かに、会話を重ねた。
思い出/4
それから、二人の生活は一週間ほど続いた。樹が学校に行っている間は、癒し神は小さな声で彼と会話をしていた。彼が気配をうまく察してくれたのか、彼女の両親に気付かれることもなかった。
樹が帰ってくれば夕食を取り、夜にはこっそり〝二人と一匹〟で話す。それが彼女らの日常となっていた。
「あんたさ、本当に口数少ないね」
そんなときに、樹は癒し神に話しかけた。癒し神は樹の足の間で、与えられたお菓子を食べている。
「癒し神ちゃんは何か話したいことってないの?」
そう言いながら樹は、癒し神の頭を撫でる。もぐもぐと口を動かしながら、癒し神は上向きに樹を見た。
「猫……みたいだね」
ほろりと、樹の頬を涙が伝った。
「え……なんで?」
涙は一粒流れ出すと、止まることはなかった。大粒の涙は、宝石のように輝いていた。癒し神と彼は目を大きく見開いた。
「あなたの涙は、綺麗です」
癒し神は樹と向き直り、彼女の涙を〝掬った〟。
「何言ってんのさ、あんた」
癒し神は、そのまま樹へと抱きついた。
「どうしたの、甘えん坊さん?」
樹は癒し神の抱擁に応えるように、少女を抱きしめた。
「泣かないでください」
樹の体が固まる。それは恐怖からではない。
「違う……の」
彼女は自身の後悔から体を強張らせているのだ。
「私、悪気はなかったの」
文化祭で疲れていただけ。別に悪気などない。彼は知っていた。それを責めるつもりなど、彼にはなかった。
「だって、あの時疲れてたから」
ぴんと、彼は尻尾を立てた。。
「だって……私……!」
最後の日だった。自分はこれで終わるのだと悟った日だった。最後に、彼女に抱きしめてほしくて、彼女に語りかけてほしくて、彼女の愛を全身に受け止めたくて。
――うるさいな! どっかに行ってよ!
けれど、彼女は彼を拒否した。何度呼び掛けても。触れ合おうと近寄っても、それに彼女が応えることは結局なかった。
「知らなかった……から!」
翌日、彼の命の灯は尽きた。
だが、彼は消えなかった。いいや、消えることができなかったのだ。心で泣き、後悔の念で押し潰されていく彼女を残していけなかったから。
「知ってたら、私だって……私、だって!」
彼は彼女と同じく涙を流した。
「知っていたら、何をしたのですか?」
癒し神を抱く樹の腕からは力が抜けていた。樹は両手をそのまま顔にやり、言葉を出さずに頷いた。
「大好きだから、大好きだったから! ニャー君に、ちゃんと伝えたい!」
ふわりと、何かが揺らめいていた。
――あぁ、樹。君は、もしかして僕と同じく……。
「大好きだよって。忘れないからって。今までありがとうって、ちゃんと伝えたい……!」
――僕と同じことを思ってくれていたのかい? 願ってくれるのかい? 嬉しいなぁ……ねぇ癒し神。僕の願いは、僕の癒しは、いま彼女が口にしたことなんだ。癒して、おくれ。
揺らめきは、光の渦となって〝彼〟の前で広がった。
「あなたの慈しみを、癒しましょう」
癒し神をそれに両手を差し出し、掬い上げた。
光を掬った癒し神は、それに優しく息を吹きかける。それは前方に広がったと思うと、徐々に形を成しながら収束していく。
「ニャー君……?」
光は彼に降りかかり、彼の形を映し出した。
――樹、ありがとう。僕みたいな化け猫を愛してくれて。ありがとう、大好きだよ、愛してるよ、忘れないよ。君のおかげで僕は、愛を知ることができたよ。
彼は樹の膝に前足をかけ、呟きながら彼女に擦り寄る
「ニャー君、私……!」
樹が何かを言う前に、彼を包む光はゆっくりと消えていった。
場はしんと静まり返った。
「嘘、でしょ……?」
愕然としながら、樹は癒し神を見つめた。
癒し神の顔はいつもと変わらない。真っ黒な瞳をただ樹へと向けている。樹の瞳からまた涙が零れ始めた。
「これじゃあ私、何もできてないじゃない! 癒されてなんかない……!」
樹は癒し神の肩を力強く掴んで叫ぶ。
「あんた神様なんでしょう! 人を癒せる神様なんだよね! だったらあの子を……私の大好きなニャー君を癒してよ! きっと辛い思いしてる、私に嫌われたんだって、きっと泣いている! あの子のために、癒してよぉ……」
癒し神の表情が、僅かに変化した。それは、強く心打たれた表情だった。
この樹という少女は、あの〝猫〟を心の底から愛しているのだ。
彼女が伝えたかったことは、真実だろう。でもそれは、自分の後悔を拭う為ではない。大好きな彼のために、伝えたかったのだ。大好きな彼が、安心して逝けるように。
――さぁ、癒し神。彼女も……癒しておくれ。
こくりと癒し神は頷いた。
樹の胸からは、徐々に大きくなっていく光の渦が見えている。それに、癒し神は再び両手を差し出し、掬い上げる。
「あなたの愛を、癒しましょう」
先程と同じように、癒し神はそれに息を吹きかける。すると、その光は部屋全体に広がり、部屋のいたる所に猫を形作った。
「これは……」
光が舞う部屋を、樹は見回した。
「あれは……初めて引っ搔かれたときだ」
光の滴は、彼女と彼の思い出を美しく綴っていった。
「一緒に寝てくれていたとき。泣いているのを慰めてくれたとき。一緒に遊んでいるとき……」
そして、樹の目の前により強く輝く光が猫の姿できちんと座っていた。それの表情はわからないが、じっと、樹の言葉を待っているようであった。
樹はその光に手を触れた。
「今までありがとう、あなたのこと大好きだよ、忘れないよ……だから、ゆっくり眠ってね……ニャー君」
――良かった。
彼は最後に一言、そう言った。
「あ……」
光はゆっくりと部屋へと吸い込まれていった。
「癒し神……」
「はい」
「ありがとう……」
「はい」
「私、あんたのことも大好きだからね」
頬をほんの少し紅潮させ、癒し神は頷いた。そして小さく、とても小さく呟いた。
「あなた方のこれからの旅路に祝福を」
「え、なんて……」
癒し神は、光と同じく輝いて消えていった。
思い出/彼の旅路
光として消え去った癒し神は、彼と共にいた。
――ありがとう、癒し神。僕は、君に救われたよ。
癒し神は首を振る。
「私には救うことはできません。人は人にしか、神は神にしか救えないと聞きました。私ができるのは、癒すことだけです」
――あぁ、そうだね。だから君は、僕を救うことができたんだよ。
癒し神は首を傾げた。
――僕はね、〝人〟でも〝神〟でもないんだよ。君と同じさ。
はっと癒し神は気付いた。女神の言う通りならば……人でも神でもないというのなら、彼を救えるのは当たり前だ。
はらりと、彼女の涙から一筋涙が零れた。
――あの女神も、随分と粋なことをするね。あぁ、感謝しないと。生きてて良かった。彼女とちゃんと別れられて、良かった。君に出会えて、良かった。ありがとう、癒し神。
彼は光となって消えていった。癒し神に、救いを残して。
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