癒し神

南多 鏡

第零章 誰が為の命

第零章 誰が為の命

 冷たい雨。暗い空。ぬかるむ大地の上で、私は倒れていた。土からは、僅かに焼けたような匂いがした。


「死ぬ……のかな」


 雨に叩かれ揺れる雑草が、霞んで見えた。


「走馬灯……見えないかな」


 そう零しても、振り返るような人生ではなかった。ただ無為に生きてきた。何もない、けれど最底辺を這っていくような人生。とても、無意味な人生。

 誰にも必要とされず。

 誰をも必要とせずに。


「もう、いっか」


 私が死のうと、誰も悲しまない。私一人死のうと、この世は問題なく回っていく。

 今思い返してみれば、生き辛い世の中だった。金がなければ何も食えず、働こうと思っても力がないと唾を吐かれた。体を売ろうとしても、買う余裕のある者が誰も近くにいなかった。屋根のないところで寝るのは当然で、今目の前にあるような雑草で腹を満たしたこともあった。それに飽きれば石を食べた。人から奪うこともした。でも、殺されかけたこともあった。


「〝誰か〟は必要だったのかな」


 誰かがいないと、食い繋げない日もあったのだから。


「はは……つまんない……つまんない……人生、だったなぁ」


 僅かに残っていた体の熱が失われていく。心臓の鼓動は徐々に弱まっていく。


「やっと、眠れる……」


 起きることのない眠り。動物に起こされることもないし、蚊に刺されることもない。謎の腫れに悩まされることも、きっともうない。


「起きなさい」


 幻聴が聞こえる。


「起きなさい、哀れな子よ」


 もうやめて。私をこのまま眠らせて。このまま起こさないで。


「起きなさい」

「やめて、このまま死なせて」

「それを許すことはできません」


 温かい手が、私の頬に触れた。あまりにもそれは心地よくて、私は涙というものを久しぶりに流した。


「あと少しだけ、生きなさい。あなたのその無為な生に、私が意味を与えましょう」


 ゆっくりと顔を上げる。それだけで、体中が軋むようだった。

 顔は上半分が仮面で隠されているため判断はできないが、声からして女性だろう。髪は黒く長い。隠されていない口元は、穏やかな印象を感じさせた。


「生きなさい。あと、少しだけ」

「もう、無理だよ」


 温かい手が、また私の頬に触れた。


「あなたの生に、意味を……」


 体の中から心を取り出されるよう感覚のあと、瞬間意識が途絶えた。だが、すぐに意識は戻った。


「私は……」


 ふわりと体が浮いていた。眼下には、自分らしきものが横たわっていた。頬はこけ、痩せすぎて目がぎょろりとしている。肌は土気色で、生気を感じられない。触れようと手を伸ばすが、意志とは反対に体は徐々に上昇していく。


「あれは、私、ですか?」

「そうです。あれはあなたです。悲しみに塗れ、絶望を生きたあなた自身です」


 彼女は悲しそうだった。彼女はゆっくりと、私の頭を撫でた。


「私があなたを〝掬い〟ましょう」

「私を、助けてくれるの?」


 こんな私でも、彼女は救ってくれるというのか。


「いいえ。私ではあなたを救えません。私は〝掬う〟のです。あなたに残された極々僅かな生を」

「どういう、ことですか?」

「あなたの最後に意味を与えましょう」


 彼女は、深く息を吸い込み、細く息を吐いた。


「人を癒すという、意味を」

「私が人を……癒す?」


 私の額に、彼女の唇が触れる。そして抱きしめられた。


「無理だよ……私には人を癒すことなんて、できない」


 だって、自分一人も癒せないのに。どうやって他人を癒せるというのだ。


「大丈夫。あなたならきっと」


 彼女の言葉が、すとんと胸の内に落ちた。根拠もないのに、不思議と出来てしまうように感じた。


「どうすれば、いいの?」


 生まれて初めて、他人から優しい声をかけられた。生まれて初めて、他人の唇に触れた。生まれて初めて、他人に抱きしめられた。だから……最後ぐらい、誰かのために、何かをしても、いいよね。


「それは〝癒され人いやされびと〟に会えばわかります」

「癒され人?」

「これからあなたが出会う、癒しを求める……人々です」


 彼女の鼓動が一つ、大きく鳴ったように思えた。


「私に、本当に出来るの?」

「あなたなら、きっと。これからあなたは人ならざる者となって、人々を癒すのです」

「私は……何になるのですか?」

「私と同じ、〝神〟に近づくのです」

「あなたは、神様なのですか?」

「そうです。私は、あなた方が神という存在の一つです」


 彼女は……女神は、小さく首肯し涙を一筋、仮面の下から流した。


「あなたはこれから人ではなくなる。だから、人は救えない。ですが、人でもあるから、傷を癒すことができるのです」

「救うことは、できないのですか?」


 癒すよりも、人はきっと救いを求めるから。癒しはきっと、忘れられてしまうから。


「人を救うことは、人でしかできません。我々は、〝掬う〟のです」


 彼女は私から両手を離した。そしてその両手で、水を掬う動作をしてみせた。

 あぁ、なるほど。掬うとは、そういうことだったのだ。


「僅かな可能性を。その痛みに絶望しない可能性を。それが、癒すということです」


 彼女は、私を再び抱きしめた。


「あなたなら、できます」


 ほろりと、また私の瞳からは涙が流れる。


「あなたは、涙を流せる〝人〟なのですから」


 私は、本当に、生まれて初めて、大きな声を上げて泣いた。


「必要な知識は、最低限与えます。その朽ちる寸前の容姿は、あなたが本来得られたものにしてあげましょう」


 光が私を包む。

 その光が収束すると、彼女は鏡らしきものを私に見せた。本当に自分かどうか疑わしい者が、そこには映っていた。


「行きましょう……〝癒し神いやしがみ〟」

「癒し、神?」

「今後あなたはそう名乗りなさい」

「はい……」


 こうして私は、〝神〟として、〝人〟として、死の間際で生まれ変わった。

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