第二章 大切な友達

第二章 大切な友達

   友達/1


 私には大切な友達がいた。その友達は私よりもずっと小さい友達だった。でも、私にとってはとても大きな存在だった。


 その友達は猫だ。名前は〝ニャー〟という。私が産まれて家に来たのと同時に、玄関先で寝ていたらしい。親は追い払おうとしたのだが、決して動こうとしなかった。母が屈んで、「ここはあなたのお家じゃないのよ」と言うと、ニャー(この時はまだ名前はない)は、きょとんと金色の瞳をぱちくりさせるだけだった。


 さてどうするかと両親が嘆息すると、赤ん坊の私は急にぐずりだした。母が私をあやそうとすると、ニャーは軽い身のこなしで母の肩に乗り、私をじっと見つめた。すると何故か私は泣き止み、また眠り始めたという。


 両親は二人同時に小さく笑うと、「あなたも家の子になる?」と母の肩に乗るニャーに声をかけた。ニャーは「にゃあ」と鳴いた。


 その鳴き声から、彼はニャーと名付けられた。不思議とニャーは、私の傍に常にいた。父にも母にも、彼は懐かなかった。時折泣きじゃくり、猫からすれば決して好まないような赤ん坊の私を、いつも気にかけているようだったと母から聞いたことがある。


 私の中にある最も古い思い出は、ニャーのお腹を枕に眠っていることだった。両親とは違う心臓の鼓動が、今思えば子守唄代わりだったのかもしれない。

 物心ついた頃には、よくニャーに遊んでもらっていた気がする。ニャーの尻尾をおもちゃのように手で追いかけたし、歩けるようになると追いかけっこもした。小学校に通い始め、初めてできた友達と喧嘩して落ち込んでいると、いつの間にか近くにすり寄ってくれた。私の大切なぬいぐるみをぼろぼろにされたこともあったけど、かまいすぎて引っ掻かれたこともあった。


 そんな、友達だった。兄のような、どこか父のような、そんな友達だ。

 そんなニャーが、昨日死んだ。

 野良だったこともあり正確な年齢はわからないが、少なくとも今の私の歳、十七以上であることは確かだった。

 死んでしまう数週間前から、普段よりも長く眠るようになり、わがままになった。私から離れることを極度に嫌がり、トイレやお風呂、通学路の途中まで付いて来たこともあった。眠る場所は必ず私のベッドの上で、どかそうとすると怒るように唸っていた。


 彼が死んだ当日、朝起きると私のベッドの上で丸まったままだった。声をかけるが、尻尾も振らなかった。体に触れてみると僅かに冷たかった。

 あぁ、逝ってしまったんだ。

 涙は出なかった。嗚咽も漏れなかった。自分自身が、とても冷徹な人間のように感じたのを、よく覚えている。

 土曜日だったこともあって、私と両親でペット葬を依頼し、彼を弔った。

 小さなお墓だった。

 ニャーが死んだことを改めて実感したが、どうしても……どうしても涙は出なかった。


   友達/2


 ぴぴぴ、と目覚まし時計の音が響いた。


「んー……」


 可愛らしいベッドの上で、もぞりと彼女は身じろぎながらどこかに手を伸ばしていた。おそらく目覚まし時計を探しているのだろうが、てんで見当違いの方向に彼女は手を伸ばしていた。


「んぁー……」


 やがて彼女は体を起こし、眠気眼で時計のボタンを押した。そしてそのまま自分の傍らに手を伸ばした。その手は何を見つけられず、彼女は小さくため息を吐いた。


「ん……」


 一瞬表情を曇らせたが、彼女は立ち上がってカーテンを開けた。

 良い天気だった。空は青く 、雲一つない快晴だ。


いつき、起きてるのー?」


 階下から、母の声が届く。


「起きてるー」


 寝巻のまま、彼女は階段を下りた。食卓では既に父が朝食を終え、コーヒーを嗜んでいた。


「朝ご飯はなーに?」


 キッチンの母を覗くと、フライパンには目玉焼きがある。テーブルに置かれているトースターの中では、食パンが程よく焼けていた。


「また目玉焼きとパン?」

「あのねぇ、あんたいつも朝はご飯食べきれないでしょ。だからこうしてるの」

「ママは面倒くさがりだなぁ」


 頬を膨らませながら、樹は椅子に座った。父はそっと、彼女にコーヒーを淹れて差し出した。「ありがと、パパ」と微笑みを浮かべてそれを受け取ると、彼女はそれを口に運んだ。


「パパのコーヒーは白米に合わないからなぁ」


 そんな憎まれ口をこぼすと、母はぺしんと樹の頭を叩いて、目玉焼きを彼女の前に置いた。


「パパに文句言うもんじゃないでしょ、馬鹿娘」

「褒めてるの! もうママは何にもわかってないんだから!」


 父はトースターからパンを取り、樹の皿に置くと立ち上がる。


「行ってくるよ」


 背広を着ると、父は頼もしい背中を母娘に向け玄関へと向かった。そのあとを追うように母は付いて行く。


「相変わらずバカップルだなぁ」


 パンと少し焦げた目玉焼きをもしゃもしゃと食べながら、樹は言葉を漏らした。


「ま、いいけどね。私は……」


 樹は足元にちらりと目を向ける。しかし、そこには何もなかった。軽く頭を振って、「ホント、馬鹿みたい」と樹は呟いた。

 朝食を終えた彼女は登校のために準備を整え始めたまずは洗面所で顔を洗い、寝癖を直す。胸ほどまでの長さの髪は、先端が僅かに丸まっており、それを指先で弄りながら、彼女は不貞腐れたような表情を浮かべた。そして、そのまま自室へと戻り、制服へと着替える。市内で人気の濃紺色のブレザーに着替えると、彼女は鞄の中を確認し、部屋を出た。


「行ってきまーす」

「はい、行ってらっしゃい」


 父の時と同じように、母は樹を玄関まで見送る。

 快活に笑いながら、彼女は出て行った。朝の一仕事を終えた母は、やれやれとでも言いたげに首の骨を鳴らし、朝食の片づけを行った。それが終わると二階の寝室へと向かう途中、樹の部屋のドアにちらりと視線を向けた。

 彼女の部屋のドアは、完全に閉まっておらず半開きであった。


「本当にあの娘ったら……」


 母は樹の部屋のドアをゆっくりと閉めた。



 樹が学校に着くと、方々から挨拶をされる。


「やっほー樹ー」

「よ、若神わかがみ

「相変わらず元気だなぁ!」

「おはよーっす」


 全員に笑顔を向けて、樹は挨拶を返していく。

 自分の教室に着くと、彼女の周りには人が集まりだす。それぞれが樹と何かを話そうと話題を振ってくる。


「もう、何なのさみんな。私、聖徳太子じゃないし」


 周囲を笑い声が包む。やがて始業の鐘が鳴り、皆はそれぞれの席に着いた。樹は、気付かれないようにふぅと嘆息した。

 授業は過ぎていき、気付けば昼の時間となっていた。


「樹、一緒にご飯食べない?」

「珍しいじゃん、由香里ゆかりしげるとご飯はいいの?」

「な、その、別に、毎日お昼一緒に食べるわけじゃないないし、それに……あんたが、元気なさそうだから」

「んー? 私の心配をするよりも、茂と仲良くしたほうがいいんじゃない、恋の実行委員?」

「樹、あんた親父臭い」

「え、何、ウソ? 私十七歳なんだけど。加齢臭するかな」


 樹は体を嗅ぐような仕草をして、由香里と呼ばれた少女から何とも微妙な表情を樹は向けられた。数瞬沈黙が場を支配したが、それをすぐに打ち破ったのは先ほど名前が上がった茂だった。


「由香里。さっさと行かないと中庭の場所取られるぞ」


 由香里の背中を軽く叩く茂の表情は温かく優しかった。そして、そんな彼に向ける由香里の表情も同じようであった。


「私の周りはバカップルばっかりですわ」

「な、ば、あん、た! ちが、違うし! べべべべべ、別にその、そんなじゃないし!」


 顔を真っ赤にして否定する由香里を、樹は面白がってからかう。


「ほーへーふーん。ねぇねぇ、文化祭から結構経つけどもうヤッた・・・の?」

「ホント親父臭い!」


 呆れるようにため息をついて、由香里は「ほらさっさと行くよ!」と言った。

 中庭はこの学校の人気スポットだ。

 少しでも昼休みを出遅れると、すぐに木陰などの場所は取られてしまう。


「もう、由香里がいちゃついてるから場所取られちゃったじゃーん」

「あんたねぇ……」


 こんな憎まれ口ばかり零している樹だが、由香里とは親友であった。家も近く、幼少の頃はよく二人で遊んでいた仲だ。

 二人は適当な場所に腰を下ろすと、弁当包みを開けた。


「ニャー君のこと、大丈夫?」

「んー……意外と大丈夫っぽい」


 たこさんウィンナーを口に運びながら、樹は言う。


「あんた、本当に嘘が下手」


 由香里は樹の頭を撫でた。


「……本当に大丈夫なの。なんかさ、不思議なくらいにね」


 微笑みを浮かべるが、樹の表情はどこか悲しげだ。


「話したいなって思ったときは、いつでも頼りなさいよ」

「うん、ありがと由香里」


 お弁当をぱくつきながら、樹は「そういえば」と言を繋ぐ。


「数学の宿題、見せて」

「……あったわね、そんなの」

「由香里も忘れたんだ」

「……早く食べましょう」

「そうだね」


 そんなことを言ったものの、二人の箸の進みは決して早くはなかった。



 授業が終わると、由香里が樹へと声をかけた。


「樹。これからカラオケ行くけど来ない?」


 由香里の後ろには茂がいた。茂は樹と目が合うと、僅かに口角を上げる。


「うむ。普段が物静かな分、こういった表情が目立たないのは勿体ない。隠れた名品といったところですな。由香里はよくやったわ」

「あんたさ、馬鹿なの?」

「あはは、ごめんごめん。今日はちょっと疲れてるからまた今度にするよ」

「あっそ」


 手を挙げて互いに別れの挨拶を簡単に済ませる。

 二人の背中を見送ると、樹はスマートフォンを取り出して時間を確認した。何もせずに帰るには早い時間であった。やはり由香里達と一緒に行けば良かったかもしれないと早速悔やむが、そうは言ってもと内心諦め彼女は学校を出た。

 自宅までは電車で数十分の距離であった。時間帯的には混んでおらず、席も空いていたが、彼女は座らずにドアの近くから風景を眺めていた。

 特に何かを考えていたわけではない。ただぼうっとしていただけの時間はあっという間に過ぎ、最寄り駅へと到着していた。改札を抜け帰路を辿る途中で、犬の鳴き声がした。樹は早足でその鳴き声がした方へと向かった。塀の隙間から見えたのは、飼い主と犬が戯れている光景だった。


「そう、だよね」


 深くため息をついて、彼女はまた歩き出した。

 途中に雑貨屋や服を見ていると、かなりの時間が経っていた。それのせいか、家に着く頃には、大分疲れ果てていた。その状態で彼女はドアノブに手をかけたが、玄関のドアは施錠されていた。


「そっか。今日はお母さん仕事の日か」


 ドアを鍵で開けると、彼女は靴を脱ぎそのまま自室へと向かっていった。ドアは完全に閉められていた。


「お母さんがやったのかな」


 彼女はドアを開いた。

 部屋に入ってすぐ、見かけたことのない少女が一人ちょこんと座っていた。

 樹は額に手をやり、目を少し目を瞑った。そしてゆっくりと瞼を開く。やはり、見たことのない少女はいた。

 その少女は現代とは似合わぬ恰好をしていた。

 濃紺の着物には、薄い空色の勿忘草模様が浮いていた。肌は死人のように白く、顔立ちは人形のように整っていた。黒い絹のような髪は、少女が首を傾げるとさらりと揺れる。


「あんた……どこから入ったの?」


 樹の言葉に、少女は黒い瞳を大きく見開いた。しかし、すぐに合点したかのように首を縦に振ると、樹の瞳をまっすぐに見つめ返した。


「私は癒し神です。あなたの心を、癒させてください」

「私を?」


 少女は首肯する。


「んー……」


 警戒心は完全に捨て去ってはいないが、樹は癒し神と名乗る少女に近寄った。

 何か変なことでもしてくるのではと思ったが、少女は何も警戒する様子を見せない。よく人に慣れたハムスターのようだと、樹は考えた。そっと、手を伸ばして少女の頭を撫でる。


「あぅ」


 わしゃわしゃと樹は頭を撫でた。指に絡む髪は細く小気味良い。


「触れる……へぇ、幻とか見間違いとか、そういうのじゃないんだ」


 しばらくそのようなことをしていたが、少女は全く抵抗を見せず成されるがままだ。そんな少女を見て、樹は小さく笑った。


「あはは、可愛いじゃんあんた」


 そして樹は少女を抱きしめた。


「あぅ」

「あぁ、ごめんごめん。で、なんだっけ?」


 少女を腕から解放すると、少女は頭をぷるぷると振った。その行動はハムスターではなく猫のようであった。


「あ……」


 樹は何かを言いかけたが、言葉にはせずに飲み込んだ。


「あなたの心を、癒させてください」


 突拍子もない一言を少女はまた口にした。それに彼女は一笑する。


「何それ、変なの。私は大丈夫だよ」


 少女の頭を、再度撫でながら彼女は言った。


「あなたは、泣いていますよ」


 少女の黒い瞳は、樹の心を見透かすようにじっと彼女に向けられている。

 どきりと樹の体が僅かに強張る。撫でるために伸ばしていた手をすぐに戻し、彼女は自分の頬に触れた。鏡を見ているわけではないのでしっかりと把握はできない。しかし、彼女の手には涙の感触はなかった。


「もう、何言ってるのさ?」


 少女は首を傾げながら、樹の頬に手をやった。少女の手は冷たかった。人間としての温度を感じられない。それはまるで〝死人〟のようであった。


「手、冷たいね……」


 触れられた手を樹は握り返す。少女は首を傾げたままだ。


「あなたは本当に、神様なの?」

「私は、神でも人でもありません。私は、ただ〝神〟という名前があるだけです」

「えーっと……とりあえず、不思議な存在なのね?」


 ざっくりと大きく分けつつ、樹は引きつった笑顔を向けていた。


「……はい」


 わかっているのかいないのか、少女は頷いた。


「はは! やっぱりあんた面白いね!」


 樹は一笑すると立ち上がった。


「まぁ私はあんたが言う癒しは必要ないよ」


 そのまま制服を脱ぎ、彼女は着替えを始めた。それを黙って、少女は見つめていた。


「ご飯用意してくる。あんたも食べるでしょ?」


 少女は曖昧に頷いた。

 それに返事はせずに、樹は微笑みを向けただけだった。そしてそのまま部屋を出て行った。残された少女は、完全に閉められていないドアを見つめ、僅かに目を伏せていた。

 階段を降りる途中で、樹はふと足を止めた。そこから丁度〝彼〟の寝床が見えたからだ。赤い猫用ベッド。彼はそこで昼間は眠っていた。誰かが帰ってくると、背伸びをして出迎えていた。そんな彼は、もういない。


「ホント、馬鹿みたい」


 口癖のようになってしまった言葉を呟いて、樹は階段を再び降り始めた。

 冷蔵庫を開けると、夕食のおかずがラップで冷やされていた。


「む。ピーマンが入ってる……うーん、あの子食べられるかな」


 それをレンジに入れて、樹は二人分の夕食準備を始めた。


「あの子、そもそも普通のご飯食べるのかな。なんだっけ、人間と神様だっけ? あれ、違ったかな」


 気の抜けた音が、レンジからする。


「ま、いっか」


 温めたおかずを盆に乗せ彼女はまた二階の自室へと向かった。ドアを開けると、少女はベッドをじっと凝視している。


「どうしたの?」


 小さなテーブルの上に夕食を置きながら、樹は少女に尋ねた。

 少女は不思議そうに、樹を見ていた。大きな黒い瞳を二度、三度と瞬きさせ、少女は「いえ、何でもありません」と簡単に答えた。樹は少女の言葉に首を傾げた。


「ま、いいか。ほら、食べよ」


 樹は少女に箸を渡すと、夕食を食べ始めた。少女は樹に倣うかのように手を合わせると、少しずつ夕食に手を付けていった。樹が心配していたピーマンに対しても、特に苦手意識はないのか、バランスよく夕食を口に運んでいく。

 やがて器が全て空になると、樹は空いた食器をシンクに置きに向かうと、すぐに自室へと戻って、学習机へと向かい宿題を解き始めた。

 少女を無視しているわけはないが、樹にとって少女は気にならない存在であった。沈黙が苦にならない存在と言おうか。会って間もないというのに、樹は少女に対して居心地の良さを抱いていた。それが、〝神〟という存在だからだろうか、と樹は勝手に考え、納得をしていた。

 気付けばかなり時間は経っていた。いつの間にか樹は机に突っ伏して眠っていた。

 机の時計を見ると、既に夜の十時を過ぎていた。普段の彼女ならばこのままバラエティ番組でも観て眠りに就くのだが、今日はそんな気分ではないようだった。


「寝よ」


 大きく体を伸ばすと、樹はベッドを見た。ベッドを背にしながら、少女が頭をこくりこくりと上下させながら、眠っていた。

 その姿を見て微笑みを浮かべ、樹は少女の頭を撫でる。少女は瞬間何が起きたのか理解できないような顔をしたが、眠気の方が勝ったのかまた瞼を閉じた。


「可愛いやつ」


 樹は少女を優しく抱きかかえた。思っていたよりも軽いことに驚いたものの、少女をベッドへ寝かした。


「おやすみ、癒し神さん……」


 電気を消すと、樹もまたベッドへと寝転がった。



   友達/■■■



――ねぇ、樹。泣かないで。


 誰……?


――泣かないで……。


 あなたは、誰なの?


――僕のために、泣かないで。


 泣いてないよ。私は、泣いてないよ。


――僕は……


 ねぇ、誰なの、あなたは?


――樹。君にはきっと、僕の声も想いも届かないけれど。


――僕は、君のことが……。


 待って! 行かないで!



   友達/3



 自身の心臓の鼓動で、樹は目を覚ました。部屋はまだ暗い。彼女は体を起こして目覚まし時計を見た。早朝の三時。彼女はため息をついた。


「嫌な夢……」


 はて、と彼女は宙を見た。

 なぜ〝嫌な夢〟と思ったのか、彼女にはわからなかった。恐ろしい夢を見たわけではないのに、何故そう言ったのか。


「もう一回寝よ」


 体を横にしようとすると、あの少女がベッドにいないことに気付く。

 どこに行ったのだろうと首を回すと、少女はバルコニーに続く窓の前で座っていた。

 少女の視線は上へと向いている。


「あんた、何してんの?」


 ゆっくりと、少女は樹へと顔を向ける。左の瞳に、小さく月が映っている。


「月を……見ていました」


 少女は答える前に僅かに視線を落としたが、すぐに樹へと向け直す。


「あ、カーテン閉めてなかったっけ」


 樹はベッドから降りて少女の左隣へと腰を下ろした。


「あ……」

「ん? 何?」

「いえ」


 少しの間、二人は月を眺めていた。綺麗な満月であった。周りには星がちらほらと見える。


「私、さ。猫を飼ってたんだ」


 ぽつりと、樹は語り始めた。


「ニャーって名前なの。私が産まれてこの家に来たときに、玄関先で寝てたんだって。その子とずっと、ずっと一緒だったんだ」

 少女は何も答えずに、樹の言葉を聞いていた。


「ニャー君って、いつも呼んでたの。なんかさ、私にすっごい懐いててね。いつもぴったりくっついてくるの。あ、白と茶の毛色でさ、尻尾はすらっとしてて長いの」


 樹は細く息を吐いた。


「先週にね、死んじゃったんだ。あのベッドの上で。凄い悲しいのに、私泣かなかったの。大好きで、大切な友達だったのに。だから、ね。私って、もしかしたらあの子のこと好きじゃなかったのかなって。大切じゃ……なかったのかなって」


 樹は月から目を逸らした。


「私、後悔してるんだ。ニャー君が死ぬ一週間前までさ、文化祭の準備で忙しくて、あんまりかまってあげられなかったの。帰ってくるのも遅くて、すぐに寝ちゃって。ニャー君と満足に話すこともできなかったんだ」


 そこまで話すと、少女は樹の頭を撫でる。


「慰めてくれるの?」

「その……すみません、わかりません。でも、辛いときに頭を撫でられると、私は安心します」

「あんたのお母さんが、そうしてくれたの?」

「私は親の顔を知りません。教えてくれたのは、女神様です」

「女神様?」

「私の人生に意味をくださった方です」

「あんたの大切な人?」

「そう……かもしれません」


 少女の答えは曖昧だ。いや、曖昧という言葉は正確ではない。少女にとっては〝大切な人〟という意味がわからないのかもしれない。


「大切な人だよ、絶対。あんたにとってはさ」


 樹は力のない笑みを浮かべると、少女の頭を撫でる。


「いつまでもあんたじゃ失礼だよね。癒し神って呼んでもいい?」

「はい」

「ありがと。じゃ、寝よっか、癒し神ちゃん。明日は金曜日だし、学校から帰ってきたら、目一杯遊んであげる」


 樹は立ち上がると、ベッドに横になる。


「ほら、あんたもおいでよ」

「私は……もう少し話したいことがあるので」

「あはは。お月様とでもお話しするの?」

「……そう、です」

「そっか。早めに寝なよ。あ、それとさ。癒し神って、パパとママには見えるの?」

「私は、癒しを求めている者にしか見えません。ですので、きっとあなたのご両親には見えないはずです」

「それなら安心かな。ゆっくりしていきなよ、癒し神。じゃ、おやすみ……」


 大きくあくびをして、樹は瞼を閉じた。やがて穏やかな眠気が樹を包み、彼女を眠りへと誘った。

 静かに寝息を立てる樹を見つめていた癒し神は、また月へと顔を向けた。



   友達/4



 それから、樹と癒し神の生活は一週間ほど続いた。樹が学校に行っている間は、癒し神は静かにしていたらしく、彼女の両親に気付かれることもなかった。

 樹が帰ってくれば夕食を取り、夜にはこっそり二人で話す。話す、というよりは樹が一方的に話をしているだけなのだが。


「あんたさ、本当に口数少ないね」


 そんなときに、樹は癒し神に話しかけた。癒し神は樹の足の間で、与えられたお菓子を食べている。


「癒し神ちゃんは何か話したいことってないの?」


 そう言いながら樹は、癒し神の頭を撫でる。もぐもぐと口を動かしながら、癒し神は上向きに樹を見た。


「猫……みたいだね」


 ほろりと、樹の頬を涙が伝った。


「え……なんで?」


 涙は一粒流れ出すと、止まることはなかった。

 大粒の涙は、宝石のように輝いていた。


「あなたの涙は、綺麗です」


 癒し神は樹と向き直り、彼女の涙を〝掬った〟。


「何言ってんのさ、あんた」


 癒し神は、そのまま樹へと抱きついた。


「どうしたの、甘えん坊さん?」


 樹は癒し神の抱擁に応えるように、少女を抱きしめた。


「泣かないでください」


 樹の体が固まる。それは恐怖からではない。


「違う……の」


 彼女は自身の後悔から体を強張らせているのだ。


「私、悪気はなかったの」


 文化祭で疲れていただけ。別に悪気などない。


「だって、あの時疲れてたから」


 一回だけだ。ニャー君を邪険にしたのは、一度だけ。一度だけだ。


「だって……私……!」


 親友である由香里に、少しだけの苛立ちをぶつけた日だ。彼女の横暴に文句を言って、家に帰った。いつも以上にすり寄るニャー君に、樹は暴言を吐いた。


――うるさいな! どっかに行ってよ!


 その日、樹は彼に触れることも、声をかけることもなかった。彼はしきりに樹との触れ合いを求めたが、それに彼女が応えることは結局なかった。それが、最後だったというのに。


「知らなかった……から!」


 翌日、彼はベッドの上で冷たくなっていた。

 いつものように太々しく鳴くこともないし、友達と喧嘩をしても慰めてもくれない。夜、寒い日に一緒に寝てもくれない。それに気付いても彼は戻ってこない。それだというのに、彼女は涙すら流せなかった。


「知ってたら、私だって……私、だって!」


 それ以上の言葉を樹は口にできなかった。どのような言葉を並べても、自分が彼にした仕打ちは消えないから。


「知っていたら、何をしたのですか?」


 癒し神を抱く樹の腕からは力が抜けていた。樹は両手をそのまま顔にやり、言葉は出さずに頷いた。


「大好きだから、大好きだったから! ニャー君に、ちゃんと伝えたい!」


 ふわりと、何かが揺らめいていた。


「大好きだよって。忘れないからって。今までありがとうって、ちゃんと伝えたい……!」


 揺らめきは、光の渦となって樹の目の前に広がった。


「あなたの慈しみを、癒しましょう」


 癒し神をそれに両手を差し出し、掬い上げた。

 光を掬った癒し神は、それに優しく息を吹きかける。それは前方に広がったと思うと、徐々に形を成しながら収束していく。


「ニャー君……?」


 光は猫の形になった。その猫は樹の膝に前足をかけると、彼女に擦り寄る。


「ニャー君、私……!」


 樹が何かを言う前に、その光はゆっくりと消えていった。

 場はしんと静まり返った。


「嘘、でしょ……?」


 愕然としながら、樹は癒し神を見つめた。

 癒し神の顔はいつもと変わらない。真っ黒な瞳をただ樹へと向けている。樹の瞳からまた涙が零れ始めた。


「これじゃあ私、何もできてないじゃない! 癒されてなんかない……!」


 樹は癒し神の肩を力強く掴んで叫ぶ。


「あんた神様なんでしょう! 人を癒せる神様なんだよね! だったらあの子を……私の大好きなニャー君を癒してよ! きっと辛い思いしてる、私に嫌われたんだって、きっと泣いている! あの子のために、癒してよぉ……」


 癒し神の表情が、僅かに変化した。それは、強く心打たれた表情だった。

 この樹という少女は、あの〝猫〟を心の底から愛しているのだ。

 彼女が伝えたかったことは、真実だろう。でもそれは、自分の後悔を拭う為ではない。大好きな彼のために、伝えたかったのだ。大好きな彼が、安心して逝けるように。

 こくりと癒し神は頷いた。

 樹の胸からは、徐々に大きくなっていく光の渦が見えている。それに、癒し神は再び両手を差し出し、掬い上げる。


「あなたの愛を、癒しましょう」


 先程と同じように、癒し神はそれに息を吹きかける。すると、その光は部屋全体に広がり、部屋のいたる所に猫を形作った。


「これは……」


 光が舞う部屋を、樹は見回した。


「あれは……初めて引っ搔かれたときだ」


 光の滴は、彼女と彼の思い出を美しく綴っていった。


「一緒に寝てくれていたとき。泣いているのを慰めてくれたとき。一緒に遊んでいるとき……」


 そして、樹の目の前により強く輝く光が猫の姿できちんと座っていた。それの表情はわからないが、じっと、樹の言葉を待っているようであった。

 樹はその光に手を触れた。


「今までありがとう、あなたのこと大好きだよ、忘れないよ……だから、ゆっくり眠ってね……ニャー君」


――良かった。


 光がそう語ったように樹は感じた。


「あ……」


 光はゆっくりと部屋へと吸い込まれていった。


「癒し神……」

「はい」

「ありがとう……」

「はい」

「私、あんたのことも大好きだからね」


 頬をほんの少し紅潮させ、癒し神は頷いた。そして小さく、とても小さく呟いた。


「あなた方のこれからの旅路に祝福を」

「え、なんて……」


 癒し神は、光と同じく輝いて消えていった。

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