第一章 比翼を失う

第一章 比翼を失う

   比翼/1


――死んだ。呆気なく、死んだ。結婚の約束をしたのに。来週は二人で式場を見に行く予定だったのに。彼は死んだ。交通事故で。子供を救おうとして、トラックに轢かれて死んだ。私の目の前で。死んだんだ。


 彼女……相模 由香里さがみ ゆかりは、ぶつぶつと呟いていた。部屋はがらんとしており、ダンボールが何個も積まれていた。そのダンボールは完全に封がされておらず、まだ詰め込んでいる途中のようだ。

 彼女は部屋の隅で、毛布に包まり座っていた。膝を抱え、ぶつぶつと独り呟く。


「死んだ。死んだ。なんで、死んだ?」


 彼女は下唇を強く噛んだ。血が滴る。


「なんで、なんで……?」


 由香里の婚約者、斉藤 茂さいとう しげるは、先週亡くなった。交通事故であった。信号無視をしたトラックから子供を助けようと道路に飛び込んだ。子供は助かったが、運転手と茂、二人は即死だった。

 その事故は、彼女と引っ越す予定の物件を決めた日に起きたのだった。通夜も、葬式も、告別式も、何もかも彼女の記憶にはない。ただ、最愛の人が死んだという事実が、沈黙の刃として突き刺さる。

 彼女は大きくため息をついた。

 このままじゃあいけないのだ。自分はここから強く立ち直らなくてはいけない。それが……それがこの国の〝常識〟なのだから。


「そうよ……まずはご飯を、ご飯を、作らな、きゃ」


 無理矢理笑顔を作って、彼女は立ち上がろうとした。その時に、彼女の視界の隅にて、〝異様〟なものが映った。


「え……?」


 部屋の反対側の隅。そこに、今までの自分と同じように座っている〝少女〟がいた。身に着けている華美な装いは、淡い桃色を主とした着物だ。大小様々な桜の花が刺繍されている。髪は黒く、肩までの長さ。顔立ちは整っており、目は大きくぱっちりとしている。しかし、その瞳から生気はほとんど感じられない。


「だ、れ?」


 由香里は掠れた声で少女へと問いかける。彼女のその問いに、少女はゆっくりと首を傾げた。その動作はからくり人形のようにぎこちない。


「誰なの……?」


 由香里の体が恐怖から強張った。それを知ってか知らずか、少女は立ち上がって彼女へと歩み寄る。距離を開けようとした由香里だが、決して広いとはいえない部屋では逃げられる場所も限られ、由香里は壁際へと追いやられる。


「何なの、あなたは!」


 由香里が大声を上げると、少女はぴたりと歩みを止めた。


「私は、〝癒し神〟です。あなたの心を、癒させてください」

「はぁ?」


 少女は首をまた首を傾げた。

 由香里は、背筋に氷を入れられたようにぞわりと震えた。


「……気持ち悪い」


 由香里の口から漏れた言葉は率直なものだった。それが相手を傷付けようとも、彼女は今他人を気に掛ける余裕などはなかった。しかし、少女は何も反応は見せなかった。生気のない真っ黒な瞳を彼女に向けている。


「何……あんた。何しに、来たの?」


 目を細め、再度確認するように少女に言う。


「私は、〝癒し神〟です。あなたの心を、癒させてください」


 全く同じことを少女は繰り返した。


「癒す? 私を? あんたみたいな意味不明な奴が?」


 少女は首肯する。


「はは、ふざけないで……」


 怒りが、由香里の胸に確かに灯った。


「ふざけないでよ! たった今現れたばかりの、私の……私の幻如きが! 私を癒すなんて、癒すなんて簡単なこと言わないでよ!」


 由香里は身近にあるものをこの少女へと投げ始めた。いくつかが少女へと当たり、少女は身を屈めて頭を抱えた。


「あんたみたいな! 奴なんかに! 私を!」


 由香里はダンボールからガラス製の花瓶を渾身の力で投げつけた。それは少女には当たらなかったが、壁に当たり大きな音を立てて砕け散った。


「癒せるわけないでしょうが!」


 大きく肩で息をする由香里と対照的に、小さく肩を震わせながら少女は彼女を見つめていた。


「消えてよ」


 小さく、だがはっきりと由香里は口にする。しかし、少女は震える体で首を振った。


「消えなさいよ!」


 大声を上げると、由香里はその場でぺたりと座り込んだ。


「消えてよぉ……これ以上、私を駄目にしないでよ……」


 今まで怒りに取り憑かれていた彼女は、大粒の涙を流し始める。


「いやぁ……何でこんなことになるの? 私、何かした? 何で私ばっかりこんな目に遭うの?」


 そんな彼女の様子を見て、少女はゆっくりと四つん這いで彼女に近付く。


「私を癒すって言うのなら、茂を甦らせてよ……」


 赤くなった瞳を少女へと向け、呪いを吐くように由香里はそう言った。


「私には、人を甦らせることはできません」


 無感情に、少女は返す。


「甦らせなさいよ……甦らせろ! うぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 悲痛な叫びが、部屋に響き渡った。


   比翼/2


 気付けば由香里は眠っていた。どんなに体と心は疲弊していても、長い生活で身に着いた早起きの癖はそう簡単に失われない。社会人としての性とは悲しいものだ。


「仕事……行かなきゃ。昨日で慶弔休暇も終わりだし」


 不自然に片付けられた部屋から、彼女はスーツを探す。ダンボールの山の中でもガーメントバッグはすぐに見つかった。中を確認すると、スーツはあったがブラウスが入っていなかった。由香里は小さく嘆息して、ブラウスを探した。場所に見当は付いているのか、一つのダンボールを開け、適当なものを取り出した。

 部屋着を脱ぐと、由香里はスーツへと着替えた。そして、洗面所へと向かい自分の顔を確認した。


「ひどい顔……」


 目は赤く腫れ、頬がむくんでいた。営業として働いている由香里にとって、これは死活問題でもあった。


「こんな顔で仕事に行っても、駄目だよね……」


 言い訳するように呟くと、彼女はスマートフォンを取り出した。時刻は六時四十五分。普段ならとっくに家を出ている時間だ。由香里は溜息をつきながら、自分の上司へと今日も休むことをメールで伝えた。メールの返事はすぐに来ないことは知っていた。彼女が勤めている会社のほとんどの人物は、勤務時間になるまでこのような類のメールの返事はよこさない。オンオフの切り替えが大事だから、と無能な上司が言っていた都合の良い悪習が未だに残っているのだ。


「もう一度、寝よ。ちゃんと、布団で」


 幸い、布団はすぐに取り出せるようになっていた。彼女はまた部屋に戻り、今度は布団を探した。すると、そこに見慣れない塊が転がっていた。

 幼いころから大切にしているぬいぐるみだろうか。

 彼女はそう思い、それを足蹴にする。


「あぅ」


 その塊はもぞりと動いた。

 あぁそうだ。

 彼女は昨日の出来事を、はっきりと思い出した。壁を見ると、花瓶を投げた跡が残っており、近くには破片が散乱していた。


「夢じゃ、なかったんだ」


 塊はゆったりと起き上がり、彼女を見た。

 真っ黒な生気のない瞳は、眠そうに微睡んでいた。


「あんた、幻じゃなかったんだ」


 冷たい声で由香里は少女に言う。少女はこくりと首肯した。


「はい」


 少女の声は小さく、儚かった。


「……あの、私はあなたを癒しに……」


 弱々しく少女は言葉を紡ぐ。しかし由香里はそれを鼻で笑う。


「はっ。昨日も言ったでしょう。茂が生き返ったら、私はそれで癒されるの。出来るもんならやってみてよ」

「私には、そのようなことはできません。それに……」


 少女は一旦言葉を切って。


「人間は死んだら蘇りません」


 誰もが知っている真実を告げた。


「知って……るわよ、そんなこと!」


 由香里は反射的に手を上げた。彼女が思ったよりも強く、少女は吹き飛ぶ。


「あんたみたいな化物なんかに言われなくても!」

「ごめんなさいごめんなさい……」


 少女は頭を抱えてそう言った。その様子を見て更に苛ついたのか、由香里は再度手を上げた。先程よりも強く少女は叩きつけた。


「この!」

「お願い、です。もう叩かないでください……」

「何なのよ、あんたは!」


 何度目かの問いかけを由香里は叫んだ。そして、少女は決まって答える。


「私は、〝癒し神〟です……あなたの心を、癒させてください」

「そういうことを聞いているわけじゃないって、いつになったらわかるの!?」


 癒し神と名乗り続ける少女は、逡巡し言葉を繋ぐ。


「私は……あなたを、癒したいのです」


 少女は真っ直ぐに由香里の眼を見て答える。由香里は僅かに体をびくつかせた。

 少女の瞳は変わらず黒い。生気のない瞳には、確かに恐怖の色が映っている。しかし、しかしだ。それしかない。あの少女には、恐怖……いや、〝暗い感情″しかないのだ。〝希望〟などない。このまま終わるとも思っていない。これ以上の苦痛が訪れることを、〝覚悟〟している。それが、由香里にとっては気に入らない。

 何故絶望しているのか。何故〝今〟与えている恐怖以上の恐怖を、少女は感じているのか。


「あんたは何で……そこまで怯えているの?」


 私を、どこまで恐れているの? 〝まだ〟平手しかしていないじゃない。

 そんなエゴを由香里は抱いた。


「私が……これ以上何をするっていうのよ!」


 今度は恐怖されることに怒り、由香里は更に強く少女を叩いた。弾けるような激しい音がすると共に、少女は倒れた。


「え?」


 それに一番驚いたの由香里自身だ。遅れて、彼女の右手がじんわりと熱を持って痛みだす。


「何、よ。そんなに強くなんて、私……叩いてなんか……!」


 少女の心配をするよりも先に、彼女は自己弁護に入る。倒れている少女はぴくりとも動かない。由香里の呼吸は早く、荒くなっていく。

 もしかして、殺してしまったのか?

 そう思った刹那、ぴくりと少女の体が動いた。由香里は安堵のため息を漏らした。


「何やってんのよ、私は……」


 彼女は額に手をやり、頭を二度振った。そして、ゆっくりと布団を引き、そこに少女を寝かせた。

 罪滅ぼしのつもりか。

 自分が自分を糾弾する声が、胸の内から聞こえた。その通りよ、と由香里は胸中で返した。


「ごめん、ね……」


 少女の頭をそっと撫でて、由香里は洗面所へと向かった。そこでタオルを濡らして、少女の頬にそっと当てた。


「私だってこんなこと、したくないのに……」


 自己嫌悪に苛まれ、由香里は涙を流した。


「茂が生きていれば、こんなことにならないのに……」


 ぽろりと、涙は少女へと零れた。


   比翼/3


 本来の由香里は優しく、快活な女性であった。中性的な容姿の彼女には、学生時代から男女問わず多くの友人がいた。その中には、今はもうこの世に存在しない茂もいた。

 高校時代に偶然文化祭の実行委員を一緒にやることになったことから、彼女らの交流は始まった。

 どちらかと言えばリーダーシップを取る由香里と、口数が少ない茂。動と静。水と油。二人は対極の性格であったが、中々上手くいっていた。しかし勿論不満はあった。

 そんなある日のことだ。由香里はクラスメイトの皆に指示を出したが、中々上手く纏まらない。苛立ちから声を荒げ、彼女は教室を後にした。教室を出た彼女は職員室へと向かおうとしていたが、途中で必要書類を鞄に忘れたことを思い出した。

 あのように声を荒げた後に戻るのは非常に忍びないが、彼女は職員室へと向けていた足を再度教室に戻した。

 教室の前に戻ってくると、中では何か言い争いをしていた。由香里はすぐに教室へは入らず、少し扉の前で聞き耳を立てた。


「なんであんな偉そうに言われなきゃいけないわけ!」


 一人の女子が大声を上げた。


「すまない。あいつも忙しすぎて少し言葉が悪くなっただけだ」


 聞き慣れない男子の声がフォローを入れた。


「でもよぉ、ありゃあないぜ! なんだよ、たかが実行委員なだけじゃねぇか」


 ぎゅっと、由香里は唇を一文字に結ぶ。


「そうだな。たかが実行委員だ。でもな、それならお前が代わってやれよ」


 また、フォローが入る。


「いや、そういうこと言いたいんじゃなくてよ……」

「わかってる。相模もわかってるよ。あいつだって、みんなと楽しくやりたいだけなんだ。今回だけは目を瞑ってくれないか? 頼むよ」

「ったくよぉ……〝茂〟はいっつも相模の味方だもんな」


 由香里をフォローしていたのは、茂であった。


「あぁ味方だよ。俺はあいつの味方だ。そんで、俺と相模、お前たちは敵じゃない。仲間だ。な、頼むよ。協力してくれ」

「もう……斉藤くんがいなかったら、由香里のわがままも許してないんだからね、いっつもいっつも」


 ぶつくさと文句は出ていたが、すぐに教室に活気が戻った。がらりと、もう一つの扉が開いた。

 そこから出てきたのは茂だった。茂は由香里を見つけると人差し指を上に立てて、微笑んだ。〝上に行こう〟と言った気がした。由香里は頷いた。

 階段の踊り場で由香里は腕を組んで、茂の言葉を待った。茂は困ったような笑みを浮かべ、肩を竦めた。


「お疲れ、実行委員」


 彼には似合わない、おどけた仕草。笑うことも、馬鹿にすることも由香里にはできなかった。


「あんたがいつもああやってフォローしてくれてたの?」


 声は僅かに上擦っている。


「いつもはクラスのみんなに俺が文句を言われる方だ」


「嘘。嘘は嫌い」

「いつもじゃない。それは本当だ」


 少しの静寂。


「ありがとね……茂」

「あーっと……由香里。お前は今まで通りでいいから。しんがりは俺が何とかする」

「何、しんがりって?」


 茂は大きくため息をついた。


「えーっと、まぁ背中を守ってやるって意味だ。今度辞書で調べろ」


 それから、由香里は茂が気になり始めた。何をしていても、茂を目で追ってしまう。誰かと話していても、茂のことを思ってしまう。それが恋だと気付くのに、時間などかからなかった。

 文化祭が終わったと同時に、由香里は茂に告白していた。口数の少ない茂は、「よろしく頼むよ」と頬を掻きながら、彼らしくそう言った。

 付き合いは、高校卒業、大学卒業、社会人と長くまで続いた。時折大きな喧嘩もしたが、別れたいなどと思ったことはなかった。失うことなど、微塵も想像できなかった。

 それは勿論、彼が事故に遭って救急車に乗った時でも、だ。

 それなのに……それなのに、茂は死んでしまった。



 由香里は少女の頭を優しく撫でた。少女の黒髪は上等な絹のように繊細で、美しかった。


「癒し神……か。本当に私を癒してくれる?」


 ぱちりと、少女は目を開けた。


「おはよ。と言っても、十分ぐらいしか経ってないけどね」


 少女は由香里を見て、二度、三度と目をぱちくりさせる。何が起きたかを少女は考えるように、視線を泳がせた。


「さっきは……ごめんね。もう叩かないから、許して」


 そっと少女の頬に手を触れた。冷やしていたとはいえ、頬はまだ赤く熱を持っている。由香里の頬をまた涙が伝う。


「あ……泣かないで、ください」


 少女はその涙を拭おうと手を伸ばした。


「どうして、あんたはあんなことをした私に……」


 由香里は差し出された手を両手で掴み、大粒の涙を更に流し始めた。


「ごめんね……ごめん、ね……」


 少女の優しさに、彼女は胸を強く打たれた。

 驚いたろう。痛かったろう。恐ろしかったろう。

 急に大声を出され。物を投げつけられ。気絶するほど平手を打たれ。それなのに、そのようなことをした人間の涙を拭おうとした。この少女と比べると、自分はどれだけ矮小かを、由香里は思い知らされた。


「〝他人ひと〟の涙は、悲しくなります」

「そう、ね。そうよね、ごめんなさい。えーっと……癒し神、だっけ?」

「はい。私は癒し神です。あなたの傷を、癒しに来ました」


 辛そうに笑みを浮かべ、由香里は頷いた。


「その……あんたには悪いんだけど、私は癒されちゃいけないの」


 大切な恋人を失った。その傷は忘れてはいけない。それは癒されてはいけない。言葉にはしていないが、その意図は少女にも伝わっていた。


「どうして、癒されてはいけないのですか」


 少女は驚いたように質問を投げる。苦しんでいるのに。悲しんでいるのに。何故癒されてはいけないのか。それが少女にはわからない。


「茂が……可哀想だもの」


 自分の大切な人。その人のためにも、彼女はこの傷を癒さない。


「この傷を忘れることは、彼を忘れることだから」


 由香里は言葉を一旦切り、大きく深呼吸する。


「だから、ね。私は癒されてはいけないの」

「違います」


 少女は……癒し神ははっきりとそう言った。


「それは、違います」


 癒し神は言葉を繋ぐ。ゆっくりと、丁寧に。言葉を一つ一つ選びながら。


「傷ついたのなら、辛いのなら、その傷は忘れてもいいんです」


 真っ直ぐに、由香里を見つめて。


「私には、大切な人を失うという痛みも苦しみもわかりません。でも、あなたを見てわかることはあります」


 癒し神の瞳に涙が溜まる。


「あなたの傷は、忘れてもいいんです。大切な人のために残しておく傷なんて、いらないんです」


 癒し神のその言葉は、由香里は閉じ込めていた気持ちを揺らがせた。


「どうして……そう思うの?」

「私には茂さんがどういった人かはわかりません。でも、傷付いた人を見て、喜べる人などいないはずです。傷付いた人を見るのは、辛い……ことですから」


 そこまで言葉を発した癒し神は、自分の胸に手をやって思い出す。

 自分のせいで傷付いた人を見て、喜ばしかったことなど一度もなかった。罪悪感は決して消えない。


「私には、大切な人はいません。でも、もしいたのなら、笑っていてほしいです。幸せになってほしいです」


 癒し神の瞳からは、涙が零れていた。

 由香里はそんな癒し神の瞳をじっと見つめ返し、言葉を返した。


「何で、あんたが泣くのさ」

「あなたの心が、悲しいからです」

「馬鹿……」


 由香里は少女を抱きしめた。

 忘れるつもりなどない。いや、容易く忘れて良いものではない。そんな薄い日常を、由香里と茂は過ごしていない。

 だから、この思い出は忘れない。でも、失った痛みに永遠に苦しもうとするのは、もう〝忘れよう〟。それはきっと、茂が悲しむから。今までの思い出全てを、悲しくさせてしまうから。


「ねぇ……あなたは、私を癒してくれるのよね?」


 由香里は、彼女から体を離して向き合った。


「はい。あなたが望む癒しを口にしてください」


 由香里は、大きく深呼吸する。


「強くなりたいの。死んだ彼を忘れる強さじゃない。忘れないで、彼と共に一緒に進める強さを」


 彼女の眼前に、光が現れた。それは静かな水面のように、穏やかで美しかった。癒し神は、それを真っ直ぐに見つめて頷いた。そしてその光にそっと両手を差し出し、掬い上げた。


「あなたの苦しみを、癒しましょう」


 掬い上げた光に、癒し神はふうっと優しく息を吹きかけた。すると、その光は黄金の滴となって目の前で広がり、徐々に人の形を成していった。


「し……げる?」


 その光は、由香里の頭を撫でるように動き、呟いた。


――大丈夫。お前なら、前に進めるさ。お前が幸せになれるように俺も祈るから。


 光の滴は拡散すると、由香里の胸の内へと吸い込まれていく。由香里は、自分の胸に両手を当てた。

「私は、茂との恋を、あの愛を覚えている。忘れるわけがない。この思い出は絶対に忘れない。ありがとう、今まで私と一緒に歩んでくれて。ありがとう、私を支えてくれて。私はきっと、大丈夫。あんたとの思い出が……私を支えてくれるもんね」

 由香里は癒し神を見た。癒し神の瞳には涙は浮かんでいなかった。その瞳は、慈しむようにこちらを見つめていた。


「幽霊、呼べるんだね……神様って」


 癒し神は首を振る。実際に霊を呼び出したわけではない。部屋に僅かに残っている茂という人間の気配、思念残滓。それらが形を得て、由香里に語りかけただけだ。


「私にはそのようなことはできません。でも、きっと……茂さんという方は、そう言ったでしょう」


 もし茂という人間が存在しているのなら、ああ言うに決まっているから。それは予想でも期待でもない、確信だ。

 癒し神の言葉に、由香里は笑みを浮かべて頷いた。その笑みを見ると、癒し神はゆっくりと姿を消していく。


「ありがとう……私を、癒してくれて。ありがとう。茂を……悲しませないでくれて」


 由香里の言葉に、癒し神はこくりと頷いて、消えていった。

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